伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

領土の旗を降ろせ

2017年01月10日 | エッセー

 何事につけ「やってる」感を演出するのがアンバイ君の十八番(オハコ)らしい。昨年5月のソチ会談で華々しく打ち上げた「新しいアプローチ」は、結局中身が判然としないまま12月の山口会談でやらずぼったくりに終わった。なにが「新しい」のか。「福島はアンダーコントロール」と同じ手で、言葉を作為的で詐欺紛いに使い回し、かつ平然として恥じない。昨年本稿で取り上げた「新しい判断」はその典型だ。
 そこで、稿者なりの「新しいアプローチ」を愚案した。とんでもない暴論と一笑に付されるのは覚悟の前だ。
 北方四島のネイティブはアイヌである。いわゆる元島民ではない。4つの島名はすべてアイヌ語である。18世紀にはアイヌを介してロシアとの交易が行われていた。同世紀末期に起こったアイヌの反乱にロシアの影があると恐れた幕府は択捉島に標柱を立て領有宣言をする。アイヌは北方との往来を禁じられ交易という生業を奪われる。続く19世紀初頭から和人の移住が増え、アイヌは生活や文化を壊され四島から放逐されていく。以降、マイノリティの辛酸を嘗め悲運に翻弄されることになった。
 だから、山口会談を前にアンバイ君が語った「静かな雰囲気の中でじっくりと交渉したい。元島民の皆さんの切実な思いをしっかりと胸に刻んで、日本を代表して交渉したい」との言葉は片手落ちといわざるを得ない。わずか200年前の歴史すら識らず、アイヌの「皆さんの切実な思い」は捨象されている。「日本固有の領土」というなら、ネイティブである1万6千人のアイヌを忘れていい道理はない。しかし、それはもう「歴史」だ。
 大きく括れば、ネイティブのアイヌが所払いされて和人が移住し、大戦の後は和人が所を追われロシア人が入植した。なんのことはない、前轍を踏んだだけといえなくもない。USAだって同等だ。ネイティブ・アメリカンであるインディアンを駆逐して英人が入植したのも200数十年前のできごとだった。だが、今更それを持ち出しても詮ない。もう「歴史」だからだ。もう一度繰り返すわけにはいかないのだ。
 憲法前文で世界に向かい、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」と宣したのは70年前であった。ならば、もうそろそろ「崇高な理想」の下に「日本固有の領土」の旗は降ろしてはどうか。「崇高な理想」の御旗に比べれば、それは筵旗に過ぎないからだ。前文は「領土」を超えて遙か高みにある「崇高な理想」に生きようとする決意の表明だった。人間相互の友愛と信頼、協調という最高の道徳律に生きることで平和を阻害してきた領土、領有の呪縛から離れ、世界の範たろうとしたのではなかったか。
 「『人間相互の関係を支配する崇高な理想』とは、友愛、信頼、協調というような、民主的社会の存立のために欠くことのできない、人間と人間との関係を規律する最高の道徳律」をいう。これは、平成27年1月9日内閣総理大臣安倍晋三名で出された答弁書第一六号である。「民主的社会の存立」とは、敷衍すれば国際の平和的存立と同意ではないか。
 荒唐無稽の牽強付会と難ずる向きにはこう応えたい。琉球処分により沖縄は日本に吸収され、大戦後米国に領有された。今、「国際の平和的存立」のため米国との友愛、信頼、協調という「人間と人間との関係を規律する最高の道徳律」によって実質的に「日本固有の領土」では“ない”(直近の例で言えば、オスプレイの事故現場に日本の警察は一歩たりとも踏み込めなかった)。とっくに領土の旗は降ろされている。南方領土でできて、北方領土でできないわけがない。これこそ、「新しいアプローチ」ではないか。
 「日本固有の領土」の旗を降ろす2つ目の理由は、不幸中の幸いを捨ててはならないからだ。
 大戦の敗戦処理を巡って、スターリンは北海道を釧路から留萌の線で二分割する構想を練っていた。日本と直接国境を接する危険から緩衝地帯を置こうとしたのだ。実現していれば、「日本民主主義人民共和国」である。
 この件について、佐藤優氏は
 〈この釧路-留萌線での分割によって、ソ連は道義性も示せます。日本人民の意志によって共和国をつくり(引用者註・という建前で)、日本人民の要請に応えて北樺太まで渡すというわけですから、スターリンには領土的な野心はまったくないという証明にもなる。〉(文春新書「二十一世紀の戦争論」から)   
 との謀略があったという。しかしその構想はトルーマンの反対に遭い、占守島で日本軍の猛烈な反撃に足止めを喰らって頓挫する(その戦いは浅田次郎氏が『終わらざる夏』で活写した通りだ)。いわば九死に一生を得た。これぞ、不幸中の幸いではないか。
 文字学の泰斗 白川静先生によれば、「幸」とは意外にも手錠、手枷を象った文字という。古代中国で数多の刑罰がある中、命を奪われずまた身体の一部を失うことなく「手枷」で以て手の自由を奪われるだけで贖罪できるのは絶好の果報だった。だから、「しあわせ」なのだ。
 となれば、如上のいきさつはまさに不幸中の幸いと受け止めて何の不足があろう。
 アルザス・ロレーヌ地方は独仏が史上何度も争奪を繰り返した要衝である。第二次大戦後ドイツはほぼ九州に匹敵するこの地を放棄する。領土の維持から影響力の拡大へと国家目的を変えたといえる。領地を死守するという古典的あり方から決別したこの「新しいアプローチ」は見事に奏功し、再びドイツはEUの中核となった。さすれば、日本はドイツの2周も3周も遅れているともいえる。未だに近隣諸国と領土問題を抱え、信頼さえ勝ち得ていない。どちらが賢いか。
 付言するなら、北方領土の返還を最も嫌っているのは米国である。もしそれが実現すれば、南方領土の占有が申し開きできなくなるからだ。宗主国としてのプレゼンスが失われる。第一日米安保の守備範囲が北方に延伸することになる。アメリカは迷惑だし、ロシアが認めるはずがない。それどころか、ロシアは北方四島に軍事ベースを拡充しようとしている。だからこの場合、領土の旗を掲げる限り領土問題は構造的に解決しない。武力奪取するか、バーターするか。前者は物理的に不可能であり、後者は代替地がない。唯一あるとすれば沖縄米軍基地の撤退だが、安保条約によって法的に不可能だ(属国は宗主国に対しヘゲモニーを行使し得ない)。
 領有権棚上げでローカル・アグリーメント(経済関係を軸にした地域協定)を志向する方途もある。次善の策としては有効だが、弥縫策の域を出ない。ドラスティックな解決には領土の旗を降ろすに如くは無し、だろう。アメリカにとっては痛撃になる。首相の頸はまちがいなく飛ぶ。アンバイ君にそんな覚悟や剛勇はあるまい。せいぜい「やってる」感を演出して、名を取るだけだ。辻褄合わせは「新しい判断」。もうそろそろ見抜いたほうがいい。 □