伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

失言のわけ

2022年11月15日 | エッセー

 マスコミ挙げて上を下にの大騒動。挙句、更迭された葉梨君。枝を取り、葉も取り払ったハナシにすると、「法相は死刑のはんこを押す仕事」となる。別に可笑しなことはいっていない。TVに出るだの出ないだのと、ハナシのくせに変な枝葉をくっつけたから叩かれた。腐れJ民党のアホ議員がやりそうなことだ。
 メディアスクランブルの陰に隠れて失念されているが、法相が死刑を決定するわけではない。決めるのは裁判所、司法だ。司法の決定に行政府の法相が叛心を起こしてはんこを押さないと三権分立は崩れてしまう。至極当たり前のことではないか。
 それを朝日ですら一面リードで「死刑執行を命じる法相の役割を軽んじた」と報じた(11月12日)。実に曖昧な表現だ。「命じる」は「決定する」と誤解される。同日の社説には「執行に対する厳粛な気持ちも、その最終判断を担う重い責務への自覚もうかがえず」と述べた。「最終判断」は、裏返せば「最終的な回避」もできるとの誤解を呼びかねない。
 どちらも「死刑」という強烈で非日常的、エモーショナルな言葉に引きずられて適格性という属人性が前景化し、国家の原則である三権分立が後景化する結果となった。それこそ問題だ。葉梨君の葉無しの話は非難には当たらない。真っ当なことを言っている(あー、ややっこしい)。そうではなく、付けた葉っぱがマズかった。なんとも腐れJ民のアホ議員であることか。
 さて、失言の理由(わけ)だ。
 調べてみると、戦前には意外にも失言が皆無に近い。昭和恐慌の引き金となった片岡直温蔵相の東京渡辺銀行破綻発言ぐらいだ。それとて政策上の失言で、適格性マターではない。学者でも専門家でもないから見落としがあるかも知れぬが、比するに戦後の失言のなんと多いことか。国会は失言居士のオンパレードである。
 戦前と戦後。実はここに理由がある。憲法が定める国のかたちが違うのだ。以下は首相官邸のホームページをそのまま引用した。もちろん現代の首相官邸である。
〈明治22年(1889年)2月11日に公布された明治憲法の下においては、天皇が統治権を総攬するものとし、国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス(第55条第1項)と定められていたが、内閣それ自体については特段の規定は設けられていなかった。
 明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。
 内閣総理大臣は「内閣官制」によって、各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス(第2条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。〉
 「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼」の『各』、内閣総理大臣は「他の国務大臣と同格」の『同格』、「同輩中の首席」の『同輩』に注目願いたい。いわば、各大臣はそれぞれ等距離で天皇に直結していたのだ。失言、過言は天皇を貶める。その緊張感があったに違いない。バックボーンが異なったのだ。
 今はどうか。
 現行憲法第68条
「閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。」
 とある。総理が首班であり、総理が任命し罷免できる。各大臣は総理と直結している。失言、過言は総理を貶め、任命責任が問われる。とはいっても、同じ穴の狢ではあるが……。
 加えて過半を占める国会議員は、
「両議員は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と憲法43条に謳われてはいるが、実態的にはこの「全国民」とは選挙区民である。それも当選を満たす人数の支持者だ。それさえ「代表」すれば議員になり得る。土台、バックボーンが違い過ぎる。余程高邁な政治理念をインカネーションした政治家以外、「全国民を代表する」気概を望んでも夢のまた夢だ。なんせ、選挙区民さえ相手にしていれば事は済むのだから。比例区とて事は同じ。手持ちの組織票と知名度に乗っかっていれば身は安泰だ。
 だから戦前へ、などと言っているのではない。民主主義の至難と未成熟を呼ばわっているのだ。どう憲法との乖離を埋めていくか。国民一人ひとりの喫緊の課題である。失言への叱責はそのまま自身への叱責でもある。

【おまけ】
 報道によると、日本維新の会中条きよし議員(76)が15日の参院文教科学委員会で質問の最後、唐突に
「私の新曲が9月7日に出ております。昭和の匂いのする『カサブランカ浪漫』という曲です。ぜひ、お聴きになりたい方はお買い求めください。12月28日は、芸能界最後のラストディナーショーです」
と発言した。
 えっ、『うそ』だろ? いや、ほんとの話。維新の会とはこんな子供だましの政党なのだ。
 もうここまでくると、ハナシ君がとっても立派に見えてくるから不思議だ。 □


「信長さーん!」

2022年11月09日 | エッセー

 キムタク信長の第一声で「信長公騎馬武者行列」が幕を切った。11月6日(日)昼、岐阜駅前目抜き通り1キロを80余人の武者を従え1時間練り歩いた。岐阜市の人口を上回る46万人が詰めかけた。ソウルでの群衆雪崩から1ヶ月余、万全の警備体制が組まれさしたる事故なく終わったのはともあれ幸甚。
 岐阜は斎藤道三有縁の地で信長とは縁が薄いのではとのクレームもあったそうだが、800年の天下太平を築いた文王の「岐山」と孔子有縁の「曲阜」を組み合わせて井ノ口を岐阜と名付けたのは紛れもなく信長だった。だから、縁浅からずだ。おまけに岐阜の名に反し、下克上の闇に葬られたのが49歳。奇しくも木村君と同じ年齢であった。
 さて、「出陣じゃ!」には「キャー!」という叫声が沿道を圧した。群衆の代わりに雪崩を打ったのは歓呼の連鎖だった。
「木村さーん!」「キムタクー!」…………
 何度も動画をチェックしてみたが、「信長さーん!」はひと声もなかった。これはなんということか! キムタク信長は確かに嵌まり役、信長が憑依したように堂々たるものだ。それにしても、いや、それなのになぜ「信長さーん!」がない? 
 まことに当日のオーディエンスは無粋といわざるを得ない。聞き漏らしたのならご免なさいだが、せめて「信長さーん!」のさんざめきぐらいはあってよかった。
 内田 樹氏はこういう
〈(引用者註・昔の映画館は)何百人もぎっしり詰まっていて、鞍馬天狗がやって来ると「ドワーッ」とどよめいて。あのどよめきの中に巻きこまれていくと、ある種身体の共同化を経験するわけです。自分自身の持っている感動能力を超えるんですよね。他の人たちの感動が感染してきて。そうすると自分の個体の容量を超えたような感動が襲ってくるんですよね。〉。(「14歳の子を持つ親たちへ」から)
 ひょっとしてあのオーディエンスは「無粋」なのではなく、「自分の個体の容量を超えたような感動」を置き忘れてしまったのではないかと危惧してしまう。
 この「騎馬武者行列」、まさか2日後の皆既月蝕と他の惑星蝕(天王星蝕)が442年ぶりに同時発生する天体ショーに合わせたわけではあるまいが、442年前天正8年(1580年)は勅命により石山本願寺と和睦した年だ。天下布武が成るか成らぬか、その瀬戸際であった。
 付言すると、「武」とは「戈(ホコ)」を「止」めるとの字義である。したがって、「天下布武」とは平和を志向する理念であった。その歴史の切所に平和な天体ショーが重なった。壮大な奇跡といっていい。
 今はその逆である。地球は2度の大戦を経てなお戦禍に怯えている。それも核によるオーバーキルの危機に。
 次の皆既月蝕と他の惑星蝕(土星蝕)が同時発生する天体ショーは332年後の2344年7月。この惑星はまだあっても住人は入れ替わっているかも知れない。サルでなければいいが……。
 宣教師から欧州の軍事パレードの話を聞き、「御馬揃」として日本で最初に繰り広げたのは信長だったそうだ。人気ランキングでは常にトップの織田信長。しつこいようだが、「信長さーん!」がほしかった。 □


悪運の男

2022年11月05日 | エッセー

 安倍の首筋から突入し一撃で心臓に達した散弾は、途方もなく低い的中確率であったにちがいない。悪運が尽きたというべきか、不運が極まったというべきか。身も蓋もない言い方をすれば、これほど運がない者に本邦は率いられたのだ。そんな国に幸運が訪(オトナ)うはずがない。アベノミクスとやらを初めとして内外政策のすべてが空を切ったのも「あんな男」(内田 樹氏)の運のなさを象徴している。腰巾着の日銀総裁 黒田某も同類。マイナス金利の呪縛に身を苛まれている。とどの詰り、ポピュリズムもネポティズムもまったく功を奏することはなかった。棺を蓋いてもなお事定まらない悪運の男だ。
 世の悪運に偶々遭遇したのではない。真実は逆だ。「あんな男」は「悪運の男」だったのだ。悪運のトップリーダーが国家的悪運を招き寄せ、日本史上に「汚点」(白井 聡氏)を残した。挙句があの弾丸の想像を絶する偶発的軌跡だった。
 国葬への拘りは自民党右派が一刻も早く「あんな男」を忘れたかったからだ。集団的反知性が「汚点」を一時も早く無かったことにしたかったからだ。家族葬に陸上自衛隊の儀仗兵まで繰り出したのは、意外にも衆目を避けるためだった。インターで派手に屯するバイクの一団に人は敢えてフォーカスしない。変な関わりを避けるためだ。理屈は同じ。狙い通りTVメディアはほとんどこの陸自の怪異な演出を扱わなかった。
 忘却のために設えたさまざまな小細工は皮肉にも死屍に鞭打つ結果となった。なぜなら、それらの足掻きを超えて「あんな男」の悪行は大きかったからだ。やがて日本史の「汚点」は「汚物」となって『美しい国 日本』を辱めることだろう。自民党右派の本能的保身感覚が意識下でそう捉え、“擬装”工作に出た──。事のありようはそうではないか。牽強付会と難ずるなら、「あの弾丸の想像を絶する偶発的軌跡」に明瞭な科学的エビデンスを是非とも提示願いたい。客観的論証を超えてなおある現実を人は運と呼ぶ。
 「あんな男」の悪行を再度確かめておきたい。こればかりは忘れてはならないからだ。
〈「売国行為」と「属国化」。結句はこれに尽きる。括れば、「国家の切り売り」だ。その具体的手立てが霊感商法による金銭の収奪。しかも岸信介以来孫の安倍晋三にまで至る統一教会との深い因縁に基づく選挙での差配と霊感商法への暗黙のお墨付き。もう目眩がするほどの闇の構図だ。〉(先月二十五日の旧稿「核心は解散ではなく売国だ」から) □


里芋の味わい

2022年11月01日 | エッセー

 馬齢を重ねると馬鈴薯(駄洒落、失礼)よりも、里芋に嗜好が移るようだ。ポテトチップよりも、ポテトサラダよりも、肉じゃがよりも里芋の煮っ転がしだ。今や、“ぬるっ”を避けて二本の箸をぐっと差し込む不調法が心地よい。
 「煮っ転がし」の呼び名に縛られたか、いかにも鄙びた味につられたか、田舎くさい食い物と見下してきた。ところが山で自生する山芋(自然薯)ではなく、村“里”で栽培される都風の食材なのだ。
 だが、伝来は縄文時代。米よりずっと古い。原産地は東南アジアだから最古参の舶来食材でもある。
 里芋の味わいは郷愁のそれだ。郷愁を深掘りすれば、おそらくお袋の味に行き着くはずだ。もうこれは幻想の領域といっていいだろう。実体験の有無に拘わらず、絵本のような古典的で心温まる幻想の母子関係が里芋の郷愁に仮託されたのではなかろうか。こればかりはジャガイモにも山芋にもできない芸当だ。肉じゃががあるではないかと難じられそうだが、ジャガイモがオランダから伝来したのは十六世紀末年。いわば新参者だ。里芋とは一万五千年を隔てる。おまけに、肉じゃがはかつて東郷平八郎がビーフシチューを真似て作らせたといわれる洋風食。お袋の味と呼ばれ始めたのは一九七〇年代からで、里芋の煮っ転がしの足元にも及ばない。それに、ポテトチップの眩むほどの多様な豪華さに比べれば里芋の存在感はまことに慎ましい。
 美味とは言われずとも里芋が纏う郷愁に気づき始めたのは、母親の存在が消えてからのようだ。これも幻想の連鎖といえなくもないが、心地は悪くない。
 かといってお袋よ、まだ誘うなよ。と、心中呟いて夕餉の里芋を頬張る。 □


核心は解散ではなく売国だ

2022年10月25日 | エッセー

 山際が辞めるの辞めないのは瑣末などうでもいいことだ。岸田の任命責任も末節的マター。TVをはじめとするメディアスクラムは旧統一教会問題への目眩ましである。旧統一教会問題の核心はそんなところにはない! 的を外すな! 
 核心は売国行為だ! 韓国への属国化だ。山際如きの小汚い首一つ、刎ねようがどうなろうが比較の対象にさえならない。穿てば、おバカなマスコミをまんまと陽動作戦に引き込んで問題を矮小化したのだから自民党にとっては大功労者だ。
 8月の拙稿「国家の切り売り」でこう記した。
〈日本の原罪であった朝鮮侵略のトラウマから2つだけ免責されるもの、日本が被害者となり憚りなく世界に正当性を主張できるものがある。NKによる拉致とSKによる詐取(霊感商法・献金)だ。
 しかし、拉致はいっかな進展がない。残る詐取へのリベンジが嫌韓右派が存在意義を失ってでも仕掛けた無理心中ではないか。股ずれ、いや股裂き覚悟の道連れだ。正確には、国家規模の身請けである。日本にも体面はある。国家の名を伏せた保守勢力が身請け金の代替として国家権力を『支払う』。それが無理心中の意味だ。集票と宣伝のバーターではなく、トラウマと権力とのバーターだ。
 つまりは、朝鮮半島へのリベンジ! 
 もちろん意識下での情動ではあるが、これに違いない。
 人も国も追い込まれてにっちもさっちもいかなくなると、突撃か逃避の選択肢しかなくなる。突撃は目的と手段が逆立した「特攻隊」であり、逃避は集団自殺か勝者の奴婢となることだ。韓国との癒着は特攻隊であり、死なば諸共の無理心中。逃避はアメリカの属国となり自立を売って手下の身に甘んじることだ。〉
 統一教会の教典「原理講論」では、自分の罪ではなくても「連帯的に責任を負わなければいけない」という「連帯罪」があると説く。教団では「韓国などを蹂躙した日本に生まれた連帯罪として、日本人は多くの罪を償う必要があるとし、そのために必要な献金について「韓国人の10倍支払うのが相場とされていたらしい。
 「売国行為」と「属国化」。結句はこれに尽きる。括れば、「国家の切り売り」だ。その具体的手立てが霊感商法による金銭の収奪。しかも岸信介以来孫の安倍晋三にまで至る統一教会との深い因縁に基づく選挙での差配と霊感商法への暗黙のお墨付き。もう目眩がするほどの闇の構図だ。
 おまけに、こんな話がある。
「91年に北朝鮮の出身である文鮮明と金日成が会談し、以来蜜月関係にある。それ以降、統一教会は数千億円を北朝鮮に贈っている。その金で核開発やミサイル開発をし、そのミサイルが日本近海へ撃ち込まれている。滑稽な話です」(白井 聡氏、先月のネット対談で)
 滑稽すぎて笑えない。韓国ジャーナリストの推測によれば
──5年前のデータにでは、北朝鮮のGDPは2兆円。日本では47都道府県中、最下位の鳥取県に該当する。その中で軍事費は少なく見ても4000億円(16%)。ほぼ鳥取県の年間予算だ。人口2400万人で100万をえる軍隊を、一人当たりGDP10万円という最貧レベルの国が支える。──
 どだい、算盤が合わない。一体、どんな手で穴を埋めているのか。もしも穴埋めが日本から巻き上げた揚がりだとすれば、前述した「国家規模の身請け」がいよいよ信憑性を高める。したがって、これが問題の核心。なのに日本のジャーナリズムは、なぜここを突かない? 山際なぞという小僧の悪ふざけにかかずらわっている場合ではないのだ。
 17年前(2005年)になるが、精神科医 名越康文氏の名言がある。
「狂い過ぎている人は発症しない。」
 盲信者は常識外の主張で周りの人を同じように狂わせ同類を引き寄せるが、本人は冷静で、狂った素振りが微塵もない(意図的ではなく)との謂だ。蓋し、箴言である。オウムでも旧統一教会でも同様に観察された病態である。教会の勅使河原なる人物がその一典型であろう。
 解散しても財政上の優遇措置がなくなるだけで、一民間の任意団体として存続できる(固定資産税や所得税は払わねばならないが)。またぞろ「発症しない」者どもがむっくと起き上がって新手の牙を剥くにちがいない。もはや市井の一人ひとりが賢明になるしか防ぎようはない。 □


知らないから旅を始めた

2022年10月21日 | エッセー

 2011年1月、26歳の日本人青年がパールハーバーを訪れた。彼は後、こう記した。
〈パールハーバーを訪れたことをきっかけに、僕は新しい土地へ行くたびに戦争に関する博物館を訪れるようになった。真珠湾の博物館は、とても「爽やか」で「楽しい」ものだった。では、他の国では、他の場所では、戦争はどのように記憶されているのだろう。そんな素朴な気持ちで始まった旅は、とても楽しいものになった。戦争博物館へ行けば、その国が戦争をどのように考え、それをどう記憶しているのかを知ることができる。ショッピングだけで終わる観光旅行よりも、よっぽど楽しい。〉(抄録)
  2年後、「戦争博物館巡り」は『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)と題して一書にまとめられた。著者は社会学者 古市憲寿。
 巻末には、訪れた日本国立民族博物館、広島平和祈念資料館、アウシュビッツ博物館など47の戦争記念博物館がレビューされ、寸評が述べられ、エンタメ性・目的性・真正性・規模・アクセス の5項目から総合評価した『ベストテン』が付されている。ショッピングより「よっぽど楽しい」の中身はこの5項目であろう。
 5項目評価などとは何だかおふざけのようだが、戦後40年生まれの彼にはそれが偽らざる世代的感覚なのだろう。柔軟で鋭い知見が随所で光る。
 あるいは、「教えてくれなかった」に戦争の連続だった世界の近現代史への無知を難ずる向きもあろう。しかし同じ「知らない」でも、1971年、当時同じく26歳だった北山 修がレコード大賞新人賞・作詞賞を取った『戦争を知らない子供たち』の「知らない」とは訳が違う。戦後未だ26年、原体験はないにせよ、北山の世代は日本史上初の敗戦を喫した直後の子どもたちである。ましてやベトナムは戦禍の真っただ中にあった。学府に身を置く者として「知らない」でいいわけがない。そのお気楽に比べれば、古市君はよほど真摯ではないか。
 とすると、『誰も戦争を教えてくれなかった』は13年の拙稿「ふと、『「戦争を知らない子供たち』」で吐露した違和感へのアンサーともいえる。
 旧稿を引こう。
〈実をいうと、当時からこの曲があまり好きではなかった。同じアジアで戦火が猛り日本が片棒を担いでいるというのに、いかにも歌詞が現実離れしている。加えて、杉田二郎はなぜこんな妙に明るい能天気なメロディーを付けたのか。おかげですっかり“調子のいい反戦歌”のようで、違和感を覚えたものだ。ただ、それまでの呪詛のような重苦しい反戦歌へのオブジェクションだったといえなくもない。だがそれにしても、“レコ大”などというメジャーな世界に唯々として取り込まれたのでは身も蓋もなかろう。
 今にして振り返れば、「知らない」とはどういう謂なのだろう。原体験がないということならもっともだが、団塊の世代を軸に考えると「知らない」はずはない。なにせこの「子供たち」の親は、戦争を嫌と言うほど知っている。ならば、知らせなかったのであろうか。それもない。あるいはこの「子供たち」は戦争に手を染めていないから、平和を謳歌する資格があるとでも言いたいのか。それほど短見でもあるまい。この期に及んで言葉にすれば、違和感とはつまりそういう心情であった。〉
 「違和感へのアンサー」は、「誰も戦争を教えてくれなかった。だから僕は、旅を始めた。」とのフレーズに凝る。「知らない」と歌うより、「知らない」から旅に出る──大違いだ。古市君に賛意をおくり、讃えたい。
 と持ち上げたところで、苦言も呈しておきたい。
 別に他人の交友関係に物申す資格はないが、肯んじ難い繋がりもある。故 安倍晋三夫婦との親密だった交友関係である。戦前志向の安倍とどう結びつくのか。ウイングの広さともいえるが、相手は公人、権力者である。どうにも納得がいかない。
 政治学者 白井 聡氏はこう語る。
〈テレビ出演の多い国際政治学者の三浦瑠麗さんとか社会学者の古市憲寿さんとか、一度も権力側と対決していない分、何かぬるっとした印象を受けますよね。(略)(引用者註・メディアも学者も)リスクを覚悟してやるのが義務だと思う。結局、メディアも学者もみんなちょっとずつリスクを取らなきゃいけないのに、誰も取ろうとしないから政治家に負け続けるような状況になっているんですよね。〉(「日本解体論」朝日新書から)
 「ぬるっとした印象」とは言い得て妙だ。古市君は意に介さないだろうが、裏人脈に搦め捕られているように見られては社会学者の名が泣き、戦争博物館廻りの値打ちが下がる。老婆心ながら。 □


紅葉

2022年10月16日 | エッセー

〈写メの画素数が驚異的に上がっている。もはや現実を写していないと語る識者もいる。
 CDは人間の耳に聞き取れない高低音域を切り捨てて、文字通りコンパクトに録音した媒体である。写メの画素数を上げて「人間の目に見えている世界よりも美しく」現実を写す方向とは逆である。興味深いのは視覚のそれは現実の被写体から乖離していくことだ。「もはや現実を写していない」とはそのことだ。
 三次元の情報を二次元で受け、それを脳で三次元に戻す。その戻す際に錯覚は生じる。なんとも複雑だが、目の構造上そうするしか仕方がない。二次元の網膜から脳へ情報を送る視神経は五感の中で神経本数が最多である。太古フィジカルにはひ弱なヒトが生き残るため、敵をいち早く発見して身を隠すためであったろう。ヒトの視覚は元来脳が生み出したヴァーチャルなのだ。しかし写メはそれをも超え、「もはや現実を写していない」域に達した。
 三島由紀夫のことばが浮かぶ。
 〈「私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持って歩くと、自分の目をなくしてしまう。自分の目をどこかへ落っことしてしまうのである。つまり自分の肉眼の使い道を忘れてしまう。カメラには、ある事実を記録してあとに残すという機能があるが、次第に本末顚倒して、あとに残すために、現在の瞬間を犠牲にしてしまうのである。」(昭和55年「婦人倶楽部」から)
 名所は落っことした目ん玉で溢れかえるだろう。カメラは文化の市民化に大きく貢献したが、もうそろそろ風光明媚はプロに任せて「現在の瞬間」を獲り逃がさぬよう刮目して錦秋に向き合いたい。〉
 20年11月の拙稿「急伸する画素数」を再録した。今年、インバウンド解禁もあって紅葉の名所では特に「目ん玉で溢れかえるだろう」。
 枕草子では「濃き紅葉のつやめきて」(三十七段)と詠われ、徒然草では「あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり」(五十四段)と過剰な演出を誡めている。つまりは、自然体で向き合えと諭している。今、錦秋の京都に溢れ返るカメラの陣列に兼好法師が直面したなら、なんとあわれを知らぬ人たちか、と嗚咽するにちがいない。
 酢豆腐だが、紅葉は決してくれない一色ではない。そうなら日本的感性の対極になる。数え切れないほどのさまざまな色合いに染まる。それが秋の木々が繰り出す妙技である。
 もみじとは「色を揉み出ずる」を語源とし、植物の色づきをいった。特定の色名ではない。動き、だった。名詞と動詞の違いである。「理科」を準(ナゾ)れば、冬に備える省エネモードへの切り替え行為が紅葉である。となると、「揉み出ずる」に込めた古人の智慧に叩頭せざるを得ない。
 ついでに酢豆腐をもう一丁。エスキモーは「雪」を〈降雪、融雪して水にする、積雪、細雪、吹雪、雪塊〉の6種に表現するそうだ。英語はsnowひとつ。アメリカの言語学者 サピア=ウォーフは「それぞれの言語体系に応じて、その数だけの世界観が存在する」と仮説を立てた。「言語相対性説」と呼ばれる。言語は単なるコミュニケーション ツールではなく、無意識レベルで発語者の認識や思考パターンをも形作るとの主張だ。エスキモーにとっての雪と欧米人のそれとは異なる。ならば時間軸を据えると、清少納言が捉えた紅葉と現代人のそれとは別物となるか。
 さて、秋の絶景と対峙しつつ盛んにシャッターを切る人たちは果たしてなにを観ているのだろう。ふと疑問が過(ヨギ)る。 □


ぼくらの戦争

2022年10月11日 | エッセー

 「ぼくら」の対語は「かれら」である。はっきり言うと、ウクライナ戦争は「ぼくらの戦争」ではなく「かれらの戦争」である。TVでウクライナの戦況を伝えない日はない。新聞も雑誌も日本中のジャーナリズムが挙げて事細かに伝えている。ナガサキに続く3度目の核攻撃の危機も含めて……。
 だが、依然としてウクライナの戦争は「かれらの戦争」である。なぜか? 8.167キロメートルの距離ゆえか。いや、そうではあるまい。陳腐な言い方だが、「こころの距離」ではないか。
  作家 高橋源一郎は近著「ぼくらの戦争なんだぜ」(朝日新書、今年8月刊)でこう綴った。
〈「戦争」について知ろうとすること。それは、ぼくたちの「過去」について知ろうとすることだった。つまり、ぼくたちが、どこから来たのかを知ろうとすることだった。どこから来たのかがわからなければ、どこにも行くことはできないのだ。幼いぼくが、親戚たちがする「戦争」の話に無関心だったのは、それが「彼らの戦争」に思えたからだ。ぼくには無関係な、遠い世界での「戦争」に思えたからだ。けれども、「彼らの戦争」について考えながら、それは、いつの間にか、「ぼくらの戦争」について考えることに変わっていった。それがなぜなのか。「ぼくらの戦争」とはなになのか。そのことについて考えた。そして書いた。〉
 高橋源一郎は作家である。彼はその難題に戦争の言葉から迫った。
〈教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。〈(同書カバーから)〉
 太宰の「秘密のサイン」は圧巻だ。冗長ではあるものの、この作家の炯眼が冴え渡る。
 東大教授 加藤陽子氏は
〈思想ではなく感覚で「日常」を感受せよ──。もう始まっているかも知れない「戦争」への手立てを著者は渾身のことばで説いた。〉
 と、推奨の辞を寄せている。
 書中、ドイツの哲学者カール・ヤスパースの箴言が引かれている。
〈その事実(引用者註・ナチスによる蹂躙)を忘れ去るということはまさしく犯罪である。このことを人々は絶えず思い出すべきである。このことが実際に起こり得たということは、なおかつ、それはいつでも起こり得るということである。ただ真実を知ること、このことのうちにのみ、かかる悲劇的な運命を回避する可能性が秘められているのである。〉
 高橋源一郎のこの作品は「ただ真実を知る」ために費やされた労作である。──それは解る。だが、ウクライナの戦火は未だ熄(ヤ)まない。世界中の「かれらの戦争」が「ぼくらの戦争」に変位するまでは、人類の宿痾との至難の攻防はつづく。しかし見果てぬ夢と打っちゃるわけにはいかない。その夢にしか人類の愚かな自死を避ける『夢』はないのだから。 □


ストライク!

2022年10月08日 | エッセー

 ストライク=strike とはなにか? 「攻撃せよ」がその元意だ。相手に対する攻撃を命じている。軍隊なら銃砲撃開始だ。警察なら犯人のアジトへ突入、会社なら販売攻勢の狼煙か。
 では、野球ではどうか? 
 「打て!」であろう。打てて当然のゾーンに球を送るから「ストライク=strike」! 「攻撃せよ!」となる。もちろん「そこは打てない」の外れ球を攻撃してもいい。なぜなら、打者は攻撃の任を帯びて打席に立っているのだから。ただし3回命令されても実行できなければ、晴れの舞台から引きずり下ろされる。ただ、打球が競技スペースを左右に外れて落下した場合は再挑戦が許される。ほとんどが捕球できないし、投手の疲れや苛立ちを誘発する打者の作戦でもあるから。──そういうことではないか?
 大谷翔平がマウンドにいる場合は、ひたすら打者に対して「攻撃せよ」と命じつつ投球を繰り返している。だが命令を実行できない不甲斐ない奴らが続出。死屍累々だ。それが投球回数166回、内15勝9敗、防御率2.33、奪三振率11.87、219奪三振の偉業である。
 おもしろいのは、大谷がバッターボックスに立った時だ。今度はひたすら「攻撃せよ」の命令を受けることになる。命令の発出者から受命者へ。ここでストライクは逆立する。
 その異様な逆立ちはイニング毎に繰り返されたが、大谷は健気にも命令を忠実に実行し抜いた。それが打率2割7分3厘、本塁打34本、打点95の大功である。「2桁勝利と2桁本塁打」! ここに攻撃命令の遂行と攻撃命令の打破という野球史の大矛盾、世紀のデュアルが大谷の一身で見事に止揚された。
 考えてみれば、奇妙な話ではないか。こんなデュアルな物語はコナン・ドイルもヒッチコックもはたまた三谷幸喜でさえ作れはしない。世は三冠王の帰趨で持ちきりだが、そんなことは小さい、小さい。
 太平洋を跨いで二刀流を大リーグに持ち込み、大立ち回りを演じた大谷翔平には二刀流の始祖 宮本武蔵が発した次の言葉こそふさわしい。
「あれになろう、これに成ろうと焦心(あせ)るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。」(吉川英治『宮本武蔵』から)
 シーズンの締め括りに「来年継続して、もっともっと成長できれば、もっともっと良い選手になれると思う」と大谷翔平は語った。二刀を手挟んだ若武者は世の賞賛に惑わされず、じっと冠雪した富士を見詰めているにちがいない。富士の山は今日も凜として二色に輝く。 □


驚きのノーベル賞

2022年10月06日 | エッセー

 以下、今月4日の朝日から。
〈ジョークだと思った ノーベル医学生理学賞のペーボさん 喜び語る
 古代人類のネアンデルタール人のDNAを解析し、現代の人類の祖先がネアンデルタール人と交雑していたことを突き止めた。
 これまでの研究生活で最も胸が高鳴ったのは、初めてネアンデルタール人のゲノム配列を見て、現生人類と似ているけど違うことがわかったときだという。
 ペーボさんらの研究チームは、新型コロナウイルスの重症化に関わっている遺伝子の型が、実はネアンデルタール人に由来しているなどの研究成果を発表。人類進化の研究は、現代の感染症研究のヒントとなる可能性も示唆している。〉(抄録)
 「ネアンデルタール人と交雑」! これに目が釘付けになった。今から13年前09年8月、拙稿でそのことに触れていたのだ。
〈いとこが消えて……
 ネアンデルタール人。19世紀中葉にドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷で発掘されたことに名を採った。20万年前に現れ、石器を作り火をさかんに使った。ヨーロッパを中心にして西アジア、中央アジアまで分布した。むかしはこれがホモ・サピエンス(現生人類)の祖先とされていた。しかし遠祖は共にするものの、50万年前に別系統で進化したことが判明した。遺伝的に両者は隔絶しているのだ。いわば「いとこ」に当たる。
 このネアンデルタールが、2万数千年前忽然と姿を消した。絶滅の原因はいまだ定かでない。ほかのホモ属との衝突が壊滅的に高じたためか、他属と獲物を奪い合い食料危機から抜け出せなかったのか。あるいは、【ホモ・サピエンスと混血】し吸収されてしまった。小集団で近親婚を繰り返し繁殖力を減退させた、など諸説が入り乱れる。
 実はネアンデルタール人の脳は1550㏄で、現代人の1350㏄をはるかに上回る。 …… だが、消えた。問題は量ではなかったのだ。
 石器文化はもっていたものの旧態を維持するのみで新しい発展はなかった。壁画、彫刻を創らず芸術の萌芽はない。埋葬の形態も極めて初歩的な段階で止(トド)まっている。つまり、抽象的思考が未発達のままに終わったのではないか。だから発話言語はあっても、複雑な文節言語は使えなかったにちがいない。埋葬は死後という抽象に思考が及ばなければ、喪葬へと進展し得ない。石器様式の進展、芸術の創造、抽象的思考、完全な文節言語の使用など、古人類学でいう「行動の現代性」(現代人的行動)を獲得するに至らなかった。それらを十全に具えたのはホモ・サピエンスのみであった。「ホモ」は哺乳類、「サピエンス」は知恵者の謂だ。「知恵のある人」 ―― どうもこのあたりが両者の命運を別けたのではないか。
 体躯としては、ネアンデルタールは寒冷に適応していた。胴長短足で頑丈。熱帯では不利だが、寒冷地に特化した体型だった。しかし熱帯から進出してきたホモ・サピエンスが更新世最後の氷河期をヨーロッパで生き抜き、ネアンデルタールは絶滅した。果てしない絶望的な極寒にフィジカルに応じたか、「行動の現代性」で築き上げた文化で処したか。その違いであろうか。〉(抄録)
 「行動の現代性」の中核は集団活動ではないか。何度か触れてきたユヴァル・ノア・ハラリがいう「認知革命」によって獲得したホモ・サピエンスの属性であろう(17年1月の愚稿「サピエンス全史」で触れた)。
 さらに身につまされたのが「新型コロナウイルスの重症化に関わっている遺伝子の型が、実はネアンデルタール人に由来」の一文だ。ということは、わが身にはネアンデルタール人の遺伝子が濃く残存しているのか。交雑の成れの果てか、不都合な交わりのゆえか。先月の魔の咳き込みが俄に再来しそうになる。だが、古人類学研究の余沢にあずかって、新型コロナの来由を掴めたといえなくもない。同時に、なぜかネアンデルタール人が愛おしくも感じられるのは遠いいとこゆえか、あるいは馬鹿な子ほど可愛いゆえか。いや、それは時系列が逆転している。「馬鹿な親ほど」というべきか。はたまた、「進化は善」の大いなる誤解ゆえか。おそらく後者であろう。 □


詩国 詩魂の系譜

2022年10月03日 | エッセー

 高杉晋作がもし現代に生まれていたら高名な詩人になっていたであろう、とは司馬遼太郎の言である。晋作、金子みすゞ、中原中也、そして木下龍也。恥ずかしながら、木下については昨夜の『情熱大陸』を観るまで知らなかった。他県にも名の知れた詩人はいるが、詩魂の系譜は窺えない。意味は、属人的な詩心が地誌的にリゾームをなす様である。各県別の文学史を編んだとしたら詩人で一蘭ができるような県とでもいおうか。
 以下、ウィキペディアから。
〈2011年より本格的に作歌を始める。雑誌『ダ・ヴィンチ』の短歌投稿コーナー「短歌あります」に採用されたことで、新聞やラジオへ投稿するようになる。2012年には現代歌人協会主催の第41回全国短歌大会にて大会賞を受賞。東直子、加藤治郎のスカウトにより、書肆侃侃房から第一歌集『つむじ風、ここにあります』を出版する。
 2018年には舞城王太郎と岡野大嗣と共著の『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を出版し、発行部数1万部を記録した。
 2021年にナナロク社から『あなたのための短歌集』を出版。2017年から始めている短歌の個人売買『あなたのための短歌一首』を書籍化したもので、著者印税は受け取らずに印税分で歌集を購入し、希望する学校や図書館などに寄贈している。今年34歳。〉
 『あなたのための短歌一首』とは、依頼者からのお題をもとに一首1万1千円で短歌を作り、封書にして送る活動で、4年間で700首を生み出している。
 例えばこうだ。

【お題】長い間、片思いをしていた相手がいます。もう前に進もうと決めました。背中を押してくれるような短歌をください。
【短歌】ふりむけば君しかいない夜のバスだから私はここで降りるね

【お題】20年間オリンピックを目指してきたバドミントンを止め方向転換します。
【短歌】まだシャトルみたいにゆれてしまうけどコートの外の季節をゆくよ

 俵万智に通底し、かつそれを超える感性が光る。短歌の古色はまったくない。山口が生んだ歌人たちの詩心は木下龍也に流れ通っている。つまりは、そこに確かな詩魂の系譜を覧るのは牽強付会が過ぎるであろうか。
 ただし短歌集にした印税は寄贈に回しているのでそれでよしとはできるが、作歌を有料化するというアイデアには抵抗もあろう。だが書籍で売ろうが個別に売ろうが、詩歌を売ることには変わりない。詩人の活計(タヅキ)である。彼らとて霞を喰っては生きられまい。むしろ、飛切りの装いをファッションデザイナーというプロが担うように、心情の飛切りの言語化を詩人というプロが受け持つ。そう捉えればどうだろう。ならば『あなたのための短歌一首』は大いにありではないか。
 時代は変わる。置いてきぼりは御免だ。 □


茶番国葬

2022年09月27日 | エッセー

 語源辞典には
〈「茶番」は「茶番狂言」の下略で、江戸末期に歌舞伎から流行した、下手な役者が手近な物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。 本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などを使いオチにしたことから、この寸劇は「茶番狂言」と呼ばれるようになった。〉
とある。
  政府が使う国葬『儀』とは国葬の擬い物との謂である。したがって、茶番と断ずる。
 「下手な役者」……あの暗殺がなければ日の目を見なかったであろう岸田クンだ。
  「手近な物を用いて」……自民党右派への秋波に手近に見えたに違いない。この辺り、いかにも軽い、軽い。
 「滑稽な寸劇や話芸を演じるもの」……菅が追悼の辞でお追従。文字通りの「滑稽な寸劇」だ。その器にあらざる者が格好付けると滑稽でしかない。陳腐な答弁は大根役者の芸成らざる話芸ともいえる。
 「楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者」とは前記の「下手な役者」の言い換え。自民党右派へのサービスがとんでもない裏目に出て、支持率急落の憂き目。大部屋の役者がやりそうなことだ。
 「余興で茶菓子などを使いオチにした」……大層な国家行事に三権の議決がない。そんなのはまるでアトラクション、余興ではないか。茶菓子は差し詰め献花の菊か。大変な品薄、高騰と聞く。
 「オチ」は支持率の落ちとなり、政治の堕ちが極まって奈落の底か。
 思想家 内田 樹氏がこないだRADIO SAKAMOTOでしみじみ語っていた。
「若いころは体制を外側から変えなきゃダメだといきがっていたが、長く生きてきて気がついた。中身が変わらないと同じこと。みんながちゃんとしなければ変わらないと」
 民度が上がらないと民主主義はいとも簡単に骨抜きにされてしまう。今日、九段坂公園に積み重なる献花の山は「みんながちゃん」としていないメルクマールではなかろうか。「あんな男」(内田氏)には「あんな贔屓筋」しか付かない。
 かくて『日本のいちばん愚かな日』が始まる。(9月27日午後12時) □


9月の出来事から

2022年09月26日 | エッセー

■ 通園バスで園児置き去り 死亡
 毎年のように起こっている。原因は何か? TVではコメンテーターがああだこうだと囂しいが、根因はただひとつ、愛情がないからだ。 わが子や孫なら絶対に見逃すはずはない。愛情がないから事故を起こす。愛情がない者が園を差配するから事故が起こる。
 では、どうやって見分けるか。保育士の動きをじっと見るのが骨法。心底楽しそうに働いている保育士が2割いれば信頼できる。残り6割は引き摺られて普通に働き、2割はどうしても不労のまま。全員が理想だが、そうはなかなか問屋が卸さぬ。2─6─2は集団行動の黄金律だ。

■ 西村 何様?
──「お土産持ち人員」「サラダ購入部隊」「荷物持ち人員」「弁当購入部隊とサラダ購入部隊」夕食には「弁当購入部隊とサラダ購入部隊の二手に分かれて対応」「発車時刻の20~30分前には駅に到着」「お土産の購入量が非常に多いため、荷物持ち人員が必要」「生モノ購入には「保冷剤の購入は必須」など──
 これは朝日新聞が入手した西村康稔経産相の出張への省内対応ロジ文書。これはまるで「桜を見る会」の猿真似だ。さすがは安倍の子分、やることが薄汚くさもしい。「西村 お前、何様だ!」と吠えたくなる。
 数日後、「現場で気をきかせてくれたものと認識しているが、行政官が奉仕すべきは国民。本来の公務に支障がないよう、過度な負担とならないよう事務方に伝えた」と話したそうな。それを言うならその場で言え。言い訳がましいとはこのことだ。お前の後講釈なぞ聞きたくもない。かてて加えて、政治家の劣化はついに官僚にまで及んだ。
 政治学者 白井 聡氏は、近著「日本解体論」でこう述べる。
〈結局のところ日本の民主制を機能不全にしているのは官僚なのです。極めて重要な国の方向性の根幹に関わる争点は、本来公的な場で十分な議論がなされ、選挙で有権者に選択を問うべきものです。しかし現実には、見えない密室でごく少数の人間が綱引きをやって決めている。宮廷内の権力闘争ですべてが決まる国家と何も変わりません。つまりは、日本の官僚機構は、民主主義の敵です。〉
 大臣もアホだが、アホを裸の王様にして霞ヶ関で覇権争いをする官僚どもはまさに「宮廷内の権力闘争」、「民主主義の敵」である。
  
■ 似非大横綱の大きなお世話
 今場所、支度部屋への通路で土俵から帰る力士にアドバイスをする白鵬の姿が散見された。12・13日目だったか、解説の北の富士が「早く帰りたいのに、大きなお世話だよ」とコメント。痛快! 切れ味抜群! 
 横綱のなんたるかが最後まで判らず、ダーティとヒールの名をほしいままにした白鵬の助言なぞなんの足しにもならない。単なるマウンティングで、まったく大きなお世話だ。前期の西村と大差はない。お前、何様だ。

■ 玉鷲 最年長優勝
 似非横綱に比して、なんと玉鷲の鮮やかだったことか。以下、17年7月の毎日新聞から。
〈17年7月の九州北部豪雨で大きな被害を受けた福岡県朝倉市の寺が、大相撲九州場所でモンゴル出身の前頭・玉鷲が白星を挙げるたびに祝福の鐘を午後6時に3回鳴らしている。住民は、被災者を慰問するなど同市に心を寄せ続ける玉鷲への感謝と、「朝倉が復興に向け歩んでいる姿を見せたい」と語る。〉
 昨日の6時には3回どころか蔵前へ届けとばかり、乱打、連打の滅多打ちではなかったか。

■ 統一教会問題
 作家の佐藤 優氏は月刊誌への寄稿で、こう釘を刺す。
〈教会建設のために多額の献金をしたり、土地を寄贈したりする人もいる。信徒が自らの意思に基づいて献金する権利が保障されていなくては、信教の自由も宗教団体の自主的運営も実質的には担保されなくなってしまう。一部の有識者が宗教団体への献金に法律で上限額を定めるべきと主張するが、宗教を信じる人々の心情を無視した暴論だ。〉 
 献金自体が悪ではない。「自らの意思に基づいて」いない『自らの意志が歪められた』献金が悪なのだ。霊感商法が悪なのだ。そこは立て分けが必須である。
 さらに統一教会が自らの教義を政治の舞台で実現しようとする運動は決して違法ではない。いかに陳腐で偏向した非人道的教義・信条であろうとも選挙への支援を通じて実現を図ることは決して違法ではない。憲法20条の通りだ。教義・信条の攻防は言論の場で決着を図るマターだ。
 むしろ問題は、票欲しさに日本属国化を図る外国勢力と癒着した自民党にある。なんと愚かしいことか。それがそのまま売国行為となることに考えが及ばなかったのだろうか。
 二階元幹事長は「『この人は良い』とか『悪い』とか、瞬時に分かるわけがない。できるだけ気を付けてやったらいい。その上で、問題が分かった場合に「見直していくということで良いんじゃないですか。問題があればどんどん出して究明していくべきだ。自民党はびくともしない」と述べた。
 他人事にしてすっとぼけていると酷評されたコメントだが、「びくともしない」とは言い得て妙だ。このひと言は、売国行為だって呑み込んで票の足しにしていく自民党という名のサタンの捨て台詞ではないか。これは怖い。身の毛がよだつ。

 このようにして9月は気づかぬうちに過ぎ去った。個人的には独房の中で気づきようもなく、世間は物価高と愚にもつかぬチンドン屋のような国葬騒ぎの中で。 □


コロナについての掌話

2022年09月22日 | エッセー

 「陽性です」のひと言に救急外来の診察室が凍り付いた。直ちにビニールケースがすっぽりと被せられ、患者は最上階の隔離病棟へ。
 猛烈な咳が襲う仲、心電図の電線や点滴の管が体中を覆いモニターが開始される。何重にもビニールで全身を覆う専用防護服で処置を終わると、医師と看護師は簡単な説明をし、治療費は全額国庫負担になると言い残して病室を立ち去った。
 その後訪れるのは3度の食事を運び、定期的に検査に訪れる選抜され特殊技能を身につけた看護師のみ。常に「見護る」のは24時間監視カメラだけだ。
 喉が千切れるほどの激越な咳は続く。なぜか体温は38度を越えることはない。臭覚にも嗅覚にも異常はない。絶え間なく襲うのは激越な咳に化身したデーモンだ。
 服薬は米国製とされる小指ほどもある真っ赤なカプセル。日に数個、嗚咽を堪(コラ)えながら無理矢理呑み込む。
……ひょっとしたら咳に化身したデーモンを迎え撃つ亜種のデーモンか。
 その内にもう一つのデーモンが現れる。──孤独だ。
 ビジネスホテル並みの個室ではあっても、孤絶が全身を音もなく蚕食していく。この膂力は耐え難い。デーモンは点滴の1滴1滴にメタモルし容赦なくペイシャントのこころを打ち砕いていく。彼は今、堅牢な病室に置き去りにされた孤児(ミナシゴ)なのだ。
 スマホは赦される。見舞いが届く。感涙はするものの、1通の受信が重い。レスはなお荷重を強いる。それほどに無音で不干渉で非接触の事況が気力を奪っていく。むしろ採血の針が刺さる痛苦こそが生の証を供する縁(ヨスガ)だ。二重窓の向こうに広がる気儘な天候が煩わしい書割にしか見えない。……見たくもない。
  「番長、急死」の報が届いたのは5日目のことだった。埼玉に住まう同い年の滅法気っ風がよく、喧嘩で負けたことのない男だった。市内の高校はヤツの支配下にあった。その漢(オトコ)が感染後、自宅待機中に様態が急変し逝ったという。……デーモン、それはないだろう。選りに選ってなぜヤツを連れ去った。嗚呼。 
 デーモンの化身。最強のそれは食事となって責め立ててくる。物相飯だ。いや、それ以下かも知れない。「喰えるものなら喰ってみろ」と喧嘩を売ってくる。患者をして滋養を与えるものではなく、明らかに食欲を掠め取りレジリエンスを蝕むものだ。……デーモンは終(ツイ)に栄養士に化身した。

 やがて咳魔は撃ち方を控えるようになり、長かった攻防に決着が着いた十日目。凶状持ちはなぜか五体の検(アラタ)めもせず、十日が来たことをもって一般病棟に移管された。これから併発した既往症のキュアに入るという。……デーモンは身繕いを変え、まだ追っかけてくるか。
 病床のストレスを訴え続けた一ペイシャントの声が届いたものか、電線もパイプも必要最小限に減らされた。だが返す刀で、大量の投薬が始まる。食欲が減退し、ほとんど食物が喉を通らないなか、薬という名の化学物質が体中に浸潤していく。現代医学の汀(ミギワ)が晒されたようで悍ましくもある。……人体を限りなく物質化するテクノロジー、それが今の医学だとデーモンが囁く。
 この病人がストレスフルな入院生活を脱するため繰り出した取って置きの戦法。ここだけの話──嫌われることだ。これに限る。病気に託(カコツ)けたクレーマーだ。早期退院を勝ち取る秘中の骨法である。……これが効いた。見事に。残り3週間が1週間に縮んだ。デーモンは悔しがるだろうが。
 かくして彼はガチンコ勝負を制し、生還を果たす。ただし、病院のファサードから蹌踉(ヨロボ)うように、老残の身を引き摺りながら。
 本当のところ、勝敗は決していない。病室からこの陋屋へ軍場(イクサバ)が移っただけなのだから。半月の間顔を会わすこともなく自儘な生活を堪能した荊妻には申し訳ないが、老老介護、いや老老看護が始まった。
 以上で掌話は筆を擱(オ)く。デーモンは病魔に、病人は菅の世話にはならないと一度もワクチンを打たず徒手空拳で立ち向かった稿者に置き換えていただければ、たちどころに掌話はお粗末な笑話(ショウワ)へと変ずる。蛇足まで。 □


お知らせ

2022年09月04日 | エッセー

 菅の世話にはならぬと大見得を切ってワクチンを一度も打たず、作月末日遂に罹患し、ついでに心臓の既往症も併発。誠にみっともない、面目ない。穴があったら入りたいところですが、強制的に穴蔵に押し込められてしまいました。

 よって、しばらく休載させていただきます。 □