伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

雨、粗描

2008年07月03日 | エッセー
 幼いころ、梅雨入りか梅雨明けに何度か大雨に見舞われた。宅(ウチ)の前に幅一メートル半くらいの大振りの溝があった。それが雨とともに見る間に嵩を増した。その様子を、時ならぬ緊迫感を抱(イダ)きながら見詰めていた。羨溢すれば、もちろん家は浸水を免れない。身丈を越える深さはあるものの、いつもは踝にも満たない水流である。それが不時の雨で、落ちれば一溜りもない恐怖の濁流と化し、音を立てて猛る。
 自然の変わり身に息を呑んだ。

 往時の建物は外界(ゲカイ)との切れ目が模糊としていた。当然のことながら、素材は木と土と紙。鎧うのではない、自然の中に慎ましく間借りする体(テイ)である。雨が直(ジカ)に滴る文字通りの濡縁があった。結構は風の通りが考えられていて、戸や窓は外界を遮断するためではなく、それを取り込むとば口であった。

 欧州は石造りが基本だ。熱暑の地に興った古代の文明は自然に対し極めて挑戦的たらざるを得ず、居住の空間を石で鎧った。余程の天変がないかぎり、石は残る。対するに、木造は人災でさえ跡形もなくなる。そのような自然への処し方のちがいが、文化のかたちや人びとの心のあり様をつくってきたといえなくもない。

 少年だったころ、雨は気分を高揚させた。小雨にもこころが躍った。舗装のされていない道がほとんどで、俄な水溜りにゴム長で歩み込むのは快感だった。どこからともなく移ってきた水黽(アメンボ)が黄濁した水面を滑る様子を飽かず眺めていた。
 寒暑は体質よりも体力によって感じるものらしい。梅雨の湿気が耐え難いものになるのはずっと後年になってからだ。記憶の濃淡ではないような気がする。だから少年にとって、梅雨は変化に富んだ心地よい季節だった。

 青年になって黒澤映画を観た時、別種の雨に出会った。記憶する限り、小糠雨はない。降れば、いつも篠突く雨だ。「七人の侍」が典型である。あれは天然の雨ではない。単なる効果でもないだろう。情念の一表徴としての雨ではないか。また巨匠は、雨をして重要な役柄を託したともいえる。雨中のシーンは銀幕に頻出するが、あれほど印象深いものはほかにあるまい。

 二十数年前、豪雨が襲った。残像としてはピンポン玉ほどもある雨粒が降り注いだ。少年の時とはちがい、恐怖が走った。陸上の交通網は深いダメージを受け、船が救援物資を運んだ。多くの犠牲者が出た。梅雨明け直後の災害だった。

 自然を御するとは一種の倨傲ではないか。人工の堤防なぞ、その膂力の前には段ボールほどの厚みもない。だが、ひとはこの地球以外に住まうことは叶わぬ。ならばやはり、人知と人為の限りを尽くし続けるほかにはなかろう。

 「石の文明」が極まった天地、アメリカ。彼(カ)の国では既設のダムを取り除きつつある。代わりに植林で保水力を高め、川は溢れるという前提に立って下流に溜め池を造る。氾濫予測地域からの移住も厭わない。これが最先端の河川工学だという。つまりは、自然にしなやかに寄り添おうというのだ。新たな文明のかたちを模索しはじめたのであろうか。

 薄れてはいるものの、いまだに雨は気分を高揚させる。日常が不規則にずれる場面といおうか、雨宿りなど、軒下にドラマが潜む気配がある。
 記憶の遥か彼方、急な雨に迎えに来てくれた先妣は、いま、童謡のなかに生き続ける。 □


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