「日本維新の会」 前衆議院議員 三宅博 WEBサイト ー 天衣無縫 三宅の一刀両断!ー

NHK問題他、全国の皆様に暖かいご声援を頂きました、「日本維新の会」前衆議院議員 三宅博のサイトです。

森友学園問題についてあえて一言 (ー 天衣無縫 三宅の一刀両断!ー)

2017年03月30日 | 政治

ー 天衣無縫 三宅の一刀両断!ー

森友学園問題についてあえて一言

森友学園問題についてはあえて今まで言及してきませんでした。
すべては戦後の日教組教育に対する反動が原因だったと思います。
あの籠池夫妻に多くの善意の方々が、その反動でほのかな期待を抱いてしまったのだと思います。

私自身は5年ほど前に彼らの本質を直感的に気付いて以来、一切の関係を絶ち切りました。
私の印象では街宣右翼と彼の学校教育・学校経営というのは本質的に同じものだと思っております。
右翼が街宣車で大音声で「北方領土」だ、或は「英霊のご恩」だと言っていますけれども、
結局彼らはこれは商売としてやっているだけのことです。  
籠池夫妻も全くそうなのです。
教育という衣を被せているから非常にわかりにくいのですが、
彼らにとって愛国教育は商売道具そのものなのです。

いたいけな子供たちに教育勅語を称揚させ、或は愛国行進曲を唱和させ、
多くの善意の方たちはこれにころっと騙されてしまうのですが、
本当に子供たちのことを思うのであれば、何もそのような方法をとらなくても自然と子供たちが
日本に生まれた誇りや喜び、或は日本のご先祖に対する感謝の念をわかりやすく、そして日々教えていけばいいのです。
日教組教育の反動で教育に関心を持つ多くの国民の方々は   
「ああ、教育勅語を子供たちに唱和させている、愛国行進曲など軍歌を教えている」という風なことで感動してしまって
物事の本質が見えなくなってしまったのではないでしょうか。
これは致し方のないことであります。
一般のかたについては籠池夫妻の本質を知る材料があまりにも少なすぎたのであると思います。
また政治家の中でも平沼赳夫衆議院議員は役職上祝辞を寄せられたリしましたが、
平沼赳夫先生は籠池夫妻の本質をもうとっくに見抜いておられました。
しかしながら政治家としての付き合い上、祝辞を寄せられたに過ぎないのであります。
しかし中には政治家でありながらシビアな厳しい目で籠池夫妻を見ればすべて本質がわかるにも拘わらず、
籠池夫妻のあの学校経営の姿勢に共感を覚えたふりをしたり、或は票になるカネになるのであれば
(これは何も籠池夫妻からカネになる票になるではありません。)
籠池夫妻に対する善意の方々、一般の国民に同調して共感をするようなふりをしてと申しますか、
或はわけも分からず相槌を打って愛想をふりまく等、
そのような下心で彼らを称賛したりしている者が少なからずあったのではないかと思います。

愛国教育を商売道具にするとは言語道断のことであります。  
何より商売優先ですから嘘をつくのも平気、恥を恥とも思わない。
籠池夫妻が一般の方々と住む世界があまりにも違うのです。
ところが「まさかそんなこと」と教育に関心を持つ多くの善意の方々は勘違いをして、
「教育勅語を幼稚園児に教えている、軍歌を子供たちに教えている、ちょっと違和感はあるけれど
よくやってくれているのではないかな」
という風に自分の眼をあえて本質からそらしてきたことがあるのかもわかりません。

彼らは教育者というよりも人間として失格ではないでしょうか。
私自身は一切彼らとの接触を5年ほど前に絶ってきました。
しかしそのことをあえて口に出すのは何か私自身が籠池夫妻との関係で個人的な何かがあると誤解されたり、
或はまた一般の方々の善意に冷や水をかけるのはどうかという思いもありましたので、一切今までこれに関しては口に致しませんでした。
まだまだ細かいことを言いかけるときりがありませんけれども、そのような思いであります。
戦後日本の或はまた戦後国際秩序の本質に気付かずに我々が善意ですれば相手はそれに応えてくれるはずだ、
そのような認識が通じる相手は国際社会ではごくわずかであり、
また日本国内に於いてもそれを逆手にとってビジネスに利用する輩もいるのです。

三種類の金額の異なる契約書を作り補助金詐取しようと虚偽申請を出したことは重大な詐欺行為そのものではないのか、
この一事をもってしても彼らの本質が一目瞭然です。
しかも表向きは子供たちに対する愛国教育であり愛国心の寛容でありますから籠池夫妻にとってはこれほど商売として利用しやすい道具はなかったと思います。 
 
これ以上彼らのことについては言葉にするのも、といいますか口に出すのも気分が悪いという風な思いが正直なところでございます。
ちょっと言い過ぎたかもわかりませんけれども、私自身は顔も見たくない、言葉も交わしたくない、一切関係を持ちたくない、
そういう世界の人間でありました。
教育勅語を教えて軍歌を子供たちに歌わせて、日本の公教育は子供たちの国家・国民に対する目的を達成できるのでありましょうか。
地道な努力を何十年も継続し、そして教育を利用して国家を滅ぼそうとする連中との熾烈な闘いをせずに
本当の教育の立て直しや国家の再生というものはできるものではないと思います。
そんな簡単に答えが出るようなものではないのです。
皆さんよくご存知と思いますが、4歳5歳の幼稚園児に教育勅語を称揚させたり軍歌を歌わせたりして劇的に教育が変わる、
そんな甘い話ではないのです。
反対に反日教育にとっては、森友学園、籠池夫妻、この連中ほど利用しやすいのはなかったのではないでしょうか。

はたして反日の連中と森友学園の行動は表面的に見られるような敵対するようなものであったでしょうか。
やっていることは裏で通じているとしか思えないと私には考えられます。
日教組や解放同盟が今に至るも教育現場の実権を握っているのです。

戦後反日教育もそうなのです。
歴史を歪め、真実を遠ざけ、純真な子供たちに嘘を教えて日本の国を貶め、ありもしなかった「従軍慰安婦問題」を
韓国に迎合して英霊に無実の罪を貶めて当面の外交課題を回避しようとしています。
国家の誇りはどこに行ったのだ、
父祖や英霊のご恩に報い、これからの子孫の為に揺るぎなき日本の針路を確立する為に、まず国民に真実を知らせるべきです。
日本の国民は非常に賢明な国民であり、真実を知りさえすればその時々に於いて的確な判断ができるのです。
ところが真実を国民に届けようとしても政府もそう、各省庁や地方自治体、公的機関もそう、
マスコミもそう、すべて戦後国際秩序の走狗となり果てているのです。

拉致問題についても私が十数年以上前から横田めぐみちゃんが拉致されたその日に、所轄の警察署長も新潟県警の本部長も日本政府も、みんな横田めぐみちゃんが北朝鮮に拉致されたことを知っていました。
リアルタイムで日本の警備公安の連中は、そして日本政府は拉致事件の大半をその時点時点で把握していたのです。
にも拘らずこれを見て見ないふりをしようと政治決定をし、今に至るも拉致問題を解決する気が全くない。
だから拉致問題が解決しないのです。
北朝鮮がその気にならないからというそんなものじゃないのです。
吹けば飛ぶような北朝鮮ごときに日本政府が本気で取り組んだら拉致問題は早ければ一年以内に全面解決するのです。
大半の拉致事件の真犯人を北朝鮮と知りつつ、これを物陰に身を潜め、拉致事件の続発を次から次へと許してきた日本政府は共犯者そのものです。

そして先ほども述べたように、この拉致の実相・全容を国民に知らせずに口先だけで「国政の最優先課題」であるとし、
尚且つブルーリボンバッジをこれみよがしに重要閣僚が背広につけて国民を欺むこうとしている。
これが戦後構造であり戦後国際秩序の中で、全く対応がとれない日本の姿なのです。
「日本の事は我々日本人が決める、日本の国は我々日本人の手によって護る」という主体的国家運営こそが何より大切で、
これなくしてこれからの日本の将来というものは国際秩序の中で翻弄され、食い物にされるだけである。
真実を全ての国民の方々に知って頂かなければならないのです。

森友学園について私の一言を以上をもって終わります。 ありがとうございました。

                                    前衆議院議員  三宅 博 




三宅博のホームページもよろしくお願い申し上げます。
http://www.miyakehiroshi.com/   

福沢諭吉と聖徳太子

2017年03月03日 | 政治

   
福沢諭吉と聖徳太子

 近年福沢諭吉の本質を十分に理解されていない人が多いように思われる。
福沢諭吉の考えというものは慶應義塾の建学の精神そのものである。
まさにこの部分こそが誤解されているように思えて仕方がない。
では福沢諭吉の建学の精神とは何であったのか、この真の部分は仏教精神でありお念仏の教えである。
詳しく言えば歎異抄に記された「悪人正機」の世界である。
自分を善人と考えている人でさえ助かるのに、自分自身を悪人として捉えている人が助からないはずがない、
というのが「悪人正機」の内容である。
尚且つ最もわかりやすいお念仏の教えでいえば、蓮如上人が遺された御文章
五帖目第二通「八万の法蔵章」の世界である。
福沢諭吉はこの「八万の法蔵章」を生涯愛読し、慶應義塾では「御文章」の講義をずっと続けていたのだ。
福沢諭吉翁の晩年、ご長男の一太郎氏は親しい人に対して
「毎晩うちのお父さんのお念仏を挙げる声がうるさくて眠れない。」と述懐されていた。
また諭吉翁が亡くなる数日前、家族が諭吉翁に「今誰とお会いしたいですか」と尋ねたところ諭吉翁は浄土真宗本願寺派の勧学で七里恒順和上の名を挙げた。
そして「彼ともう一度お念仏の法について話をしたい。」と仰った。
この七里恒順和上こそは諭吉翁にとって真宗教学の最大の理解者であり、ライヴァルでありまた無二の親友であったのだ。


一部の現代人は慶應義塾の建学の思想はキリスト教精神、西洋思想であると誤解をしているが、
これは全くその本質を見誤っているとしか思えない。
確かに福沢諭吉翁はキリスト教の教えの素晴らしい部分はこれを評価している。
念仏思想の他力本願の考えとキリスト教の教えが重なる部分があるからである。
しかし前述したように福沢諭吉の思想の中核にあったのは、念仏思想そのものであった。
わかりやすく言えば福沢諭吉が警鐘を鳴らしたのは知識万能主義と理性の過信に対する警告である。
決して高邁な理念や高度な知識そのものではなく、きわめて人間の本質をわかりやすく突くものだ。
福沢諭吉が生まれた幕末期、武家の家督を継ぐ者はあくまで長男であり、
優秀な次男三男は身を立てる道として僧侶になるか学者の道以外になかったのだ。
熱心な本願寺門徒であった福沢諭吉のご両親は福沢諭吉の将来を案じ、
今で言えばちょうど中学生にあたる最も多感な時期に出家させた。
家の向かいの浄土真宗の妙蓮寺で3年弱を過ごした。
ただ福沢諭吉の兄である長男が若くして夭逝したので出家をやめて実家の家督を継ぐようになったのだ。
この若くして出家した約3年間こそ彼の精神的支柱を確立した期間である。
また特にその当時大分県の中津周辺と広島県の呉近辺の二カ所が浄土真宗の教学上最も充実した場所であり、
狭い地域にそして短期間に、よくぞここまで優秀な学僧が集まったものかと驚嘆するほど奇跡的に優秀な学僧が排出された。
この大分県の人たちが豊前学派とも中津門徒とも称される一派を築きあげたのだ。
その代表的な一人である学僧の月珠師に諭吉は師事をした。
月珠師の存在を知らずして福沢諭吉の思想の本質を理解することは不可能であり、
誤解をするもとになる。

また、福沢諭吉と聖徳太子の関係についてもひとこと記したい。
浄土真宗の開祖親鸞上人は聖徳太子を深く尊敬していた。
その親鸞上人の精神を最も理解し、わかりやすく広めたのが浄土真宗中興の祖、蓮如上人である。
その蓮如上人が書きのこしたのが先述した御文章なのだ。
聖徳太子の十七条憲法の第一条「以和為貴」、第二条の「篤敬三宝」そして
特に第十条の「共にこれ凡夫のみ」の精神と福沢諭吉の「学問のすすめ」の中の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の考えは
まさに共通するものである。
この精神は親鸞の教えの御同胞御同行であり
そしてまた蓮如上人の「御文章」の中では真宗門徒の精神そのものなのだ。
ここに日本仏教の開祖の聖徳太子と浄土真宗を立ち上げた宗祖親鸞、次に浄土真宗中興の祖である蓮如上人、そして福沢諭吉に繋がる思想的系譜が明らかになるのである。


現代人の思想家でいえば、西部邁氏こそはある部分福沢諭吉の思想的系譜につながる学者であるといえよう。
私が福沢諭吉翁の精神をたびたび俎上に載せる理由は、
現在の日本が直面する危機の本質が、まさに福沢諭吉翁の危惧するところと見事なまでに一致している。
また現在の人類社会の危機的状況もこの部分にあるのだ。

今ここで我々はもう一度福沢諭吉翁の遺された言葉の数々に耳を傾けるべきであろう。
それが出来なかった場合、日本及び人類の未来には悲観的な結果が待ち受けているようにしか思えない。

                                      前衆議院議員 三宅 博


【参考】 八万の法蔵章

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知(いちもんふち)の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしるたりといふとも、
一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。
されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、
ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
このゆゑにいかなる女人なりといふも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑(うたがい)あるべからざるものなり。
あなかしこ、あなかしこ。