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福沢諭吉と聖徳太子

2017年03月03日 | 政治

   
福沢諭吉と聖徳太子

 近年福沢諭吉の本質を十分に理解されていない人が多いように思われる。
福沢諭吉の考えというものは慶應義塾の建学の精神そのものである。
まさにこの部分こそが誤解されているように思えて仕方がない。
では福沢諭吉の建学の精神とは何であったのか、この真の部分は仏教精神でありお念仏の教えである。
詳しく言えば歎異抄に記された「悪人正機」の世界である。
自分を善人と考えている人でさえ助かるのに、自分自身を悪人として捉えている人が助からないはずがない、
というのが「悪人正機」の内容である。
尚且つ最もわかりやすいお念仏の教えでいえば、蓮如上人が遺された御文章
五帖目第二通「八万の法蔵章」の世界である。
福沢諭吉はこの「八万の法蔵章」を生涯愛読し、慶應義塾では「御文章」の講義をずっと続けていたのだ。
福沢諭吉翁の晩年、ご長男の一太郎氏は親しい人に対して
「毎晩うちのお父さんのお念仏を挙げる声がうるさくて眠れない。」と述懐されていた。
また諭吉翁が亡くなる数日前、家族が諭吉翁に「今誰とお会いしたいですか」と尋ねたところ諭吉翁は浄土真宗本願寺派の勧学で七里恒順和上の名を挙げた。
そして「彼ともう一度お念仏の法について話をしたい。」と仰った。
この七里恒順和上こそは諭吉翁にとって真宗教学の最大の理解者であり、ライヴァルでありまた無二の親友であったのだ。


一部の現代人は慶應義塾の建学の思想はキリスト教精神、西洋思想であると誤解をしているが、
これは全くその本質を見誤っているとしか思えない。
確かに福沢諭吉翁はキリスト教の教えの素晴らしい部分はこれを評価している。
念仏思想の他力本願の考えとキリスト教の教えが重なる部分があるからである。
しかし前述したように福沢諭吉の思想の中核にあったのは、念仏思想そのものであった。
わかりやすく言えば福沢諭吉が警鐘を鳴らしたのは知識万能主義と理性の過信に対する警告である。
決して高邁な理念や高度な知識そのものではなく、きわめて人間の本質をわかりやすく突くものだ。
福沢諭吉が生まれた幕末期、武家の家督を継ぐ者はあくまで長男であり、
優秀な次男三男は身を立てる道として僧侶になるか学者の道以外になかったのだ。
熱心な本願寺門徒であった福沢諭吉のご両親は福沢諭吉の将来を案じ、
今で言えばちょうど中学生にあたる最も多感な時期に出家させた。
家の向かいの浄土真宗の妙蓮寺で3年弱を過ごした。
ただ福沢諭吉の兄である長男が若くして夭逝したので出家をやめて実家の家督を継ぐようになったのだ。
この若くして出家した約3年間こそ彼の精神的支柱を確立した期間である。
また特にその当時大分県の中津周辺と広島県の呉近辺の二カ所が浄土真宗の教学上最も充実した場所であり、
狭い地域にそして短期間に、よくぞここまで優秀な学僧が集まったものかと驚嘆するほど奇跡的に優秀な学僧が排出された。
この大分県の人たちが豊前学派とも中津門徒とも称される一派を築きあげたのだ。
その代表的な一人である学僧の月珠師に諭吉は師事をした。
月珠師の存在を知らずして福沢諭吉の思想の本質を理解することは不可能であり、
誤解をするもとになる。

また、福沢諭吉と聖徳太子の関係についてもひとこと記したい。
浄土真宗の開祖親鸞上人は聖徳太子を深く尊敬していた。
その親鸞上人の精神を最も理解し、わかりやすく広めたのが浄土真宗中興の祖、蓮如上人である。
その蓮如上人が書きのこしたのが先述した御文章なのだ。
聖徳太子の十七条憲法の第一条「以和為貴」、第二条の「篤敬三宝」そして
特に第十条の「共にこれ凡夫のみ」の精神と福沢諭吉の「学問のすすめ」の中の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の考えは
まさに共通するものである。
この精神は親鸞の教えの御同胞御同行であり
そしてまた蓮如上人の「御文章」の中では真宗門徒の精神そのものなのだ。
ここに日本仏教の開祖の聖徳太子と浄土真宗を立ち上げた宗祖親鸞、次に浄土真宗中興の祖である蓮如上人、そして福沢諭吉に繋がる思想的系譜が明らかになるのである。


現代人の思想家でいえば、西部邁氏こそはある部分福沢諭吉の思想的系譜につながる学者であるといえよう。
私が福沢諭吉翁の精神をたびたび俎上に載せる理由は、
現在の日本が直面する危機の本質が、まさに福沢諭吉翁の危惧するところと見事なまでに一致している。
また現在の人類社会の危機的状況もこの部分にあるのだ。

今ここで我々はもう一度福沢諭吉翁の遺された言葉の数々に耳を傾けるべきであろう。
それが出来なかった場合、日本及び人類の未来には悲観的な結果が待ち受けているようにしか思えない。

                                      前衆議院議員 三宅 博


【参考】 八万の法蔵章

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知(いちもんふち)の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしるたりといふとも、
一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。
されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、
ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
このゆゑにいかなる女人なりといふも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑(うたがい)あるべからざるものなり。
あなかしこ、あなかしこ。





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