伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

高所平気

2011年05月09日 | エッセー

 三島由紀夫は飛行機に家族と同乗しなかったそうだ。万が一を考えて、いつも別便にしたらしい。この上なく周到な用心深さである。一方、自決の日を決め大団円を書き終えた後に、中を埋めていくという豪胆さ。双方、常人にはなし難い。その柔と剛を極めた精神のありようは凡愚の想像を絶する。
 そこへいくと凡愚そのものであるわたしは、当然のごとく躊躇なく家族で乗り込んだ。飛行機にではない。六本木ヒルズ、森ビルの52階に直行する超高速エレベーターに、である。なにを大仰なと言われそうだが、30年以内にM7程度の首都直下型地震が起こる可能性は70パーセントと予想される。飛行機が墜落事故を起こす確率は0.0009パーセント。明らかに森ビルのエレベーターの方が危険だ。
 ビルは自家発電。一般家庭8千世帯分の能力がある。節電とは無関係だ。普段と変わらぬ営業だそうだ。しかしGWとはいえ、大震災の後だ。余震の続く中である。人は少ないだろうと踏んだが、意外にも盛況であった。
 エレベーターは音もなく、揺れもなく、Gを寸毫も感ずることなく、須臾の間(マ)に駆け昇った。
 展望台である。文字通りのお上りさんだ。ヒルズに聳えるため、東京タワーと遜色ない。スカイデッキは海抜で東京タワーの特別展望台を2メートル抜く。スカイツリーは遙か彼方に霞んでいる。
 ガラス張りの窓際にへばりついて、ジオラマのような下界をじっと覗き込む人たち。低いベンチに外向きに座り、身じろぎもせず見入っている。あるいは、眺望を種に話に興じている。250メートルからの俯瞰である。高所恐怖症というわけではないが、こちらは恐怖が先に立つ。時刻も3時前だ……。

 「高所平気症」というのがある。同恐怖症よりも、幼児にとっては危険だ。高層マンションで育った子どもは、これになりやすい。高さに恐怖心を抱かず転落事故につながる。高所平気症によって転落死する子どもは相当に多いらしい。魂を抉るような名作 “Tears in Heaven” はエリック・クラプトンが4歳で逝った愛息に捧げた曲だが、53階のベランダからの落下はこの病が禍したらしい。
 展望台の淵を取り巻く人群がすべて平気症ではなかろうが、平気であることは確かだ。都市化の極みともいえる展望台に、至極当たり前に憩う人びと。身構える素振りは微塵もない。各地観光スポットのタワー展望台に、今もあるかもしれない軽い戦慄も、ある種の華やぎも、ましてや嬌声も、そこにはない。特異な非日常の空間では決してないのだ。エレベーターひとつで刹那に地表から移動してくる。それはもはや呻吟しつつ登る階(キザハシ)ではない。地表の延長といえる。床が垂直に延びただけだ。動作としては、箱の中への一跨ぎと外への一歩があるだけだ。水平移動しかしていない。そこを高層マンションや高層オフィスビルを日常の生活空間とする人たちが訪(オトナ)う。平気以外ではあり得ないだろう。
 徹頭徹尾、意識が造り出した都市。鉄骨とコンクリートに鎧われて、上へ上へと居住空間を押し上げつづける。だからといってヒトに羽根が生える道理はなく、無意識の感覚世界からは乖離していく。人とヒトとがすれ違い、“Tears in Heaven”が頬をつたう。

 案内係の女性にしつこく聞き回り、やっと檜町(ヒノキチョウ)公園の位置が判った。森ヒルズとは双璧といえる東京ミッドタウンの向こう側に隣接しているため、残念ながら見えない。長州藩下屋敷にあった清水園(亭)を祖型とする。名園は新しい身繕いで、いま櫛比するビルの谷間に自然を供する。深夜、泥酔したクサナギ君が素っ裸で叫声を発したあの公園である。都市の頂から彼方を鳥瞰しつつ、若気の酔狂にエールを送りたくなってきた。□