伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ハートフルディスタンス

2020年06月12日 | エッセー

 「ソーシャルディスタンス」はどうもいけない。言葉がはなはだ雑だ。自他の感染防止のため「社会的」あるいは「人的接触」の距離を確保しようというものである。飛沫の到達距離2~3メートルは間を空けようという。「ソーシャル」では社会的分断がイメージされるから「フィジカルディスタンス」に替えようとの声もある。どちらにしても木で鼻を括った物言いだ。どうしてもカタカナが使いたいのなら、いっそ「ハートフルディスタンス」はどうだろう。「ハートフル」は和製英語でスペルを間違えると(heartをhurtに)意味が逆転するが、カタカナ書きなら問題はない。問題は「ディスタンス」、それも「ロング・ディスタンス」である。早い話が、ロジステックスだ。兵站を語源とし今ではサプライチェーンをいうが、宅配を含めた物流と括れるだろう。実はコロナ騒動で稿者が一番恐れていたのは宅配であった。
 平成30年で43億701万個の荷物が日本列島を往き交った(国交省発表)。列島をくまなく走る血管である。血栓でもできた日には命に係わる。ステイホームとやらで今年は通販、デリバリーが急増したにちがいない。命綱どころか命そのものである。通販会社や宅配業者が賢く先手を打って、置き配、非対面などを推進したため感染拡大の槍玉に挙げられることなく今日に至っている(ごく一部でアホなユーザーによるクレームはあったらしいが)。
 43億個のうち、98・9%がトラック便。多い時は1人が200個を超える荷を配る、したがって最前線は想像を絶する奈落にある。<3K-1K+3K>で“5K”である。<3K-1K>はキツい・汚い・危険から汚いを除く(上記の通り)。<+3K>は「帰れない」「厳しい」「給料が安い」だ。建設、清掃、農林水産、看護師などが該当する。最近は従来の3Kに加えて6Kともいう。昇ったり降ったり、エンドユーザーまでの荷物を抱えてのラストワンマイルは「キツい」に相違ない。「危険」は主に交通事故。「厳しい」は道交法による規制の強化と遅配・早配への不寛容。給料はほぼサラリーマン並みといえるが他のKを勘案するとやはり「安い」、釣り合わない。「帰れない」は再配達率15%が主因だ(昨年10月、国交省調査)。
 「ソーシャル・ロングディスタンス」は“5K”を堪えて奮闘する「ハートフル」ワーカーたちによって越えられている。それを徒や疎かにしてはなるまい。コンシューマー気取りで高飛車に接することなどあってはならない。せめて再配達させないよう工夫をしたい。
  だから、「送料無料」には強い嫌悪感をもつという。元トラックドライバーでフリーライターの橋本愛喜女史だ。近著「トラックドライバーにも言わせて」(新潮新書)でこう語る。
 〈少ないながらも実際発生している輸送料・送料に対して、「送料弊社負担」や「送料込み」など、他にいくらでも言い方がある中、わざわざこの「無料」という言葉が使われることに、「存在を消されたような感覚になる」と漏らすドライバーもいる。〉
 女史は労働問題、災害対策、文化差異など社会問題を中心に活発に執筆、講演活動をしている。「存在を消された」とは頂門の一針だ。能天気に「送料無料」に吊られていた己が恥ずかしい。その他、「トラックドライバー『だからこそ』言わせて」あげなくてはいけないコンテンツが山盛りだ。社会の黒衣に光を当てる好著といえる。
 「ソーシャルディスタンス」については先月の拙稿「実学は平時、乱世は人文学」で徹底的に批判を加えた。
 〈(新しい生活様式の)「会話をする際は可能な限り真正面を避ける」・「対面ではなく横並びで座ろう」とは何事か。「『共鳴集団』は『顔を見つめ合い、しぐさや表情で互いに感情の動きや意図を的確に読む』ことで作られる」という20万年に及ぶサピエンスのコミュニケーション原理を否定する気か。無理に属性をいじると必ずどこかに歪みが出てくる。〉
 だからこそ、「ハートフル」に替えようと遠吠えをしている。「ハートフルディスタンス」には心を配ってディスタンスを措く場合と、心溢れてディスタンスをかなぐり捨てる場合とがある。『共鳴集団』ゆえの妙といえる。親子を筆頭に後者の場面はそこら中にある。なければ生き延びられはしない。共鳴と懸隔を架橋するものが「ハートフルディスタンス」だ。「ソーシャルディスタンス」への皮肉でもあり、アンチテーゼでもある。すくなくとも何が何だかわけの分からない「東京アラート」よりはシャレてる自信はある。
 ともあれロジスティクスへの危惧は回避されそうだ。
 〈日本で生活していると気付きにくいかもしれないが、日本の物流の質やサービスは、世界でもズバ抜けて高い。指定した時間帯に、8つ角がしっかり残った荷物が、車体に傷・へこみひとつない「ドライバーのネームプレート」付きのトラックで届けられるのは、世界広しといえども日本ぐらいなものだ。日本のトラックドライバーの本業は「運転」でなく、荷物を安全・無傷・定時に届けることだ。〉(上掲書より)
 余人をもって代えがたい世界一の人材集団「ハートフル」ワーカーたちに最敬礼しつつ、8つ角がボロボロになりそうな愚案を閉じたい。 □