伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

栗と団栗

2015年10月04日 | エッセー

 山間(ヤマアイ)の親戚から一抱えもある栗が届いた。荊妻が毬栗と格闘する後ろ姿が縄文人に重なって見え、ひとり、笑いを堪えた。太古、彼らも皮剥きには難儀したにちがいない。それとも石器を巧みに操ったのか。1万5千年といえども遠からず。人類が料理と向き合う姿に変わりはないと、合点が行った。
 同じく秋といえば、団栗だ。名は似ているが、別物である。すぐに『どんぐりころころ』が口を衝いて出てくる。今は教科書から消えているそうだが、かつては定番であった。大正時代に作られた唱歌ではあるが、日の目を見たのは戦後間もなくだった。教科書を刷新する中で、欧米の曲に併せて戦前には未登場だった多くの童謡も採用された。その内の一曲である。47年、小学校2年生の音楽教科書に載った。

『団栗ころころ』 作詞 青木存義 /作曲 梁田貞
   〽どんぐりころころ      ドンブリコ
    お池にはまって      さあ大変
    どじょうが出て来て     今日は
    坊ちゃん一緒に     遊びましょう

    どんぐりころころ       よろこんで
    しばらく一緒に        遊んだが
    やっぱりお山が      恋しいと
    泣いてはどじょうを     困らせた〽

 ノスタルジックではあるが、ミステリアスでもある。「団栗と泥鰌」の結びつき。加えて、なぜ「池」なのか。「お嬢ちゃん」ではいけないのか。
 人生幸朗(すげぇー古い!)張りのツッコミを入れるわけではないが、よくもまあこんな不可解な歌を唄っていたものだ。
 実は、長らく隅に置かれていたには背景があった。作詞家青木存義の時代、童謡に新しい風が吹いていた。子供たちに与える歌にもっと空想や情緒を入れ、芸術性を高めるべきだとする思潮である。──当時文部官僚でもあった青木もそのような潮目を掬したのではないか。突飛な組み合わせで空想に誘(イザナ)い、「お山」への帰還という叶わないドラマで情緒を掻き立てようとした。だが、旧套墨守の官衙はこれを受け入れなかった──そんな揣摩をしてみた。
 調べると、青木は東北の大地主の息子。「坊ちゃん」である。大屋敷には宏壮な庭があり、「池」が穿たれ、池畔には楢の木があった。もちろん秋には団栗が実る。
 さてここの坊ちゃん、大の寝坊助。朝、起きない。手を焼いた母親が屋敷の庭に泥鰌を放った。ペットで生活習慣を変えようと算段したのだろう。そんな実話が創作の元手だった。だから大半の童謡とは違い、「お嬢ちゃん」ではないのか。
 と、「不可解」を無理やり解いてみた。世はなかなかプログレッシブに追いつけない一例である。
 栗と団栗、ともに縄文人の採集食物の代表格であった。さらに双方、殻斗に覆われる堅果である。わざわざ堅いものを、との心配はご無用。縄文人には、司馬遼太郎曰く「第二の胃袋」があった。縄文式土器である。煮炊きと保存に大いに供した。
「縄文時代とは、豊かな気候条件と生態条件に恵まれた時代。縄文人とは、生活の知恵と知識を高度に磨いた日本列島ならではのユニークな人々。縄文文化とは、ことに土器文化や漁撈文化などを見事に開花させた生活の総体。日本人の基底にあるメンタリティや心象風景が息づいた時代なのだ。こうした時代を有していたことを、もっと日本人は誇りにしてよいのではなかろうか。」
 と語るのは骨考古学の泰斗、片山一道氏だ。本年5月刊のちくま新書「骨が語る日本人の歴史」から引いた。多数の人骨に突如殺傷痕が顕れる弥生時代の前、本邦には1万年もの長遠な期間、豊かな環境に恵まれ「生活の知恵と知識を高度に磨いた」「ユニークな人々」がいた。わたしたちの遠き御先祖様たちである(縄文人と弥生人の断絶は本書で明確に否定されている)。繰り返すが、1万年である。「日本人の基底にあるメンタリティや心象風景が息づいた」道理ではないか。
 愚妻が毬栗を前にした時の並々ならぬ闘志、孤軍を厭わぬ奮闘。あのハイテンションは個人的資質に帰するというより、古層的本質に由来するのではないか。炊きあがった栗ご飯の湯気の向こうに、どや顔の縄文人がいた。 □