伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

奇妙で絶妙

2011年05月21日 | エッセー

 フクシマ以来、「シーベルト」は耳にたこができるほど聞いた。なお聞きつづけている。問題はいくらまでならいいのか、である。
 細かいことは解らないが、国の基準が都合に合わせ場当たりで変化するものだから不信が募る。そこで、ICRP(国際放射線防護委員会)の基準が引き合いに出される。これはどこかの国と違い、相当にしっかりとした基準である。興味深いのは、その線引きの根拠だ。線引きとは、被爆の許容限度である。つまりは発ガンの確率をどこまで認めるかだ。
 放射線に当たればガンを誘発する。いくらの被爆で何人にガンが発生するか。そのデータを集積し、ガン発生率何パーセントで線を引くか。そこが、興味深い。
 確率の計算は数理的になされるが、線引きはすぐれて人為に属する。実は、被曝量の基準には交通事故死がリファレンスされている。交通事故による死者の発生率と同等に定められているのだ。交通事故死率≒発ガン率、というわけである。それが、年間被爆総量1ミリシーベルトである。この量であれば、1年間に車に轢かれて死ぬぐらいの人数で“済む”。このあたりで折り合いをつけましょうという数値である。計算上、1億人中5千人の発ガンになる。ちなみに、日本の年間交通事故死は5千人前後だ。もちろんガンに罹っても治る人がいるからおかしいという説もある。放射線による発ガン率そのものに異を唱える向きもある。甲論乙駁ではあるが、これが国際社会のコンセンサスである。(天然放射線量は年間1.4ミリシーベルトあるので、それに加算しての話である)

 放射線と交通事故。このリンクが奇妙であり、絶妙でもある。毒を計るに毒を以てする。さらにどちらも限りなく減らすこともできる。ICRPの苦し紛れの浅知恵か、それとも深謀か。少なくとも融通無碍にヌエのごとき基準値を繰り出す某国行政府よりは、よほど信が置ける。

 原発の燃料であるウラン235は天然ウラン238には0.72パーセントしか含まれない。ところが地球が誕生したころには30パーセントもあったという。半減期が7億年とはいえ、40億年もの間に次第に減少していった。1895年キュリー夫人がウラン鉱からラジウムを見つけ出したころには、今の含有率になっていた。もしも含有率がもっと下がっていたら、歴史的発見はなかったかもしれない。そうであれば、レントゲンもない替わりに原発もない。フクシマはないが、医療の劇的進歩もなかった。禍福は糾える縄の如しだが、どう糾うかは人間の側にあると心したい。□