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真の自由と独立と平和を求める「日本の市民革命」を草の根的に始めたのだ

2009年03月22日 13時24分00秒 | 政治・社会
■ 真の自由と独立と平和を求める「日本の市民革命」を草の根的に始めたのだ

政治評論家の森田実さんは、1956年当時全学連の平和部長をつとめ、「全学連として砂川闘争に加わるよう」砂川基地反対同盟と支援者の思想的リーダーだった清水幾太郎学習院大学教授と高野實前総評事務局長と砂川町の青木市五郎行動隊長らからの要請を受けて1956年から砂川闘争に参加しました。

我々の「日米安保条約無効訴訟」の勝利の展望は、1959年4月の「伊達違憲判決」(東京地裁)を引き出したこの砂川闘争であり,また2008年4月の「イラク派兵違憲判決」(名古屋高裁)を引き出した「自衛隊のイラク派兵差し止め訴訟の会」
http://www.haheisashidome.jp/の人々の闘いの中にあると思います。

森田実さんのブログ「森田実の時代を斬る」http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/の中で公開されています2008年5月4日付けの記事を以下にお送りします。森田さんは最後にこう書かれています。

《私はこれから「真実の戦後史」を書かなければならないと決意している。日本は独立国ではなく従米国家であるという真実を明らかにし、国民の皆さんに知らせることによって、日本の真の独立国への脱皮をはからなければならないと思う。》

我々の訴訟は、戦後一貫して巧妙に隠されて国民にばれないようにされてきた「日本は米国の従属国家であり日本国民は米国と日本の支配勢力に二重に搾取されて続けて来た結果今日の不幸がある」ことを暴露し、ひろく国民に知らせる闘いであり、あくまでもこの事実を隠蔽し植民地として搾取し続けたい勢力【米国支配勢力、日本の自公政治家、特権官僚、日本版CIA(検察・警察・裁判所・一部右翼自衛隊幹部)、経団連に結集する独占資本、労働貴族、売国的大手マスコミ・学者・評論家など)との闘いなのです。

この事実に気づき始めた良識的な市民が日本の歴史上いまだ実現されていない真の自由と独立と平和を求める「日本の市民革命」を草の根的に始めたのだと思います。

以下は引用文です。
_____________________________________

2008.5.4(その1)

森田実の言わねばならぬ【298】

平和・自立・調和の日本をつくるために[293]

〈マスコミ時評⑥〉4月30日付毎日新聞朝刊1面左上の記事【1959年砂川裁判/米大使最高裁長官と密談/1審「日米安保違憲」破棄判決前に】についてのコメント
「日本は、米国による内政干渉を利益と判断して積極的に受け入れていた…」(我部〈がべ〉政明・琉球大学教授〈国際政治学〉/4月30日付毎日新聞朝刊より引用)

4月30日付毎日新聞1面記事のリード部分を引用する。

《米軍立川基地(当時)の拡張に反対する住民らが基地内に侵入した砂川事件で、基地の存在を違憲とし無罪とした1審判決を破棄し、合憲判決を出した 1959年の最高裁大法廷判決前に、当時の駐日米大使と最高裁長官が事件をめぐり密談していたことを示す文書が、米国立公文書館で見つかった。

当時は基地存在の根拠となる日米安保条約の改定を目前に控え、米側と司法当局との接触が初めて明らかになった。》

社会面にも関連記事があり、そのなかで被告の1人だった土屋源太郎さん(73)の「外国の大使に長官がなぜ審理見通しを語らなければならないのか。けしからん話だ」との批判談話が掲載されている。

土屋源太郎さんは私の50年来の友人である。

つづいて毎日記事はこう記している(社会面)。

《裁判では、大使からの「アドバイス」もあり、政府は最高裁に跳躍上告。60年の日米安保条約改定に間に合わせるように、59年12月に最高裁が判決を出し、無罪や米軍駐留の違憲判決はくつがえった。

「3審を受ける権利を踏みにじられたと思うと悔しい」と話した。》

米軍立川基地(当時)の拡張に反対する運動は、1955年の第一次、1956年の第二次、1957年の第三次の3段階があった。

1955年の第一次闘争の主体は砂川町の農民とこれを支持する労働組合(総評と三多摩労協)、社会党、共産党だった。このときは警察機動隊に徹底的に叩かれた。この体験から、砂川基地反対同盟と支援者の思想的リーダーだった清水幾太郎学習院大学教授と高野實前総評事務局長は砂川町の青木市五郎行動隊長とともに、1956年当時全学連の平和部長だった私(森田実)に対して「全学連として砂川闘争に加わるよう」求めた。私は協力することを約束し1956年から砂川闘争に参加した。

最大のヤマ場は1956年10月13日の「流血の砂川事件」だった。このとき、砂川町の農民と労組、全学連、社会党、共産党、その他全国から馳せ参じてきた支援者でつくるデモ隊が機動隊の攻撃に耐え抜き、測量完全実施を阻止した。これによって砂川町における米軍基地拡張は事実上阻止された。反体制運動のほとんど唯一の勝利だった。

第三次が1957年夏、デモ隊が米軍基地に入った事件である。この事件に米軍側は相当あわてたようだ。

米軍兵士が銃を持って出てきたので、当時デモの指揮をとっていた私はデモ隊に基地外に出るよう指令した。

このときは何事もなかったが、しばらくして数名が逮捕され、家宅捜索を受けた。基地内に入っていたとき、米軍と日本の警察が写真を撮っていて、写真に撮られた学生と組合員が逮捕されたのだった。

(あとで聞いたことだが)不思議なことに基地内でデモ隊を指揮していた私は写真に写っていなかったようで、逮捕はされなかった。

このとき逮捕された学生の1人が、当時、明治大学自治会の委員長で都学連委員長(だったと記憶している)土屋源太郎さんだった。

この砂川事件の第一審では国側が負けた。東京地裁の伊達裁判長は日米安保条約(第一次)は憲法違反であるとして被告を無罪とした。これが歴史的によく知られる「伊達判決」である。

この伊達判決は国側にとっては衝撃的なものだった。この伊達判決をつぶすために、第二審を省いて最高裁への跳躍上告が行われ、最高裁は逆転判決を下した。この当時から、日米関係の裏側で何かが動いているとの見方があった。いまは明らかになったことだが、このときに行われたのが田中耕太郎最高裁長官とマッカーサー米駐日大使との秘密会談であった。ひどいことが行われていたのである。

この秘密会談が49年の歳月を経て明るみに出たのである。当時の首相は岸信介だった。岸は翌1960年に日米安保改定条約に調印し、強行採決によって批准した。これによって日本は恒久的な従米国家にされてしまった。

毎日新聞記事は冒頭で、「(この文書は)国際問題研究者の新原昭治さん(76)が、別の事件に関する日本と米国の交渉記録などを公文書館で閲覧していて発見した」と書いている。この文書発見の意義は大きい。当時から日本の司法は米国政府の影響下におかれていたのだ。

この文書を発見された新原昭治さんに深く敬意を表したい。

私はこれから「真実の戦後史」を書かなければならないと決意している。日本は独立国ではなく従米国家であるという真実を明らかにし、国民の皆さんに知らせることによって、日本の真の独立国への脱皮をはからなければならないと思う。 

(引用終わり)

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