伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

昔の伝でなぜいかない?

2011年05月16日 | エッセー

 
 かつての駄文を、億面もなく引いてみる。なお本稿はフクシマからの連想ではあるが、直接のテーマではない。
〓〓奇想、天外へ! 
  原発は「トイレなきマンション」と呼ばれる。排泄物、つまり核廃棄物の処理施設がないからだ。今は敷地内の肥溜めに貯めているようなものだ。あと数年であふれる。外に持ち出して処分せねばならない。なにやかやで厖大な費用が掛かる。3年前の経済産業省の試算によると、なんと総額19兆円。受益者負担となり、電力料金に上乗せされて消費者が払うことになる。この試算に含まれるのかどうか定かではないが、廃炉原発の始末にも巨費が掛かる。これは日本一国だけ。全世界の原発を考えると、空前の数字になる。
  糅(カ)てて加えて、核兵器だ。ウラン235にせよ、プルトニウム239にせよ、こちらは放射能の塊だ。地球上に3万発。ウルトラ・オーバーキルもいいところだ。廃絶が進んで、解体されると放射能物質が山を成す。こちらの処分は原発の比ではない。いくら掛かるか。おそらく試算のしようもないであろう。
 最終処分とは地中深く埋めることだ。地質を調べ、地下300mの硬い岩盤に封じ込めるのであろうが、どっこい地球には地震というものが起こる。いかな岩盤とて勝てる相手ではない。さすれば早い話、人類は放射能を枕に寝ている仕儀となる。半減期はプルトニウム239が2万4千年、ウラン235は7億年。気が遠くなる数字に、笑ってしまう。
 ――核廃棄物、もしくは廃棄核兵器をロケットに詰めて、宇宙の果てに飛ばしてはどうか。できれば、ブラックホールめがけて。
 腰だめの試算をしてみる。
 スペースシャトルの製造費用は約2000億円。普通のロケットが製作に1000億円、打ち上げ費用が一回に100億円掛かる。
 ペイロード(積載量)は、スペースシャトルが約30トン。いま計画中のスペースシャトルを改良した大型物資輸送用ロケットだと、その3倍。約90トン運べる。
 日本の原発からは年間1000トンの核廃棄物が出る。リサイクルした後、最終処分、つまり埋設処理が必要な蓄積量は、平成14年時点で約3万トン。大型輸送ロケットで333回分になる。一機が3000億円と見積もると、約100兆円。GDPの5分の1、年間予算の1.3倍。アメリカの場合、原発数は日本の約2倍。従って、費用も2倍。GDPは1200兆。こちらも日本の2倍を超える。
 巨額のようだが、100年もかければ十分可能ではないか。途中には技術の進歩がある。スケールメリットも働く。代替エネルギーが開発、実用に供されると累積量は止まる。『世紀の事業』として各国共同して取り組めば、費用対効果は確実にある。
 一方、核弾頭は一個平均30キログラムとして3万発で約900トン。貨物ロケット10機分で足りる。総額3兆円、割安だ。こちらは解体せずにそのまま飛ばす ―― 。
 この類いのプラン、誰かが着想したにちがいない。しかし、俎上に載らないのはなぜか。
 以下、考えつくままに何点か挙げてみる。
① 荒唐無稽。バカバカしい。たわごと、戯(ザ)れ言。世迷い言。夢想として歯牙にもかけない?
② なんらかの倫理観が働いた?
 『宇宙的』倫理観とでもいおうか。宇宙を汚してはいけないという抑制が働いた。ただそうだとすると、なぜ地球はゴミだらけで平気なのか。養老孟司氏の言に、「部屋の掃除をしてキレイになっても、掃除機の中はゴミだらけ」というのがある。大気圏内では、所詮右のモノを左に持って行っただけではないのか。ならばと、大気圏外にぶっ放そうという発想はオカしいのか。
 宇宙は無限である。有限説もあるが、ウラン235の半減期7億年に光年を掛けても果てには届かぬ。遙か天外へ、銀河の先の、そのまた先へ運ぶこのプラン、「宇宙の無限性」で相殺されないものであろうか。「無限性」で相殺できないところに倫理の核心があるのだろうか。
③ 上記②と関連するが、宇宙への畏怖ゆえか?
 未知であるがゆえの畏怖。宗教的感情に近いもの。天に唾するか、神に弓射るか。
④ 将来の技術開発を待つのか?
  まさか半減期の短縮はできないだろうが、それこそ奇想天外な技術の開発に期待するため。これは世紀の単位を要する。
⑤ エイリアンの逆襲を恐れるためか?
 ひょっとして、これが現実的かもしれない。
⑥ やはり費用と技術的問題?
  でも7億年もの間、核を枕に寝続けるのか。そのうちに巨大地震でも来て地中の核物質が噴きだし、本物の『猿の惑星』にならないとも限らぬ。〓〓(07年2月 抄録) 
 実は、「宇宙処理」はかつて検討されたことがあったそうだ。しかし採用はされなかった。その理由は、上記6項目のどれにも該当しない(わずかに、⑥が擦っているが)。まことに己の浅慮が恥ずかしい。かつての(それがいつごろかは寡聞にして不明)技術陣(おそらくNASAか)が、打ち上げ失敗による地球全体への拡散被害を恐れたのが真相らしい。② も ③ も擦りもしなかった。ましてや ⑤ は完璧に埒外だった。(おもしろくもない!)

 あらためて、② を補足したい。「大気圏内では、所詮右のモノを左に持って行っただけではないのか。ならばと、大気圏外にぶっ放そうという発想はオカしいのか。」のところだ。20世紀後半に至るまで(グローバリゼーションが喧伝される以前とも言い換えられるが)、地球は「無限性」に満ちていた。なかでも海は、すべてを受け容れるプラネット・アースの「無限」であった。あるいは空も無窮の空間であり、地もまた無尽の母性であった。ありとあらゆる塵芥(チリアクタ)の類(タグイ)はそれら「無限」に向けて放出され、またガイアの懐へ戻された。そこには倫理的抵抗感はなかったはずだ。なにせ、相手は無限で無窮で無尽だったのだから。
 それが明らかに変化した。地球の「有限性」が声高に叫ばれはじめた。地球温暖化問題はその最たるものであろう。温暖化の原因を何に求めるかは議論の分かれるところだが、プラネット・アースの有限性については異論がない。ならば『昔の伝』で、「無限性」を宇宙にスライドさせればよいではないか。
 ところが、ふたたび「宇宙処理」を俎上に載せる気配はない。まったく眼中になさそうだ。はて、どうしたことか──。
 ヒントになるかどうか。内田 樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」(文芸新書)から引用したい。

■ローレンス・トーブはイランのイスラム革命やベルリンの壁崩壊を予言したことで知られる未来学者であるが、彼の未来予測は人類の歴史がある種の「成熟」の歴程を不可逆的にたどっているという確信に依拠している。「人類は進歩しているだろうか?」という問いをポストモダン期の知識人は一笑に付すだろう。もちろん科学技術は進歩した。しかし、この戦争と虐殺と差別と迫害の連鎖のどこに人間性の成熟のあかしをお前は見ることができるのか、と。
 トーブはこのようなシニカルな評価を退ける。十九世紀以後の歩みをたどってみても、人間たちは人種的・性的・宗教的な差別や、植民地主義的収奪や奴隷制度をはっきり「罪」として意識するようになってきた。これらの行為はそれ以前の時代においては必ずしも「罪」としては意識されていなかったものである。たしかに依然として人は殺され続けているし、富は収奪され続けているが、そのような凶行の当事者でさえ、その「政治的正しさ」や「倫理的な根拠」について国際社会に向けて説明する義務を(多少は)感じている。これは百年前には存在しなかった感情である。
 そのことから見て、人類は霊的に成熟しつつあり、人間性についての省察を深めつつあるという見通しを語ることは許されるだろう。そうトーブは書く。「時代ごとの進歩の速度にはばらつきがあり、少しの進歩も見られない時期もあった。けれども、人類が全時代を通じて、物質的ならびに霊的進歩を遂げてきたことを否定することはむずかしい。■

 人類の「霊的成熟」が宇宙処理の技術的失敗という恐怖と打算を超えたとみるのは、能天気に過ぎるだろうか。『昔の伝』がお蔵に入ったままなのは健忘ではないと信じるのは、希望的観測に過ぎるであろうか。□