平成19年04月29日
これまた、26日の話なのだが、神崎川で浚渫を行なっていた。
神崎川は天井川と言う訳ではないのだが、地下水の汲み上げで地上の方が勝手に下がったので、深くしておかないと危険なのだ。
水運は廃れて、上流の製紙工場にタンカーが行き来する程度。どちらかと言うと、大阪北部の排水溝である。
私の住んでいる西淀川区は、その昔、徳川のお殿様に媚び諂い。江戸に住む許可と漁業権を獲得し、東に移民している。
それが、東京の佃島である。
その媚び諂った時、川を渡してあげたのと、佃煮を出したそうだ。河口の汚い漁師町だ。そんな言い物が出るはずは無いのだ。
大和田小学校と尼崎図書館に城跡の碑が、大物の大物主神社で源の何某が平家を撃ちに船出した碑がある。
つまり、今の阪神電車本線が昔の海岸線だったのだ。
見えているところが、佃。佃島ですね。
その昔、神崎川は物流の大動脈でした。今の新淀川は明治に掘った人口の川です。
当時の新淀川辺りの川は中津川と言う小さな川でした。
本流は大川、安冶川。
大和川も長瀬川辺りを流れていて寝屋川に合流。大川に注いでいたのです。
つまり安冶川は、京都府南部、滋賀県、奈良県北部の水が一気に注いでいたのです。
その土砂の量はすごい物で、河口付近は常に形状が変わっていたと言います。
そこで浅瀬の目印が建てられました。それが、大阪氏の市章「みおつくし」です。
で、大阪湾は西風が強い。淀川は北東から南西に向かって湾に注いでいます。
水の流れとは逆に風が吹くので三角波が立ち、いたるところが浅いと来ている。
船は、こんな港に入りたくなかったでしょう。そこで付いた地名が「難波」です。
そのとき横を見ると神崎川が。
で、京に上がる荷物は神崎川を登り、船を変え(川舟に)、京に上がったのです。
そこで栄えたのが、尼崎の「戸の内」、東淀川区の「江口」です。
遊郭(赤線)が有ったので遊びに行った人も多かったはず。私の子供の頃にはもう無くなっていましたが。
ところが今は、ヘドロの溜まる排水溝。
さて、この四角いの。船の防舷材か何かかと思っていたら、こうやって使うのだそうだ。
この下に、スカートでも付いているのかな。
どうやら、浚渫中に、周りにヘドロを飛ばさないための物のようだが。
平成19年04月29日(日)
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