評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
取材の可視化あるいは公開
昨日、ある雑誌の取材を受けながら、これを録音か動画でネットにアップするとどうなのだろうか、と考えていた。
取材のテーマは「ビジネスマンが経済・経営について学ぶのに適した書籍を薦めて下さい」というもので、順番を付けて、20冊紹介した。1番目はこの本で、理由はかくかく、と20冊について90分くらい話した(一応、まとまった話をしたと思う)。ちなみに、ベスト3は、1.フリードマン「資本主義と自由」、2.ウェルチ「ウィニング 勝利の経営」、3.ドラッカー「経営者の条件」で、それぞれ、経済、経営、自己啓発分野の役立ち書籍ナンバーワンだ(但し、ウェルチの本は、読み方にコツと注意が必要だが)。
さて、取材を受けながら考えたことの1番目は、暇な人がネット経由で見聞きすると、単純にためになるかも知れないということだった(価値は視聴者が判断すればいい)。問題は、書籍(雑誌)の売り上げに対する影響だが、90分時間をかけて視聴するよりも2ページ(?)眺めるほうがいい人もいるだろうし、興味を持って雑誌を買う人もいるだろうし(たとえば、他の人の記事も見たいだろう)、帳尻は宣伝効果のプラスが効いてプラスになるのではではないか。
もう一つ考えたのは、雑誌を見て、もっと詳しい話しを聞きたいと思った人に対して、ネットに取材の際の音声や動画があると補足説明になることだ。誌面に載らない情報も届けることが出来る。スペースに制限がある紙の記事を補完することが可能だ。
加えて、今回の取材では問題にならないと思うが、取材を受け掲載記事を見た時に「私は、こんな話しをしたつもりはないのに」と思う場合に、取材の記録があれば、証拠になるというメリットもある。一定の意図やバイアスのかかった取材も現実にはあるので、取材される側が身を守るには記録が有効だ。記録があって、公開が可能なら、いくらか気楽に取材を受けることが出来る。これからは、取材を受ける側が「録音していいですか?」と相手に許可を求める時代になるかも知れない。
別に「オレの話は面白いから、直接伝わらないのは、もったいない」とまで考えた訳ではないが、「取材→記事」という作業に一手間加えるだけで、(1)ネットによる宣伝(無料)、(2)より詳細な情報の伝達(有料化も可能かな?)、(3)取材に関する証拠の保存、といったことが、やろうと思えば可能なのだな、と思った。あるいは、ビジネス的には(4)取材に立ち会いを許可する(有料で、あるいは会員に)という選択肢もあるか。
ビジネスとして考えると、「評論家」も、原稿を書いたり(紙の本が高い値で売れる時代では無くなりつつある)、講演をやったり(景気に左右されるし、スポンサーの影響を受ける)、ということばかりではなく、別種のビジネスモデルを考えることが可能(且つ必要)なのではないか。たとえば、facebookをプラットホームにして、こうしたモデルのビジネスが可能になるかも知れない。
取材のテーマは「ビジネスマンが経済・経営について学ぶのに適した書籍を薦めて下さい」というもので、順番を付けて、20冊紹介した。1番目はこの本で、理由はかくかく、と20冊について90分くらい話した(一応、まとまった話をしたと思う)。ちなみに、ベスト3は、1.フリードマン「資本主義と自由」、2.ウェルチ「ウィニング 勝利の経営」、3.ドラッカー「経営者の条件」で、それぞれ、経済、経営、自己啓発分野の役立ち書籍ナンバーワンだ(但し、ウェルチの本は、読み方にコツと注意が必要だが)。
さて、取材を受けながら考えたことの1番目は、暇な人がネット経由で見聞きすると、単純にためになるかも知れないということだった(価値は視聴者が判断すればいい)。問題は、書籍(雑誌)の売り上げに対する影響だが、90分時間をかけて視聴するよりも2ページ(?)眺めるほうがいい人もいるだろうし、興味を持って雑誌を買う人もいるだろうし(たとえば、他の人の記事も見たいだろう)、帳尻は宣伝効果のプラスが効いてプラスになるのではではないか。
もう一つ考えたのは、雑誌を見て、もっと詳しい話しを聞きたいと思った人に対して、ネットに取材の際の音声や動画があると補足説明になることだ。誌面に載らない情報も届けることが出来る。スペースに制限がある紙の記事を補完することが可能だ。
加えて、今回の取材では問題にならないと思うが、取材を受け掲載記事を見た時に「私は、こんな話しをしたつもりはないのに」と思う場合に、取材の記録があれば、証拠になるというメリットもある。一定の意図やバイアスのかかった取材も現実にはあるので、取材される側が身を守るには記録が有効だ。記録があって、公開が可能なら、いくらか気楽に取材を受けることが出来る。これからは、取材を受ける側が「録音していいですか?」と相手に許可を求める時代になるかも知れない。
別に「オレの話は面白いから、直接伝わらないのは、もったいない」とまで考えた訳ではないが、「取材→記事」という作業に一手間加えるだけで、(1)ネットによる宣伝(無料)、(2)より詳細な情報の伝達(有料化も可能かな?)、(3)取材に関する証拠の保存、といったことが、やろうと思えば可能なのだな、と思った。あるいは、ビジネス的には(4)取材に立ち会いを許可する(有料で、あるいは会員に)という選択肢もあるか。
ビジネスとして考えると、「評論家」も、原稿を書いたり(紙の本が高い値で売れる時代では無くなりつつある)、講演をやったり(景気に左右されるし、スポンサーの影響を受ける)、ということばかりではなく、別種のビジネスモデルを考えることが可能(且つ必要)なのではないか。たとえば、facebookをプラットホームにして、こうしたモデルのビジネスが可能になるかも知れない。
コメント ( 36 ) | Trackback ( 0 )
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『経済評論家』の肩書きだけで、外野でワイワイ騒ぐのではなく、発言に責任を持て!
まあ、経営者に人気なのは「孫子」辺りで、実はあの書物ほど解釈が難しいものはなかったりします。
そういった部分を考えると、「何を読むか?」より、「どう読むか?」のコツやノウハウを「ベスト3」で発表した方がいいかもしれませんね。
だって、良い本には大抵すばらしいことが書いてあるけど、それを読んだ連中の頭に何が残るかは、ものすごくバラつきがあるんですもの。
総合型基金の運営が上手く行っていないのは、第一義的には基金自身の問題です。行政のせいにしている時点で止めた方がいい。役立たずは早く退職しなさい!
野口由紀雄さんがインタビューは時間泥棒だから許せない、メールですませたい、と書いてたときは、なるほど、と思いましたが、あいまいな質問をされた上にに間違った解釈まで付加されそうですし、メルマガや動画配信の活用のほうが効率がよさそうです。
以前にも書かせて戴きましたが、野党の改革派重鎮(複数)が【誰が遣るかではなく、何を遣るかが重要だ】と云い募っています。彼らが想定している状況は詳らかではないのですが、「その順序は間違っている、今は【誰】の方が肝心だ」と思います。
今の政権与党が【誰】を担い、今の「悪賢いモグラ」が【誰】を担い、今の大企業経営者達が【誰】を担っている限り、【何】を遣っても今の日本の「へたれ」の状況は変わらないと。TPPも消費増税も復興庁も、総論の方向は正しくても、各論に多数の未熟と歪みが隠されているし、更に実施過程で壁を突破できず回避行動を採るから一層歪みが出ると。
前置きが長くなりましたが以上の脈絡で、【誰】が山崎さんなら、今回の「取材の可視化あるいは公開」には大賛成です。【誰】を選別しないまま無闇に【何】をネットに流せば、ネットの情報とコンテンツの氾濫が一層悪化し、人々の判断が彷徨い社会全体の時間効率が悪化するでしょうね。
メディアの「報道の自由」は「高い良識」によって制限されるべきだと思いますが、ネットでの発信の自由も同じだと思う。まあ、その「高い良識」が崩れて仕舞った社会では、人々の判断が彷徨い時間効率が悪化するのは止むを得ないのでしょうが??
草々
ご推奨のトップ3の著者のうち、お二人がユダヤ系というのが凄いですね。
草々
ネットの時代ならばあんなに誤解されなくて済んだのにね。
本人の言い分は若干卑下した感じを出しつつ
突っ込み待ちだったそうです。
「ビッグだからさ」
「ビッグじゃねーよ!!!!」
という間髪を入れない応射を想定していたそうですが、
「ビッグじゃねーよ」
「ふーんなるほど」(. .)φメモメモ
みたいな反応を皆がしたので窮地に陥ったとか。
これなんてその日に言い訳すればどうにでもなることですからね。
発信できる術がダマスゴミしかなかったのは不運です。
It's BAD
はトシちゃんバージョンも好きですね。
小学生の頃はあまりにも尖鋭的で意味が分かりませんでした。子供の替え歌の餌食になる歌手その年のNo1だったのを覚えています。
後から聴いてとても好きな曲になりました。
メディア特にダマスゴミの意図的な編集による
扇情的な切り取り方が最近特にひどいですね。
山崎さんの案はこれに対する防御ですね。
したり、中には自分で動画を撮影して、youtubeを
使って動画を載せたりしています。それをファンは
見ています。
1.二十歳そこそこのアイドルでも直接ファンに
メッセージを送っているわけだから、山崎先生
クラスがやったらその反響はすごいものになると
思います。これからは、直接語りかけていく
時代になっていくのではないでしょうか。
2.ビジネスということなれば、それは有料制に
すればいいのではないでしょうか。詳しいことは
ブログの運営サイトと話してください。
3.自分の好きな時に撮影できて、自分の好きな
内容が話せます。書評のようなものであれば
一回一冊ずつ分けてアップしていけばいいし、
まとめて撮影して、編集してもいいわけです。
勝手なことをつらつらと述べましたが、一度試しに
動画をアップしてもらいたいです。
ああいうのを観てしまうと雑誌の将棋世界が苦戦
するのももっともだと思ってしまいます。
紙面だと棋譜を読んで図面から図面まで頭で思い
浮かべなければなりませんが、重要な変化は渡辺竜王
が教えてくれます。
今まではNHK杯(と囲碁将棋チャンネル)しか
ありませんでしたが、もっとローコストで出来ます。
棋戦も名人戦以外は、インターネットで無料で棋譜を
画面に表示し、解説者のコメントが読めます。
経済関係も棋譜のような仕組みをつくってエコノミストが
解説するようになれば、雑誌を代替してしまうんじゃ
ないでしょうか。
これからはビジュアルが重要になりますね。
部屋の見取り図をはじっこの方に添えてほしい。
正直文字だけだと意味が分かりません。
電車の中で文庫とメモ帳とペンを持ちながら字は読めません。
とりあえず密室系のミステリーははじっこに見取り図をお願いします。
コメントありがとうございます。
動画をアップし、動画で発言する、という試みはやってみたいなあと思っています。イメージとしては、(1)二、三日に一度くらいの頻度で、(2)YouTubeくらいの画質と音質で、(3)テーマを決めてコンパクトに話をし、(4)数百人くらいに観て貰えたら上々、という感じです。テーマが話題になるものだったり、SNSを使って動員をかけたり(あまりやりたくないが)すれば、「視聴者」は増やすことができるかも知れませんが、最初から数を取りに行くのは気が進みません。
事務所の会議テーブルの椅子に座ってホワイトボードの前で話をして、あまり編集しないでアップする、というイメージですが、(a)どんなハードで撮って、(b)どのソフトでどのように編集して、(c)何分くらい(これ、案外重要ではないかなあ)のコンテンツを作り、(d)どこから流せばいいのか(facebookでしょうか。Gooブログは動画を止めてしまいました)、といったあたりが今一つよく分かりません。
「ともかくやってみるのが早道」ということなのかもしれませんが、毎日のように〆切があるので、なかなか動画を試す時間と気分的余裕がないまま時間を空費しています。
先ずは、動画の試行に時間を投資することが肝心なのかな、と思っています。
≪コンプライアンスvsガバナンスvsガバナビリティ≫
日経【枝野経産相、エルピーダ更生法申請「やむを得ない措置」 】
枝野某は、夫々のケースに近視眼に何の脈絡もなく勝手に判断すればよいと思っているのでしょうか?
然し、一方で破綻処理するべき東電を存続させ、他方でエルピーダを突き放したことに、共通する視角と価値観が有るのか?
所詮「無いものねだり」でしかないのですが、大臣を張り続けるのなら、彼は自らを厳しく問うべきだと思います。
私見では、彼にはそんな普遍的な価値観は断じてない。為政者の未熟と好い加減な保身しかない。
日本という「井の中」の「法曹界」の「蛙」たる弁護士風情が、グローバル経済下の企業経営の困難が解る訳がないと。従って、大国の国家経営や経済の運営を出来る訳がないと。弁護士が得意とする「コンプライアンス」は、過去の多くの人智のうち政治家が法律にしたルールに几帳面に従う以外に存在意義はない。其処には健全で複雑な「21世紀の今」を柔軟に仕切る「ガバナンス」は存在しない。況や、闊達な資質を必須とする「ガバナビリティ」は無用の世界だと。
大国の経済が、瑣末で事務でしかないコンプライアンスに牛耳られていると。
草々
以前の「行方不明の小学生に卒業証書」の記事は頷きながら読みました。
さて今回、大阪の橋下市長が小中学校での成績による留年を検討するという発言をしましたが、
テレビなどでも結構大きく取り上げているようで、
議論が深まってほしいと思っています。
個人的には、橋下氏の案は厳しいようではあるものの、
大筋では間違っていないと思うのですが、山崎さんはどうお思いでしょうか?
いらっしゃいませ。
小中学校であってもなくても、学習進度の遅い子供には留年が親切でしょうし、早い子供には飛び級があるべきだと思います。
気持ちの問題や(親の気持ちの方が問題かも知れませんが)多少の弊害はあるかも知れませんが、進度に合った教育を受けることが出来ることのメリットが圧倒的でしょう。義務教育であろうとなかろうと関係ありません。
特に義務教育は同時に権利でもありますが、それは「年数」ではなく教育をどれだけ身に着けたかの「内容」であるべきでしょう。九年で足りない子供に、必要があれば一〇年、一一年かけるのは当然だと思います。
留年のレッテルはいかがなんですか。
どんな立派な絵でも小さな疵があれば駄作とみなすような人物が今の子らが大人になる頃には絶えて久しくなっているとよろしいですが。
私は心配なので条件としては
将来いつでも脱出可能なように英語の教育も手厚くすべき、これを付帯してほしいですね。
趣旨は違いますが
新井白石にまつわる以下の話を思い出します。
豪商の角倉了仁から「知人の商人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われたり、河村通顕(河村瑞賢の次男)から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けたが、白石は好意に謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話がある。
留年記録が幼蛇の時の傷とならないといいですね。
また留年があるならば飛び級もないとおかしいと思います。
善後策として留年のような大袈裟な仕掛けではなく科目ごとに進度を変えるのはいかがですかね。
留年しても丸々一年居座るのではなく消化が早く終われば早く済ませれる仕組みでなくてはいけないと思います。
しかし私は概ね反対です。
留年よりも特別支援学級への偏見を除くことが先決でしょう。
これもできずに留年の制度を取り入れたらいよいよ病が複雑にこじれることになりそうです。
最後に関係ありませんが
マグナBSP
遅ればせながら新年の挨拶です。最近口癖のようにできるだけ声に出して言うようにしております。
心配はいりません。
文豪丸山は 特殊学級の 出身です。
悪しき子らよ 胸を張って 留年しなしゃい。ただ
文豪丸山には子供がいない 作業員にも子供がいない たぶん。
で、ハシシタ大阪民国は、何をやってもいいのです、すでに世界のタンツボなので、これ以上悪くなることはありません。社会実験、という言葉は、置き換えることがでけない言葉であります、石井部隊が中国人をマルタにしたような実験はでけないのです、社会実験は、実社会で実験するしかない、まどろっこしいですが、いいんです、繰り返しますが、大阪民国では、なにをやっても、いいんです、ハイルハシシタ! 以上。
ちなみに飛び級できついのは、体育と性、の問題です。漫画「ピーナッツ」でチャーリーブラウンがいつもエラーするのは、飛び級で苦労した作者シュルツの投影です。精通前で未発達な少年がやりたい盛りの青年の中にいなければならないつらさ、というのも大きい。女性との関係も難しいでしょう。
私は早期教育に学歴以外の果実なし、と考えているので、その点からも反対ですね。
所詮は義務教育の教育内容ですから、補習で挽回可能です。たとえば、掛け算の九九だなんて所詮は丸暗記です。手間を惜しまなければ習得できる内容です。これでもダメだったときの最終手段が「留年」です。しかし、これは、教育の敗北であり、副作用が大きすぎます。
補習を強化するにも先立つモノは必要です。それは、教師の工数です。工数を確保するためには、教師の負荷を減らす必要があります。減らした工数で、このような個別対応を機動的に行えば良い。この手の話は何も目新しいことはなく、「30人学級」なんて昔から言われ続けている割には、未だに実現してません。したがって、「留年」を検討する前に、現場の教師の負荷の削減を考えるべきでしょう。
ところで、この問題を突き詰めていくと、いわゆる「必修」のカリキュラムを定める必要が出てくるでしょう。たとえば、芸術や体育で留年させる必要はあるのか、とか、古文漢文ができない場合は留年させる必要があるのか、とかですね。結果によっては、芸術の時間を削って代わりに別の科目の補習をするということになるかもしれません。
果敢に大阪のタブーに斬り込む橋本市長ですが、教育問題は扱ってはいけないような気がします。この分野は長年の研究成果などの積み重ねが存在するわけで、そういったものを尊重しつつ改革すべきであり、市長は専門家の意見をまずは受け止めるべきです。しかし、実際はテレビで市長と教育研究者が討論したときの市長の態度というものはひどかったです。研究者の主張を理解しようともせず、頭から否定にかかって、反論できなくなると、相手が公務員であることを攻めるという、論点外しのレッテル貼りという、討論のルール違反を次々と晒す始末。こんな底の浅い考えで制度を弄んだところで、その被害者は子供たちであり、彼らが大人になる頃には、橋下氏は市長では無いんでしょうね。
これに関して最近気になっているのが医師の事務作業の多さ、
あれでいいのだろうか。そもそも医学部に行ったのは事務屋になるためじゃないはずなのですが。
訴訟対策とはいえあんなことをやるならば同僚と意見交換するとか専門書を読むとか別のことで時間を使ってほしい。
医師が事務屋になっている昨今の諸事情、どうにかならないものか。
本来治療の情報収集以外はPCなんかいじりません
というくらいが理想のはずです。
あと、くまさんのいうように、とにかく教育だけには手を着けないでほしい。矛先をこどもに向けるのは絶対に止めてほしい。失敗でした、ではすまないんですよ。行政をどうしようが勝手ですが、教育現場だけは荒らしてはならないです。
教育が将来の日本の有り様を左右する国家の重要政策だからこそ、今の教育を「より善く」する手立ては不可欠だと思うのです。世界のシステムを模倣することは全くナンセンスですが、世界と競える優れた人財と中間層を産み出す教育システムが不可欠だと。
教育の外野でしかない私ですが、日本の教育政策は戦後一貫して教育成果を「より悪く」してきたと。二十数年前に愚息が惹き起した「些細」な悪戯を「躍起」になって揉み消そうとする小学校長殿の姿(「些細」と「躍起」のアンバランス!)には唖然としました。いじめ事件が発覚する度にTVに登場する教育界の「身分高き者達」が略々例外なく責務認識も無く無責任や逃げ腰を晒す姿は、真に「教育に善くない」。
その原因たるや歴史的に文部省官僚や象牙の塔の教育関係者や教育現場を仕切った日教組などが作った伝統にあるのでしょうが、それ故に根は深い。原子力ムラと云う表現に倣えば、「教育ムラ」もあるのであって、教育関係の「身分高き者達」の大改革は不可欠だと。
「留年も飛び級も」、その大改革の膨大な政策群の中の一つの手立てに過ぎない。十年-二十年の時間が優に掛る、多分。
その政策群で重要で基本になる課題は、「教育者を善く教育する」ことではないかと。例えば、留年も飛び級も「誰か」が適切かつ的確に評価しなければ、期待した効果は望めない。否、寧ろ「人の価値」に対する考えを一層混乱させ、その混乱に子供達を巻き込んで仕舞うでしょうね。
重要な国家課題を変更するのは慎重でなければならないが、単に立ち止り古いものに従うのは間違いだと思います。
大人達が遣るべきことを遣らなければ、「今時の子供は‥」という台詞も空疎さを一層増すだけだと(哀笑)。
草々
私は留年も飛び級も反対です。
学校は、学力をつけることも重要な仕事の一つですが、「毎朝早く起きて、決まった時刻までに、必要なものを持って行く」ことが重要だと思います。学力だけなら、昔の欧州貴族のように、家庭教師による教育を認めてもいいのです。
留年をしてしまうと、大半の子どもが通学をしなくなるでしょう。飛び級は在学年数を極端に短くする可能性があります。とにかく、学校に毎日遅刻せず来る、というのが重要なんです。
私が勤務していた某企業で、派遣の男性が1か月も経たずに解雇になりました。
技術も高く、柔和な物腰の優秀な人だったのですが、始業時間に来ないのです。長時間残業などしておらず、私の方が毎日4時間ほど遅くに退社していたくらいです。
初めの1週間ほどは、担当の社員が電話をかけて呼び出していましたが、あまりにも毎日なので、ついに上司も担当社員も怒り、「朝、起きられないんです」の言葉を電話で聞くと同時に即刻解雇手続きに入りました。
たまたま担当社員と仲の良かった私は、当人や派遣会社からの話を聞かせてもらったのですが。
実はこの方は、親御さんと同居しています。つまり、親御さんも起こさないのです。
「成績さえよければ、学校なんか行かなくていい」という方針だったらしく、なまじ頭の良かった彼は、あまり登校していなかったようです。たしか大卒でした。
ところが、社会に出て突然「定刻までに出社」と言われ、対応できなくなりました。
フレックス制度でもコアタイムはあるわけで、やはり午前10時頃までには出社しなければなりません。正社員は無理、派遣社員としても解雇になりました。
サラリーマンや会社・店舗経営だけが仕事ではありませんが、アポも入らず時間が完全に自由、という職業は限られています。毎日定時に通うという習慣を身につけてこなかったばかりに、能力に関係なく選択の幅を狭める、というのは非常にもったいない話です。
卑近な話ですみません。
ウィリアムピットが著名ですね。ひきこもり宰相。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88
どうやら本当に長期の集団生活をしたことが無いようです。
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=218
元ひきこもりでも拝命爾来17年間内閣の海千山千を統率し
百年に一人の英雄と互角以上に渡り合えます。
これを突きつけられたとき学校の存在意義の解答を見出すことは困難です。
特に富裕層の子弟にとって学校へ行く意味とやらを説くのは至難の業です。
フレックスタイムの会社を選んだ時点でその御仁もよくよく己の欠点を分かっていたはずですが
コアタイムに間に合わないのはなかなかの猛者ですね。
9年間かけて学ぶことが遅刻をしないことというのも
あまりにもおさるさん扱いで寂しい気がします。
9年間もかけなくても目の前にお金というニンジンがぶら下がればフルスロットルで早寝早起きできそうな気がしますけどね。早ければ1週間くらいでどうにか適応できるでしょう。
私の周りにも本当にそういう人間はいました。
とても賢く習ったことは良く消化できるものの
出席日数は低空飛行、偶に学校に来れば珍獣扱いで同輩はおろか教師にまでちやほやされる。
彼みたいな人間でもお金や自分の好きなことの為ならば早く起きられます。
そんな長期の矯正期間を経ずにです。
怒りに満ちたご心中を忖度いたしたいのですが
9年間も時間をかけて習うことが早寝早起きというのは
う~むという感じです。
一点、派遣の彼のために誤解を解いておきます。私は怒っているのではなく、彼の才能が埋もれていくのが残念で仕方ないのです。
大学を卒業して既に5年は経っていた彼が、自分の食い扶持を、能力の不足以外のことで得られないとは。
ニンジンがぶら下っているのにエンジンがかからない彼は、確かに「猛者」。西方様、絶妙の表現です。
ピット宰相の頃は、良家の子弟は家庭教師がつくのがまだ普通でしたから、宰相をもって、引きこもりと表現できるか判断しかねます。不勉強ですので、同年代の同階層から見ても「変人」だったのかは知りませんが。
現代の富裕層は、むしろ学校に行きます。将来のために、自分と同階層・同年代の人脈を作るためです。もちろん、幼稚園から大学まで一貫の有名私立です。その人脈を使って、自分の資産を守り、また増やす情報を得ていくわけです。
では、庶民は?
そうなんです。普通は学生時代にどんなに遅刻魔でも、社会に出れば定時内は勤務するものなんですがねぇ。最近それが当てはまらない人が増えてきているんです。私の周囲だけなんでしょうかね。
特に男性に多いんですが、昼休みに出て行ってそのまま二度と帰ってこないとか。突然無断欠勤を始めて、数日後に何もなかったように出勤してくるとか。当然、解雇対象になるわけですが。
そこで思うわけなんです。学校に決まった時間に行って、決まった時間まで嫌でも授業を受けるのが当然と思っていないのではないか、と。自分がサボっているという自覚があれば、給料を得るためには一転真面目になりますよね。
西方様の知人の優秀な彼はうまく適応できたようでよかったですね。ただ、私の周りでは、成績に関係なく、「積極的不登校」の人は、例外なく社会に出て間もなく頭を打っています。悲しいことに、西方様曰くのおサルさんが多いんです。
留年が契機にしろ、自分の意志にしろ、子供の頃に「自分を抑えて集団で動く」ことからドロップアウトさせてしまうと、生活のために我慢して働く能力が伸びない気がします。
早起きだけではなく、です。
社会の流れからいかに切り離されずに育てらるか。親として責任が重いと思っています。
西方様は、失礼ですがお子様はおられますか?おられるなら、学校の意義は何だとお考えですか。あえて高校へ行かず、進学塾に通って、大検を受けて一流大を目指す人もいますよね。
私は7歳の長男に「学校に行くのは、授業はもちろん、たくさんの人の中でいろいろ勉強するためだ。勉強するのは、騙されない大人になるためだ」と言い切っています。
子供はおりません。
甥っ子にでも語る感じで考えてみます。
これは曰く謂い難い。
特に学校でなければ体験できない出来事、感情があるかというと・・・・・。
善悪美醜すべて含めてなのですが
それが挙げられません。
只一つ絞り出すとすればですね。
小中学校で味わう理不尽さ以上の理不尽さは世の中には無いので堪忍袋を程よい大きさにするにはちょうどいい訓練だよ
と言います。
あと
小中学校で逢う優しさ以上の優しさも世の中には無いかもしれないよ
と付け加えるかもしれません。
職場の方がきついとすると逆に今の小中学校って結構居心地がいいのかもしれませんね。
私もおおむね同意です。
今の公立学校は、生徒はまったく同じ発達曲線を示すロボットであるとでも言わんばかりに、機械的に進級させてしまっていると思います。
そして、望んで留年したり、学齢を過ぎてから復学したりすることが拒絶される例もあり、学校は何のために存在するのだろうという思いを持ってしまいます。
ただ私は、低年齢者の飛び級の導入にはあまり賛成できません。
なぜかというと、今のカリキュラムはあまりにも易しく、教わる情報量も少ないですし、塾に行けば多くの子が飛び級できるレベルの進度に達してしまうからです。
通塾率が高い地域だと、クラスの半分以上が飛び級相当のペーパーテスト能力を身につけてしまうことも容易に想像できます。
むしろ、飛び級ではなく、授業内容をもっと高度にすることで対応すべきだと思います。
「現代化カリキュラム」と言われた半世紀前の時期のように、教える内容は高度に、ただし基礎と発展を明確に分離し、発展部分は身に付けなくても進級できるようにすれば、個性に対応した教育ができると思います。
成績優秀者は図書室で自習することを、積極的に推奨するとか。
なお、飛び級といっても「留年経験者が今まで留年した分飛び級をする」というような、年齢的なガラス天井付きの飛び級ならむしろ絶対に必要だと考えています。
余談ですが、ウィキペディアの「年齢主義と課程主義」の記事の「有識者の意見」欄に山崎さんの卒業証書の記事が取り上げられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%AA%B2%E7%A8%8B%E4%B8%BB%E7%BE%A9
一瞬丸山真男かと思いましたが、検索して初めて名前を知りました。
ただ、当時の特殊学級は、現在とは違ってある程度障害の軽い生徒が多かったのです。
詳しく言うと、1979年に養護学校が義務教育の学校になったため、かなり障害が重くても、寝たきりとかでなければ養護学校に入学できるようになり、養護学校ではそういった重度障害の生徒への対応で手一杯になりました。
そのため、それまで養護学校に通っていた中等度障害の生徒は、普通学校の特殊学級に移るようになり、特殊学級に通っていた軽度の生徒は、普通学級に移るようになりました。
近年では、「統合教育」といって、人権的な思想から、むしろ積極的に普通学級に軽度・中等度障害のある生徒を混ぜているケースもあります。
こういった事情のため、現在の特別支援学校は、昔と比べて程度の重い障害を持つ生徒が多くなっているのです。
なので、果たして可能かな、と思ってしまいます。
>十五歳で、義務教育からはおさらば、という自由はこの国にはないんでしょうか
現在、そういう制度になっています。
15歳の時点で中学校を卒業していない場合、それ以降も在学することはできますが、義務教育ではなくなりますので、生徒の意思で退学することも可能ですし、学校によっては強制退学になる場合もあったりします。
>ピット
まだそのページは読んでいませんが、昭和天皇の学歴の話を思い出しました。
昭和天皇の最終学歴は学習院初等科卒業(小学校卒業同等)だそうです。
ただ、各界の学者などから講義を受けていたりもしたようで、生物学の世界ではそこそこの業績があるようです。
日本では珍しい、家庭教師(「家庭」ではないような気もするが)中心の教育を受けた人物だと思います。
ちなみに現在の天皇の最終学歴は学習院大学中退ですが、宮内庁の公式サイトでは「ご終了」というなんとも変なごまかし方をしています(「修了」と書かないので嘘ではない)。
なお、この文章は
>留年よりも特別支援学級への偏見を除くことが先決でしょう。
についての話題への意見でした。
ピットの記事読みました。
時代をさかのぼれば、諸葛孔明とかも似た教育・学習方法だったと思います。
>田舎のおばちゃん さん
>西方珍奇 さん
その人は、もしかしてある程度生活費にゆとりのある家庭で生きているのではないかな、と思いました。
働かなくても生活できるのなら、早起きする動機がないのはむしろ自然です。
というか、就職氷河期なので、そういう裕福な人には家で休んでもらった方が、ワーキングプアの人達にとっては、むしろうれしかったり。
小中学校が職場より理不尽か。私の経験では、職場の方がはるかに上でしたね。
「私は○人の部下をうつ病で辞めさせた」ことを自慢にしたり(私のレベルについてこられない人間が多くてねぇ、の論調です)。そりゃ、1時間の会議時間内に、45分間無関係な「演説」を行って、10人以上の時間を無駄にする人について行ける人間は少数ですわ。東証一部上場の有名企業でもコレですよ。
公立小中学校で一番勉強になるのは、社会そのものがそこにある、ということですかね。
富裕層は私立に行って不在ですが、学力も家庭環境も違う人間が、同じ部屋に机を並べて付き合う。学力試験で選別されてしまう高校以降では、もう経験できない世界ですよね。会社員になれば、似た学歴の集団の職場。給与もほぼ似たもの。
前述のとおり、私は留年には反対ですが、制度が導入されても有名無実になるとも思っています。
対象となる子供が留年、あるいは能力別授業を受けるとなると、「差別だ、教師によるいじめだ」と金切声をあげるのは、当の子供たちの親ですのでね。昔、能力別編成の学級の話が立ち消えたのもそれです。
息子の通う学校は、実は成績不振者の補習をしていますが、強制参加にはできません。対象者には他の子に知られないよう、こっそり伝えますが、その他に希望者も来ていいよ、と広報します。対象者か希望者か見分けられないようにするのです。
紀要様、「裕福な人には家で休んでもらった方が(中略)むしろうれしかったり」は同感です。文面どおりではなく、職があるのに働かない人への皮肉として同意します。
資産で一生食っていけるか。冷静に考えて、可能な人は少数なのですが、安定した企業の正社員の職まで得ても、横浜に配属になっただけで「東京都心5区でないなら嫌です」と辞めていく新入社員。
理解できないのは、私がもうおばちゃんだからだと思いたいです。「今時のおばちゃんは…」と皮肉ってやって下さい。
とりあえずおばちゃんは、自分の息子には「働かないと食べていけない。あんたが今毎日ご飯を食べられるのは、お父ちゃんが必死で働いてくれてるおかげだよ」と言い聞かせつつ、権利であると同時に義務でもある学校に真面目に通うのは当然である、と刷り込んでいます。
毎回長文すみません。おばちゃんというのはおしゃべりが長い動物ですので。そろそろ消えます。昼食、昼食。
通塾率が高い地域だと、クラスの半分以上が飛び級相当のペーパーテスト能力を身につけてしまうことも容易に想像できます。
これも呑みこんだ上での流動性を認めないと結局今と同じで起爆力にはならないと思いますよ。
金にあかせて教育投資、
飛び級の連続の少年、当時は新聞記事にも載りました。
でその後どうなりました?
ろくな大人になりませんでした。
今は戸塚ヨットスクールにおられるそうです。
ちゃんちゃん。
というのも立派な教育効果でしょう。広い意味での。
あれを制限しようこれも公平性からよくないから辞めておこうという限定つきの流動性ならば現状維持がいいでしょう。
あるいは科目で進度にメリハリをつけるだけで十分な気がします。
田舎のおばちゃんさん、
おばちゃんではないと思われますがこれしか呼び名が無いので失礼いたします。
“「私は○人の部下をうつ病で辞めさせた」ことを自慢にしたり(私のレベルについてこられない人間が多くてねぇ、の論調です)。そりゃ、1時間の会議時間内に、45分間無関係な「演説」を行って、10人以上の時間を無駄にする人について行ける人間は少数ですわ。東証一部上場の有名企業でもコレですよ。”
リソースがどでかい会社ですから
その種の人間がはびこるのではないでしょうか。
吹けば飛ぶような組織ならばその手の人間がいると数カ月で目に見えてお金の流れが悪くなりますから
職場の空気を悪くするようなあまりにもおかしな人間はどんどん駆除されます。
東証一部の看板とそこからもらえる食い扶持
そして件の狂った上司
天秤にかけてもやはり前者が重いと思います。
狂った上司が養えるほどの余裕はすなわち世間への威信の裏付けと考えられてはいかがでしょう。
その世間の会社のほとんどは狂った奴が職場に一人でもいればピューッとどこかへ飛んで行ってしまいますよ。
儲かっているのは普通の一流企業
役立たずをいっぱい飼ってそれでもなお儲けられるのが超一流企業
私の勝手気ままな考えです。
役立たずでもいつか役に立つ局面があるかもしれないからその時を信じて飼っておいでなのでしょう。
お怒り御尤もです。私が内実を知らないだけかもしれません。
気を悪くされたら申し訳ない。
ただ規模が大きいほど、世間的な威信が高いほど
会社というのはおかしな人間も多く擁している気がいたします。
すべきですね。
飛び級希望の人はそういう学校を選択出来るように
すればいいわけです。
今の日本にだけ適合したサラリーマンを大量生産する
公立学校はもう止めた方がいいと思います。
中華やインドの学校が人気があるそうですが、
そういう多様性が必要ですよね。
日本の大企業自体が日本人を新卒で採用しなくなって
いるんですから。
公立学校はせいぜい公務員養成学校として残せばいい
んじゃないでしょうか。