民事裁判の記録(国賠)・自衛隊車とバイクの交通事故の民事裁判

1・訟務検事の証拠資料のねつ造など不法な弁論。
2・玖珠署の違法な交通犯罪の捜査,虚偽の実況見分調書の作成

30-1:訴訟カ裁判ヲ為スニ熟スルトキ

2010-02-21 07:33:52 | 第4訴訟 第2審 被告大分県
「訴訟カ裁判ヲ為スニ熟スルトキ」について  
                       太田勝造
      一 はじめに
      二 裁判への成熟の二つの側面
      三 情報状態としての裁判への成熟
      四 手続保障の充足としての裁判への成熟
      五 おわりに
                    
      一 はじめに
 民事訴訟法一八二条は「訴訟カ裁判ヲ為スニ熟スルトキハ裁判所ハ終局判決ヲ為ス」と規定し、いかなるときに
口頭弁論を終結して判決をなすかの基準として、「裁判をなすに熟するとき」という概念を用いている。この基準
は一部判決・中間判決においても用いられている(一八三条・一八四条)。以下では便宜上この概念を「裁判への成
熟」と表現することにする。
 ところで、この裁判への成熟の判断はちょうど事実の認定における「自由ナル心証」二八五条)と同様に裁判
官の内心の判断であり、実務の知恵に委ねられていた面が少なくなかったと思われる。しかし、審理の終結に際し
ては、正しい裁判、迅速な裁判の要請と手続保障要求をめぐって、裁判所、原告ならびに被告の三者間、さらには
当事者とその訴訟代理人を区別しての五者間で利害の一致と対立が複雑に入り組むのであり(多数の当事者をもつ
訴訟では一層複雑となる)、裁判への成熟とはそれら各人の利害の調整という役割を担った概念であるということが
できるのである(後述)。そこで、本稿は、そのような裁判への成熟という概念について、その意義と機能を検討
しようとするものである。
      二 裁判への成熟の二つの側面
 「訴訟が裁判に熟するとき」という概念は、旧民事訴訟法(二二五条~一二七条)においても、さらに、テッヒョ
ー草案(三七一条~二七三条)においても同様に用いられており、ドイツ民事訴訟法に由来するとされる。しかし、
日本の立法者がこの概念をいかなる内容として考えていたかを知るてがかりは乏しい(1)。むしろ、あまりに当然
明白な内容であるとして問題にもされていなかったといえよう(2)。
 学説においても、裁判への成熟は自由心証と同じく裁判官の内心の判断であり、具体的事案に即して裁判所の自
由裁量で判断されるべきことがらであるとされているので、そもそも理論的検討の対象として正面から取り上げら
れる可能性も少なかったといえよう。
 このようなわけで、裁判の成熟の内容についての直接的な議論はそれほど展開されているわけではなく、むしろ、
従来の議論は、裁判に熟するときについての判断が原則としては裁判所の裁量・専権事項であると前提し(3)、その
裁判所の判断に対する当事者の関与・介入をどこまで、そしてどのような形で手続的に認めるかを議論していたと
評価することができよう。弁論終結の可否の判断に対する当事者の介入・関与の形態としては、弁論再開の申出や、
審理不尽・釈明権不行使の違法を根拠とした上訴の方法などが考えられる。また、弁論の終結そのものをめぐって
は、たとえば、双方当事者の欠席の期日にそのまま弁論を終結することができるかとか、双方当事者に訴訟追行の
熱意が見られないような場合に弁論を終結して判決をなしうるかというような形で、裁判への成熟に対する原審の
判断の妥当性が問題とされうるであろう。このような、裁判への成熟の判断を前提とする手続追行の各場面で、当
事者の権利をどこまで認め、裁判所と当事者の間の役割分担をどのように規整するかという形で議論されていたと
考えられるのである。
 まず、従来の説明としては、たとえば兼子博士は、
 「審理の結果、訴え(又は上訴)の不適法であること、或いはその適法である場合には、原告の請求(又は上訴
人の不服の主張)の当否に関して終局的な判断が可能な状態に到達したことを指す。そのためには、当事者の提出
した攻撃防禦の方法を審査し(訴訟要件にして職権探知をすべきものは、職権探知に基づく資料をも加えて)、こ
れにより確定し得ない資料の不足は、主張責任及び挙証責任の分配の原則で補って判断する。当事者においてそれ
以上新たな攻撃防禦の方法を提出すれば、その結論が左右される可能性のあることは、裁判に熟したことを妨げる
ものではない。(現代仮名使い・用字に改めた)(4)
と述べられ、また、小室教授は兼子博士と同趣旨の説明に続けて、
 「当事者がそれ以上の新たな攻撃防禦方法を提出すれば、その結論が左右される可能性のあることは、裁判に熟
したことを妨げるものではないが、それは攻撃防禦方法を提出する機会がありながら当事者が提出をしない場合か、
釈明権の行使により提出を促したにもかかわらず提出しない場合のことである。……裁判をするに熟するには、提
出された事実関係を、場合によっては釈明権の行使によって(一二七〔条・筆者〕)、完全に解明することが、必要に
して十分な条件である……訴訟判決の場合と本案判決の場合とでは多少の差異があり、前者の方が比較的容易に判
明する場合が多い。」(5)
と述べられる。
 このような従来の説明から、筆者には、裁判への成熟という概念の内容に二つの側面を区別することができるよ
うに思われる。すなわち、事案を完全に解明すること、あるいは訴訟資料の充実という面の説明から窺われるとこ
ろの審理の結果たる情報状態としての側面と、釈明権の行使や攻撃防禦方法の提出の機会が論及されていることか
ら窺われるところの審理における手続保障としての側面の二つを区別することができると思われる。
 双方当事者が欠席の期日にそのまま弁論を終結しうるかをめぐる議論においては、手続進行における裁判所の職
権性や訴訟促進の要請と、当事者の手続保障の要請とをどのように調整するかが問題とされる。裁判への成熟が訴
訟の情報状態のみを問題とするのであるなら、訴訟促進の要請から、裁判所が裁判をなすに熟すると判断するかぎ
り、実質的な口頭弁論が一回も開かれなくても直ちに弁論を終結して判決をすることができることになろう。しか
し、学説も実務も一般にこのような考え方はとらず、双方欠席での弁論の終結には、当事者に訴訟進行の熱意がな
いような場合であることを要請している(6)。たとえば、井上(正)教授は、
 「要するに、具体的な訴訟運営の上で、両当事者欠席のまま行なう弁論終結は、無闇に抜ぎ放ってはならぬ『伝
家の宝刀』と見るべきものである。したがって、これを用いうるのは、すでに十分な主張・立証がつくされて後に
当事者双方が欠席した場合、あるいはまた、当事者双方が何度か欠席し、十分な主張・立証がつくされたわけでは
ないけれども、新たな攻撃防禦方法が補充されるとも思えぬ場合などに限られ、しかも、いずれの場合も、他に示
談等が進められているわけでなく、当該訴訟の判決によらねば紛争は解決できぬ、と見られる事例に限られねばな
らない。」(7)
と述べられる。当事者双方の欠席での弁論終結とは、当該訴訟に最も直接の利害を持つ両当事者が望んでいないに
もかかわらず裁判所の判断のみで終結に踏み切ることであり、単に事案が解明されたという意味で裁判に熟してい
るだけではなく、それ以外の、審理の機会を裁判所が一方的に打ち切ることを正当化するような事由、たとえば両
当事者に訴訟追行の熱意がないなど、を要求しているのが学説の暗黙の前提といえそうである。ただし、この場合、
用語として裁判への成熟に手続保障としての側面を含めず、裁判に熟するとともに手続保障にも反しないという形
で要件を掲げる場合も見られる(8)。
 終結した弁論の再開(民訴一三三条)の判断は裁判所の専権事項とされ、当事者には弁論再開の申立権はないと
解されてきた(9)。裁判への成熟の判断が裁判所の裁量に委ねられていると解されていることのコロラリーである。
なぜなら、再開の中立権を当事者に認めることは、弁論終結の判断、すなわち裁判に熟するとの裁判所の判断に対
する当事者の関与・介入を認めることになるからである(ただし、もし再開申立権を認めても、その要件を口頭弁論終
結後の事由ないしそれと同視しうる事由に基づく場合のみに限定するなら、論理的には終結時の裁判所の裁判への
成熟の判断自体に対する異議申立権を認めたことにはならない)。
 ところが、最近、当事者の弁論再開申請を無視して弁論の再開をしないことが違法となる場合があることを認め
る最高裁の判決が出て(10)、議論が展開し始めている。弁論再開制度の趣旨を立法当時の学説のように弁論終結後、
裁判所が事案の解明が不十分である、裁判をなすに資料が不足していると判断したとぎに、さらに審理を続けるた
めだけの制度であると考える場合には(11)、弁論終結の判断、ひいては裁判への成熟の判断の内容は訴訟の情報状
態としての解明の程度が十分であるか否かのみであることになる。しかし、従来学説においては、一定の場合には
弁論の再開をしなくてはならない場合かあるとの主張もなされていた。たとえば、第一審において当事者が弁論期
日に欠席したので、裁判所は一四〇条三項を適用すべきものとして弁論を終結した場合、当事者から再開の申立を
し、その理由として期日に欠席したのは病気、汽車の事故等正当の事由によることを主張してこれを疎明したよう
な場合には裁判所は再開をなすべきであるとの主張があった(12)。
 前記の最高裁判決でも、弁論を再開しないことが、明らかに民事訴訟における手続的正義の要求に反する場合に
は弁論の再開をなすべきであると判示した。事案は、土地の所有者が無権代理人を通じてその上地を購入した被告
に対して所有権登記・抵当権設定登記等の抹消登記を求めた訴訟で、控訴審の口頭弁論終結直前に原告が死亡し、
無権代理人が原告を包括承継して原告の地位についたが、訴訟代理人がいたため訴訟は中断せず終結され、その後
に被告は原告の死亡を知って弁論再開を申請したが原審はそのまま被告敗訴の判決を言い渡したというものである。
最高裁は、いったん終結した弁論を再開すると否とは当該裁判所の専権事項に属し、当事者は権利として裁判所に
対して弁論の再開を請求することができないが、この裁判所の裁量権も絶対無制限のものではなく、弁論を再開し
て当事者にさらに攻撃防禦の方法を提出する機会を与えることが明らかに民事訴訟における手続的正義の要求する
ところであると認められるような特段の事由がある場合には弁論を再開すべきであると一般論を展開したうえで、
被告の再開申請の理由(原告が死亡し、無権代理人が相続すると無権代理人自ら法律行為をしたのと同様の法律関係
を生ずるとの主張)は判決の結果に影響を及ぼす可能性のある重要な攻撃防禦方法であり、これを提出する機会を与え
られないまま敗訴すると既判力により被告は登記の回復をはかることができなくなるが、被告が原告の死亡を知ら
ず、かつ、知らなかったことにつき責めに帰すべき事由はないのであるから、被告にこの主張を提出する機会を与
えないまま被告敗訴の判決を言い渡すことは民事訴訟における手続的正義の要求に反すると判断した。この「民事
訴訟における手続的正義の要求」を基準に弁論再開の要否を判断するということは、弁論の終結における裁判への
成熟の判断において、当事者の手続保障が十分なされたといえるかの点も事案が解明されたかの判断とともに考慮
されるべきことになろう。
 これらの学説・判例を受けて最近、以下の場合に弁論再開の申立権を認める論稿が出ている(13)。すなわち、
 ①釈明義務を尽くさなかった場合など裁判所が自己のなすべき手続上の義務をたったため、当事者に適正な弁論
をする機会を失わしてしまった場合、
 ②裁判所が口頭弁論終結後、不明な点を職権による嘱託調査手続(民訴法二六二条)によって調べ、その結果を
斟酌しようとする場合、
 ③審理を担当した裁判官が、口頭弁論終結後、判決原本完成前に、死亡ないし更迭された場合、
 ④当事者が再審事由を主張して弁論再開を申請する場合、
 ⑤判決の遮断効の及ばない事実を主張して弁論再開を申請する場合、
 ⑥口頭弁論終結後、故意または重大な過失なくして主張しえなかった新事実を主張するため弁論の再開を申請す
る場合、
 これらの場合には、裁判所に弁論を再開すべき義務が生ずると論ずる。ここにおいても訴訟の情報状態たる解明
の程度が不十分であることだけではなく、当事者の弁論の機会を保障する必要かおる場合など、手続保障の要素も
重視されており、これらが弁論再開要件であるとすることは、逆に弁論終結要件である裁判への成熟の判断の内容
としてもこれら二つの側面から考えるべきことになろう。
 そこで、これら二つの側面を以下では筆者なりに若干敷衍してみたいと思う。