少し前のことであるが、BSNHKでビートルズ初期の映画を放送していた。深夜だったので録画をして、最近になってそれを見た。ビートルズが初めてアメリカで公演をした1964年のドキュメント映画であった。40年以上も前のもの。それを見ながら、なぜビートルズを最初あまり快く思っていなかったのか、その理由が少し分かった。それはバイアスのかかった、つくられた報道の影響であった。
私が十代の後半には、ビートルズの人気が日本でも話題となっていた。1966年に来日した時も、テレビを見て、音だけをテープに録音したりしたが、熱心にビートルズを聴くファンではなかった。ビートルズに本格的に興味を持ったのは1969年から。彼らが解散寸前にリリースしたLET IT BEEを聴いてからである。それから昔に遡るようにビートルズを聴き始めた。ビートルズマニアには二つのパターンがある。デビュー当時から引き込まれていく人と、解散近くになってビートルズに嵌まり、初期へと戻って聴くという人、の二つ。私は典型的な後者のパターン。初期のビートルズになぜ距離置いていたのか、その理由が今頃になってようやく気付いたのである。
その映画は伝説となったエド・サリバン・ショーへの出演を軸に、アメリカでの生公演をドキュメントしていた。公演合間のプライベートな様子も映し出している。40数年ぶりに見た若者の姿は、当時、感じていた印象とかなり違っていた。自分が歳をとったからという理由ではない。プライベートの時とインタビューなどで見せる姿が全く違うからだ。当時、この映画は日本で公開されていなかったと思う。
ビートルズが日本で紹介された時、いい印象ではなかった。長髪、エレキ、自由奔放、若者の悪い要素をすべて持っているという報道が中心であった。ところが映画に映し出されるビートルズはきちんとネクタイをつけたスーツ姿の好青年であった。話題となった長髪も今からみれば、それほど長くはない。いわゆるマッシュルームカットであるが、かなり地味なものに見える。だが、インタビューに答える彼らは違っていた。質問にはまともに答えない。まさに不良青年そのもの。その訳を映画の中でハリソンが語っていた。「どこに行っても同じ質問。まるでテープレコーダーだよ。そんな質問にまともに答えるのは疲れるからね。彼らは僕らのことを何も知らないよ、驚くくらい」
わかる気がした。記事を書く一般誌の記者たちはいわゆる大人。彼らがビートルズに興味を持ったとしてもそれはセンセーショナルなことに対するもの。音楽などそっちのけであった。服装のこと髪のこと、何が好きか、今日何食べたか、などなど。何とか見出しになることを答えさせようとする。そんなことにまともに答える彼らではなかった。適当に話す。床屋に行ったのはいつ?なんて質問に正直に答えるわけがない。面白おかしく話せばまだいいが、適当な話をする。それを読まされる我々は、同じ世代の人間として抵抗を覚えていく。また、抵抗を感じさせるような書き方をしていた。もちろん音楽誌は少しニアンスが違うと思うが。なんてふざけた奴らだという、最初に受けた印象がその後もずっと続く。
(ポールの死亡説が流れた、アビーロードのジャケット)
ビートルズ報道は否定的な文言が多かった。反社会的な印象を与えることが多かった。それは本国イギリスでも当初はそうであったと聞いた。イギリスで人気が急上昇してもアメリカではあまり反応がなかったのはこうした風潮に影響されていたはず。それを払拭したのが1964年のエド・サリバン・ショーだった。ここからビートルズはアメリカでも人気が沸騰する。この翌年から世界ツアーに出かけるようになり、日本にも来日(1966年)する。
当時の日本もビートルズにはかなり否定的であった。日本公演の会場となった武道館では、その使用に反対運動さえ起きている。当時のNHKは長髪エレキバンドを絶対に出演させない放送局であった。不良の音楽、青少年に悪影響のある音楽というレッテルを貼っていた。記者の目から見たビートルズとはそういう存在であった。私はそうした報道の影響をもろに受けていた。
考えて見れば、当時のジャーナリズムがどれほど音楽に詳しいかわかったものではない。不良の若者が世界中で人気となった。こんな若造が!という思いが記事となる。音楽の話などそっちのけで、髪のこと、服装のことを話題にする。悪く書かなくても印象は如実に表れる。影響されやすい私など、自然とビートルズに距離を置いていた。当時、女子高校生のアイドルであり、そんな音楽を聴けるかという反発もあった。まさにマスコミ報道と、世間という得体のしれない評価に左右されていたのである。それは、世間体とかいうものを気にする心の自縛であった。
LET IT BEEを聴いて自縛が解けた理由は正確にはわからない。ただ当時、自分が見つけられず、苦しんでいた時期であった。GET BACKもTHE LONG and WINDING ROADも、1969年の私にとっては闇の中の光に感じられた。これを作ったポールがこの時、他の三人とすれ違い、悩みの中でこれらの曲を作ったことを知ったのはずっと後のことである。
いい歳になってからリバプールを訪れた。ビートルズの青春の光と影が、ペニーレーンやストロベリー・フィールドに感じた。その時1969年の自分とようやくつながった。
(LET IT BEのジャケット。私のビートルズ物語はここから始まった。今では再生もできなくなったLP版であるが、CDにはない味がある)
私が十代の後半には、ビートルズの人気が日本でも話題となっていた。1966年に来日した時も、テレビを見て、音だけをテープに録音したりしたが、熱心にビートルズを聴くファンではなかった。ビートルズに本格的に興味を持ったのは1969年から。彼らが解散寸前にリリースしたLET IT BEEを聴いてからである。それから昔に遡るようにビートルズを聴き始めた。ビートルズマニアには二つのパターンがある。デビュー当時から引き込まれていく人と、解散近くになってビートルズに嵌まり、初期へと戻って聴くという人、の二つ。私は典型的な後者のパターン。初期のビートルズになぜ距離置いていたのか、その理由が今頃になってようやく気付いたのである。
その映画は伝説となったエド・サリバン・ショーへの出演を軸に、アメリカでの生公演をドキュメントしていた。公演合間のプライベートな様子も映し出している。40数年ぶりに見た若者の姿は、当時、感じていた印象とかなり違っていた。自分が歳をとったからという理由ではない。プライベートの時とインタビューなどで見せる姿が全く違うからだ。当時、この映画は日本で公開されていなかったと思う。
ビートルズが日本で紹介された時、いい印象ではなかった。長髪、エレキ、自由奔放、若者の悪い要素をすべて持っているという報道が中心であった。ところが映画に映し出されるビートルズはきちんとネクタイをつけたスーツ姿の好青年であった。話題となった長髪も今からみれば、それほど長くはない。いわゆるマッシュルームカットであるが、かなり地味なものに見える。だが、インタビューに答える彼らは違っていた。質問にはまともに答えない。まさに不良青年そのもの。その訳を映画の中でハリソンが語っていた。「どこに行っても同じ質問。まるでテープレコーダーだよ。そんな質問にまともに答えるのは疲れるからね。彼らは僕らのことを何も知らないよ、驚くくらい」
わかる気がした。記事を書く一般誌の記者たちはいわゆる大人。彼らがビートルズに興味を持ったとしてもそれはセンセーショナルなことに対するもの。音楽などそっちのけであった。服装のこと髪のこと、何が好きか、今日何食べたか、などなど。何とか見出しになることを答えさせようとする。そんなことにまともに答える彼らではなかった。適当に話す。床屋に行ったのはいつ?なんて質問に正直に答えるわけがない。面白おかしく話せばまだいいが、適当な話をする。それを読まされる我々は、同じ世代の人間として抵抗を覚えていく。また、抵抗を感じさせるような書き方をしていた。もちろん音楽誌は少しニアンスが違うと思うが。なんてふざけた奴らだという、最初に受けた印象がその後もずっと続く。
(ポールの死亡説が流れた、アビーロードのジャケット)
ビートルズ報道は否定的な文言が多かった。反社会的な印象を与えることが多かった。それは本国イギリスでも当初はそうであったと聞いた。イギリスで人気が急上昇してもアメリカではあまり反応がなかったのはこうした風潮に影響されていたはず。それを払拭したのが1964年のエド・サリバン・ショーだった。ここからビートルズはアメリカでも人気が沸騰する。この翌年から世界ツアーに出かけるようになり、日本にも来日(1966年)する。
当時の日本もビートルズにはかなり否定的であった。日本公演の会場となった武道館では、その使用に反対運動さえ起きている。当時のNHKは長髪エレキバンドを絶対に出演させない放送局であった。不良の音楽、青少年に悪影響のある音楽というレッテルを貼っていた。記者の目から見たビートルズとはそういう存在であった。私はそうした報道の影響をもろに受けていた。
考えて見れば、当時のジャーナリズムがどれほど音楽に詳しいかわかったものではない。不良の若者が世界中で人気となった。こんな若造が!という思いが記事となる。音楽の話などそっちのけで、髪のこと、服装のことを話題にする。悪く書かなくても印象は如実に表れる。影響されやすい私など、自然とビートルズに距離を置いていた。当時、女子高校生のアイドルであり、そんな音楽を聴けるかという反発もあった。まさにマスコミ報道と、世間という得体のしれない評価に左右されていたのである。それは、世間体とかいうものを気にする心の自縛であった。
LET IT BEEを聴いて自縛が解けた理由は正確にはわからない。ただ当時、自分が見つけられず、苦しんでいた時期であった。GET BACKもTHE LONG and WINDING ROADも、1969年の私にとっては闇の中の光に感じられた。これを作ったポールがこの時、他の三人とすれ違い、悩みの中でこれらの曲を作ったことを知ったのはずっと後のことである。
いい歳になってからリバプールを訪れた。ビートルズの青春の光と影が、ペニーレーンやストロベリー・フィールドに感じた。その時1969年の自分とようやくつながった。
(LET IT BEのジャケット。私のビートルズ物語はここから始まった。今では再生もできなくなったLP版であるが、CDにはない味がある)
もしかしたら原曲はこれかと。でも多分違うんですよね。両方とも好きな曲です。
「ほっといてくれ!」という意味を持つこのタイトルは印象的です。
私が一番好きな曲は、The LONG and WINDING ROADです。今でもこの歌はいいと思います。仲間とうまくいかないポールの悩みが今でも伝わります。