伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

換骨奪胎

2015年07月17日 | エッセー

 よく見知っている人が変装擬きの格好をして雑踏を歩んでいる。すれ違って数歩、「ん!」と見返る。後ろ姿は紛れもなく“その人”だ。でも、遅い。気づいた時には、もう人混みが彼を呑み込んでいる。
 そんな塩梅だった。
   〽みついすみとも びざかーど らら らーらー
 斎藤工の「大学生・通学篇」。彼が吊革に掴まりながら、突如歌い始める。と、なんと同じ車両に乗り合わせた皆さんも声を揃えて大合唱。隣の大学新入生が「あの、やっぱり持ってたほうがいいですか?」と訊く。ホームでの別れ際、「これからの君の生き方次第だな」と斎藤くんが言い残して会社へ。行き摺りの歌、そして一会(イチエ)の言葉。なんともカッコいい。
 お判りであろう。『人間なんて』である。替え歌というには忍びない。ミュージックシーンに高々と聳えるこの金字塔に、それでは礼を欠く。ここは「換骨奪胎」と呼びたい。
 よく「焼き直し」の意で誤用されるが、本来は独創性を讃えたものだ。俗人の骨と胎すなわち身体を取り替えてありがたき仙人になるとの原義から、古人の詩文を基に創意を加え独自の作品と成すをいう。してみれば、44年前の作品がクレジットカードなる今風の創意を得て見事に独自の世界を謳っているといえよう。立派な換骨奪胎である。
 吹石一恵による「新入社員・初出社篇」もある。部長(たぶん)も交えて広いオフィスが、社員食堂が、合唱の渦に包まれる。なんとも壮大である。
 1971年8月8日、岐阜県椛の湖畔で開催された第3回「全日本フォークジャンボリー」でレジェンドは生まれた。突然、サブステージの音響がトラブった。演奏中だった拓郎は構わず生音だけで『人間なんて』を歌い始める。メインステージからも人が押し寄せ、拓郎が煽りオーディエンスが応える。トリップのように延々と同じフレーズが繰り返される。なんと2時間。ついに世紀の金字塔が屹立した。
 斎藤くんも一恵ちゃんも81、82年生まれ。知る由もなかろう。作詞・作曲:吉田拓郎。原詩はこうだ。

   〽なにかがほしいおいら
    それがなんだかわからない
    だけど何かがたりないよ
    いまの自分もおかしいよ

    そらにうかぶ雲は
    いつかどこかへとんでゆく
    そこになにかがあるんだろうか
    それは誰にもわからない

 ひらがなにインパクトがある。当たり前の問い掛けなのに正答がない。そのような事情にピッタリだ。挟み込まれ、リフレインされるのが
「人間なんて ラララー ラララ ラーラー」
 のフレーズである。“ラララー ラララ ラーラー” これは青春の懊悩、そのオノマトペに違いない。今それがクレジットカードの謳い文句。しかも「これからの君の生き方次第だな」とか、「それは自分で決めればいいんじゃない」などと人生論の片鱗まで被せてくる。メロディーは耳朶に焼き付いて離れないジングルのよう。憎い作りだ。
 88年、一世を風靡したコピーがあった。
「ほしいものが、ほしいわ。」
 糸井重里による西武百貨店のCMだ。
──ほしいものはいつでも
  あるんだけれどない
  ほしいものはいつでも
  ないんだけれどある
  ほんとうにほしいものがあると
  それだけでうれしい
  それだけはほしいとおもう
  ほしいものが、ほしいわ。──
 これもひらがなが効いている。言っていることはひどく理屈っぽいのだが、かなの字面が中和している。
 頃はバブル期の走りであった。社会のありようを鋭く抉った大傑作コピーである。内田 樹氏が『街場の憂国論』(晶文社)で、このコピーに触れている。
◇(自家用ジェットは何機もっていても一機にしか乗れない)かように身体が欲望の基本であるときには、「身体という限界」がある。ある程度以上の商品を「享受する」ことを身体が許してくれない。そのとき経済成長が鈍化する。そうなると、人間は「身体という限界」を超える商品に対する欲望を解発しようとする。八〇年代に「ほしいものが、ほしいわ。」という画期的なコピーがあった。これは身体的な欲望がほぼ膨満状態に達し、経済成長が鈍化せざるを得ない現実を活写した名コピーだったと思う。そのあと、市場は消費者たちの「満たされない欲望」に焦点化して商品展開を試みた。それが「象徴価値」を価値の主成分とする商品群である。その商品を購入することが、そのひとの「社会的な立場」を記号的に示し、他者との差別化機能を果たすような商品群(いわゆるブランド品)である。アイデンティティ指示商品といってもいい。欲望の対象を記号に特化したことによって、商品は身体という限界を乗り越えた。資本主義は最終的に人々を「金を持っているが、使い道がない」という、ニルヴァーナ状態へと差し向けることになったのである。◇(抄録)
 明察、ここに極まれりである。後、事態は更に亢進し「使い道がない」金で「使い道がない」金を買うマネーゲームへと狂奔。ニルヴァーナから再び餓鬼、畜生道へと舞い戻った。なれの果てがリーマンショック。ざっと、そんなところか。ところが刻下“アホノミクス”と称して、性懲りもなくまたもや人為的にバブルを引き起こそうとしている某国の政権がある。だから、やっぱり
   〽人間なんて ラララ ラララララ
 ここは換骨奪胎なしで、みんなで大合唱しよう。もちろん永田町に向かって。 □