いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

言語の限界に関する考察(3)。

2007-10-21 06:35:00 |  Study...
間が開いてしまったけれど、言語の限界に関する考察(2)。の続き。

言葉と意味、知っているということ



言葉の意味とは何であろうか。
この問いに対して、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』によれば、後期のウィトゲンシュタインは次のように考えていたという。

スローガン的に言えば、それは、「言葉の意味とはその使用だ」ということになる。
言葉に意味を吹き込むのは、「意味すること」、「理解すること」、「解釈すること」といった心的過程ではない。
言葉が意味をもつのは、まさにそれが使用されている限りにおいてのことである。



具体的な議論はここでは述べないが、そこでの本質は独断論的思考の否定―表面上の違いの背後には必ず発見されるべき「隠された」違いが存在しているのでなくてはならないという考えの否定―を通して行われている。
そこでは、言葉を理解しているということはその言葉を使えるようになることであるという結論が得られている。

だがしかし、先ほどの「色」に関する議論を思い出そう。
色のない世界の住人は、「色」の意味を知ることは出来るのだろうか?

先ほども述べたとおり、「色」というものがどういったものなのかは色のない世界の住人にも理解できるだろう。
知識さえあれば、りんごは赤いものなのだとか、水は透明で、などと、その言葉を使用することも出来る。
しかし、色の感覚が分からない以上、それは色の意味を理解できているとは言わないのではないだろうか?

こういうと、次のような反論が来そうである。
色の感覚が分からなくても、例えば光の周波数というものを常に知ることが出来て、それぞれの周波数に対応する色の名前を知っておけば、それは色の感覚を持っているのと同じとみなせるのではないか。

しかし、それこそ気を付けなければならない独断論的思考である。
物理量というのはあくまで感覚を与える原因の一つにしか過ぎず、それを知ることがすなわち結果である感覚というものを知るということではないということだ。

図1(*5)を見てほしい。
この図のA の部分とB の部分の色は、同じだろうか、それとも違うだろうか。
どう見てもA の部分の方が暗い色で、B の部分の方が明るい色に見える。
しかし、実はA の部分もB の部分も同じ色である。(*6)

同様に、図2 を見てほしい。
おそらく地の部分は4 色で塗分けが行われているように見えるだろうが、実は上と下とで地の部分は同じ色である。(*7)

さて、この印象の違いというものを、どうやったら色のない世界の住人に伝えることが出来るだろうか?
この感覚そのものを体験しないことには、理解出来ないのではないだろうか?

このことから見えてくることは、周波数を知ることが出来れば色のない世界の住人でもそれが何色なのかを理解することは出来るだろうが、色というものがどういうものなのかは決して理解できないということに他ならない。
その状態は、はたして色の意味を知っていると言えるのだろうか?

普通は、そのような状態を色の意味を知っているとは言わないだろう。
色というものが何なのかは、それを実際に見ることが出来なければ理解することが出来ない。

議論の流れを見ていると、ウィトゲンシュタインは独断論的思考にとらわれないようとしようとするあまり、心的過程などというものは存在してはならないんだ、という別のベクトルの独断論的思考にはまってしまったとしか思えないところがある。

(つづく)

*5 ネット上で有名な騙し絵。オリジナルはマサチューセッツ工科大学のエドワード・エーデルソン教授によるものらしい。

*6 回りの部分を隠してみると、同じ色であることが分かる

*7 やはり、回りの部分を隠してみれば同じ色であることが分かる