伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ぼくらの戦争

2022年10月11日 | エッセー

 「ぼくら」の対語は「かれら」である。はっきり言うと、ウクライナ戦争は「ぼくらの戦争」ではなく「かれらの戦争」である。TVでウクライナの戦況を伝えない日はない。新聞も雑誌も日本中のジャーナリズムが挙げて事細かに伝えている。ナガサキに続く3度目の核攻撃の危機も含めて……。
 だが、依然としてウクライナの戦争は「かれらの戦争」である。なぜか? 8.167キロメートルの距離ゆえか。いや、そうではあるまい。陳腐な言い方だが、「こころの距離」ではないか。
  作家 高橋源一郎は近著「ぼくらの戦争なんだぜ」(朝日新書、今年8月刊)でこう綴った。
〈「戦争」について知ろうとすること。それは、ぼくたちの「過去」について知ろうとすることだった。つまり、ぼくたちが、どこから来たのかを知ろうとすることだった。どこから来たのかがわからなければ、どこにも行くことはできないのだ。幼いぼくが、親戚たちがする「戦争」の話に無関心だったのは、それが「彼らの戦争」に思えたからだ。ぼくには無関係な、遠い世界での「戦争」に思えたからだ。けれども、「彼らの戦争」について考えながら、それは、いつの間にか、「ぼくらの戦争」について考えることに変わっていった。それがなぜなのか。「ぼくらの戦争」とはなになのか。そのことについて考えた。そして書いた。〉
 高橋源一郎は作家である。彼はその難題に戦争の言葉から迫った。
〈教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。〈(同書カバーから)〉
 太宰の「秘密のサイン」は圧巻だ。冗長ではあるものの、この作家の炯眼が冴え渡る。
 東大教授 加藤陽子氏は
〈思想ではなく感覚で「日常」を感受せよ──。もう始まっているかも知れない「戦争」への手立てを著者は渾身のことばで説いた。〉
 と、推奨の辞を寄せている。
 書中、ドイツの哲学者カール・ヤスパースの箴言が引かれている。
〈その事実(引用者註・ナチスによる蹂躙)を忘れ去るということはまさしく犯罪である。このことを人々は絶えず思い出すべきである。このことが実際に起こり得たということは、なおかつ、それはいつでも起こり得るということである。ただ真実を知ること、このことのうちにのみ、かかる悲劇的な運命を回避する可能性が秘められているのである。〉
 高橋源一郎のこの作品は「ただ真実を知る」ために費やされた労作である。──それは解る。だが、ウクライナの戦火は未だ熄(ヤ)まない。世界中の「かれらの戦争」が「ぼくらの戦争」に変位するまでは、人類の宿痾との至難の攻防はつづく。しかし見果てぬ夢と打っちゃるわけにはいかない。その夢にしか人類の愚かな自死を避ける『夢』はないのだから。 □