伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

AIの大穴

2021年06月16日 | エッセー

 人工知能については右顧左眄しつつ何度も触れてきた。「スイッチを切っちまえば終わり」と養老孟司先生のように超大胆にはいかずとも、ふとヤツの大穴がこの出来の悪い頭に浮かんだ。浮かんだから書き留める。とんでもない誤解であったとしても、ド素人の浅慮であったとしても、庭の踏み石の一つぐらいにはなるかも知れないから。
 AIとは、「コンピュータを使って、学習・推論・判断など人間の知能の働きを人工的に実現したもの」とされる(岩波国語辞典)。切り詰めて言えば、人間の頭の機械化だ。パワーショベルが腕を機械化し人力を遙かに超えるパワーを生み出したように、頭の働きを代替し極大化しようというわけだ。この夢の機械がいよいよ実現するシンギュラリティーが2045年前後だという。
 AIの肝はディープラーニングである。対象を巨細なく関連付けてより深くさらに深く学習していく。深層学習という。これをヤツは自分でやる。だからスゴいのだ。こんな手間仕事は人間には手に負えない。しかし只でできるわけはない。元手がいる。それがデータ、それも飛切りのビッグデータだ。
 さて、お立ち会い。この元手に問題がある。といって、玉石混淆だからといっているのではない。そんなものはヤツは簡単に選別してしまう。ベルトコンベアを高速で流れる食品がAIによってあれよという間に不良品が弾かれるように。でも、AIはそんなことには無頓着である。むしろ玉石併せネタにしてしまう。清濁併せ呑み込んでエントロピーの材料にしてしまう。ヤツは貪欲だ。ビッグデータを漁りまくる。
 繰り返すが、このビッグデータに問題がある。
 ディープランニングの元手であるデータは時空において地球規模であろうとも、すべて過去に起こったデータである。将来量子コンピュータが本格稼働しビッグデータの質と量に革命的進歩があったとしても変わることはない。人類誕生、あるいは地球誕生以来のあらゆるデータを収集して学習・推論・判断することも理論的には可能である。だがしかし、ビッグデータは過去・現在のデータである。そこに限界があることはつとに指摘されてきた(他に身体性を持たない思考への懐疑もあるが、それは措く)。それはその通りだが、このぼんくら頭に浮かんだ大穴はそれではない。
 過去に起こってもよかったこと、起こり得たこと、何かの弾みで消えたこと、思念には浮かんだが実行されなかったこと、意図的作為的にもみ消されたこと、忖度されたこと、改竄されたこと、または改竄される前のこと、つまりデータにならなかったデータは“掬い”ようがないのである。これはまことに“救い”難い本質的欠陥、構造的欠損、大穴ではないか。
 何時どこで誰が何を買ったかは判っても、買うかどうか迷った品物や事情は判らない。買った物は掴めても買い控えた物は把持できない。
 一人の人格に準えてみよう。出生からの行動暦から視・聴・嗅・味・触の五感はデータ化できるだろう(量子コンピュータでも使えば)。さらにその先に行って意識をも学習・推論・判断できるかもしれない。
 だがもう一回、お立ち会い。意識の基底にある無意識、潜在意識はどうなる? ホモ属として分岐してから250万年、サピエンスとして歩み出して以来20万年もの間に蓄積された類的データはどうなる? 加えてデータにならなかったデータは? 断言しよう。量子コンピュータであってもギブアップ、お手上げだ。
 シャーロック・ホームズは、「起きたこと」ではなく「起きなかったこと」を糸口にして推理していく。「起きてもいいことが、なぜ起きなかったのか?」と。この骨法は天下無双である。けれどもAIにはできない相談、無い袖は振れない。
 言っておく。AIよ、出過ぎたまねをするとスイッチを切っちまうぞ!  □