伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

首を振らないハト??

2015年07月06日 | エッセー

 ついぞ凡人が考えもしないことを大まじめに考えるのが学者というものであろう。「赤ん坊はなぜかわいいのか?」を探究したのがアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーであった(もっとも赤ん坊の時から小憎いほどの面相であれば、すでに救いがたいのだが)。13年4月の本ブログ「知の逆転」で触れた。御同類が日本にもいる。藤田祐樹氏、41歳、東大出身の理学博士である。専攻は人類学だが、なぜかハトの歩行を研究している。鳩は名が人に最も近いといい(ハトとヒトで1字違い)、好きな言葉は「首振りと世界平和」だそうだ。なんだかよくわからないが、ともかくそういう学者である。
 近著『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー、本年4月刊)が興味深い。特に科学音痴のわたしなどはそうだが、大方は予想外の答えに驚くにちがいない。詳しくは本書に当たっていただくとして、要するに視覚のためだ。世に、常時二足歩行するのはヒトと鳥だけ。ヒトは目玉(メンタマ)を動かすが、鳥は異様にデカい目玉を動かせない。だから首を振る。かつ、首を振るのは頭を静止させるためだ。──いわば「知の逆転」である。「たかが首振り」(同書で)だが、瑣末な問題も多面的に研究を重ねれば新たな発見があり豊かな世界が広がると、藤田先生はいう。
 たかがや当たり前で、捨て置いたり見過ごしている問題はないか。ついこないだも、たかが学者と鼻で笑った某政党の副総裁がいた。環境の変化を何度もアナウンスして、当たり前だと刷り込もうとする某政権もある。誑かされてはならない。船長といえども海図を無視して操舵はできない。海図を睨むのは航海士の役割だ。国の進路を過たないため、憲法という海図を睨むのが航海士たる学者の任だ。鼻で笑って、お高く構えて済む問題ではない。
 環境の変化とは、何がどう変化したというのか。冷戦時代でさえ持ち出さなかった論議を、今なぜ慌てて俎上に載せるのか。中国がかつてのソ連に取って代わったのか。今や、米国でさえ中国は最重要のステークホルダーである。アジアは火を噴かない程度で適度に揉めていてくれるのが米国にとっては最適の環境である。なぜなら、それが米国のプレゼンスが最も高まるからだ。大国のありようとはそのようなものだと見切る眼力が、環境の変化を疾呼する前にあるのかどうか。スクランブルが何倍に増えたかをヒステリックに呼ばわるだけでは、とても腰が据わっているとは言い難い。本当に腰が据わっているなら、虎の威を借りてタフネゴシエーターに徹しきれるはずだ。つまりは外交だ。環境の変化と軍事的対応が直結するのは、所詮思考停止にほかならない。第一、環境の変化とやらを導出したのは稚拙な歴史観を振り回すこちら側にも応分の責任はある。なにせポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」オツムで、何を知っているというのだろう。その程度の知的レベルで、環境の変化を過たずに捉えられるのであろうか。
 増税の延期を問えば当然、是と応える。しかも最低の投票率。それで得た絶対多数を盾に、頼みもしない進路変更をしようとする。ペテンのようなものだ。なんのことはない。環境の変化とは永田町内の環境変化なのではないか。同時に、米国からの『暖簾分け』戦略の顕著な推進を図るものではないのか(『暖簾分け』については、昨年6月の本ブログ「<承前>アメリカの呪い」で取り上げた)。喜んで肩代わりを申し出てくれて、嬉しくないはずはない。だから米議会は日本の首相に、初めての上下両院合同議会での演説という御褒美の飴玉をしゃぶらせてくれたのだ。調子に乗った某首相は宗主国への属国よろしく、宗主国の言葉で得意然とスピーチをコいた(国を愛するなら、「美しい国」の言葉をなぜ使わなかったのだろう?)。
 蟻の一穴という。水圧が上がれば、やがて破れる。分度器ではたかが一度。それも延伸するほどにエラい開きになる。もう、「たかが」では収まらない。そんな当たり前過ぎる常識が置き去りにされようとしている。
 誤りのない視覚を確保するために首を振るハト。ところが永田町のボスハトは首を振らない。だから視覚に異常を来しているようだ。こんなハトは亜種、いや異種にちがいない。平和の象徴とは対極にいる。おかげで、こちらのハトたちは豆鉄砲を食ったかのよう……。
 なるほど。先生の意図は知らぬが、これで「首振りと世界平和」が繋がった。 □