マスコミ挙げて上を下にの大騒動。挙句、更迭された葉梨君。枝を取り、葉も取り払ったハナシにすると、「法相は死刑のはんこを押す仕事」となる。別に可笑しなことはいっていない。TVに出るだの出ないだのと、ハナシのくせに変な枝葉をくっつけたから叩かれた。腐れJ民党のアホ議員がやりそうなことだ。
メディアスクランブルの陰に隠れて失念されているが、法相が死刑を決定するわけではない。決めるのは裁判所、司法だ。司法の決定に行政府の法相が叛心を起こしてはんこを押さないと三権分立は崩れてしまう。至極当たり前のことではないか。
それを朝日ですら一面リードで「死刑執行を命じる法相の役割を軽んじた」と報じた(11月12日)。実に曖昧な表現だ。「命じる」は「決定する」と誤解される。同日の社説には「執行に対する厳粛な気持ちも、その最終判断を担う重い責務への自覚もうかがえず」と述べた。「最終判断」は、裏返せば「最終的な回避」もできるとの誤解を呼びかねない。
どちらも「死刑」という強烈で非日常的、エモーショナルな言葉に引きずられて適格性という属人性が前景化し、国家の原則である三権分立が後景化する結果となった。それこそ問題だ。葉梨君の葉無しの話は非難には当たらない。真っ当なことを言っている(あー、ややっこしい)。そうではなく、付けた葉っぱがマズかった。なんとも腐れJ民のアホ議員であることか。
さて、失言の理由(わけ)だ。
調べてみると、戦前には意外にも失言が皆無に近い。昭和恐慌の引き金となった片岡直温蔵相の東京渡辺銀行破綻発言ぐらいだ。それとて政策上の失言で、適格性マターではない。学者でも専門家でもないから見落としがあるかも知れぬが、比するに戦後の失言のなんと多いことか。国会は失言居士のオンパレードである。
戦前と戦後。実はここに理由がある。憲法が定める国のかたちが違うのだ。以下は首相官邸のホームページをそのまま引用した。もちろん現代の首相官邸である。
〈明治22年(1889年)2月11日に公布された明治憲法の下においては、天皇が統治権を総攬するものとし、国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス(第55条第1項)と定められていたが、内閣それ自体については特段の規定は設けられていなかった。
明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。
内閣総理大臣は「内閣官制」によって、各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス(第2条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。〉
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼」の『各』、内閣総理大臣は「他の国務大臣と同格」の『同格』、「同輩中の首席」の『同輩』に注目願いたい。いわば、各大臣はそれぞれ等距離で天皇に直結していたのだ。失言、過言は天皇を貶める。その緊張感があったに違いない。バックボーンが異なったのだ。
今はどうか。
現行憲法第68条
「閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。」
とある。総理が首班であり、総理が任命し罷免できる。各大臣は総理と直結している。失言、過言は総理を貶め、任命責任が問われる。とはいっても、同じ穴の狢ではあるが……。
加えて過半を占める国会議員は、
「両議員は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と憲法43条に謳われてはいるが、実態的にはこの「全国民」とは選挙区民である。それも当選を満たす人数の支持者だ。それさえ「代表」すれば議員になり得る。土台、バックボーンが違い過ぎる。余程高邁な政治理念をインカネーションした政治家以外、「全国民を代表する」気概を望んでも夢のまた夢だ。なんせ、選挙区民さえ相手にしていれば事は済むのだから。比例区とて事は同じ。手持ちの組織票と知名度に乗っかっていれば身は安泰だ。
だから戦前へ、などと言っているのではない。民主主義の至難と未成熟を呼ばわっているのだ。どう憲法との乖離を埋めていくか。国民一人ひとりの喫緊の課題である。失言への叱責はそのまま自身への叱責でもある。
【おまけ】
報道によると、日本維新の会の中条きよし議員(76)が15日の参院文教科学委員会で質問の最後、唐突に
「私の新曲が9月7日に出ております。昭和の匂いのする『カサブランカ浪漫』という曲です。ぜひ、お聴きになりたい方はお買い求めください。12月28日は、芸能界最後のラストディナーショーです」
と発言した。
えっ、『うそ』だろ? いや、ほんとの話。維新の会とはこんな子供だましの政党なのだ。
もうここまでくると、ハナシ君がとっても立派に見えてくるから不思議だ。 □