評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
ロスバードの自由論
今年の少しまともな読書第一弾としてマリー・ロスバードの「自由の倫理学」(森村進、森村たまき、鳥澤円、訳)を読んだ。彼は(ファーストネームの綴りはMurrayで、男性です。念のため)、リバタリアン(国家の介入に反対する自由主義者のこと)の中でも、徹底的な議論を展開した人として知られている(私は、森村進編著「リバタリアニズム読本」というガイドブックで知ったのだが)。
本文で300ページを超える大著を一読しただけで、専門外の内容のものでもあり、適切に要約することは手に余るが、私が読んだ限りでの特色と要点は以下のようなものだ。(自分にとってのメモのようなものなので、アテにしないで下さい。興味のある人は原著を読んで下さい)
①人間の自己の身体に対する所有権は根源的な自然権であり、倫理・正義の基礎はこれのみにあると考える(自由は自分の所有する物に対する自由であり、所有という概念に含まれている)。但し、個人の自由と主体性は譲渡できないと考えるので、奴隷契約は無効だ。
②自己所有権と従って自由の尊重は、理性を持つ生物である人間の本性に基づくものだ。人間のこの権利は全ての人間に一貫して適用できるものでなければならない。
③他人の所有権の盗み及び、他人に対する他人の所有権を侵害するような強制は、全て悪である。
④物に対する所有権は、彼が「入植原理」と称する、最初に利用した人(自分の労働を混ぜ込んだ人)にあり、彼が合意にもとづく取引(贈与も含む)によってこれを移転することによってのみ正当に移転できる。但し、所有者が明らかに居なくなった物については、再びこれを最初に利用した人が所有者となる。
⑤所有権を離れた権利というものは存在しない。たとえば、言論の自由は、自分の正当に所有する手段を使って何を主張してもいいということであって、例えば、他人の家に上がり込んで自分の主張を展開する権利など誰も持っていない。
⑥また、自由と能力を混同してはならない。人は、他人の所有する空間以外の空を飛ぶ自由があるが、空を飛ぶ能力があるべきだ、とは言えない。
⑦他人の所有権を犯してまで生存する権利など誰も持っていない。従って、親には子供を養育する絶対的な義務は存在しない。
⑧たとえば、⑦のようなことは「不道徳」かもしれないが「政治的な倫理」としてはこうあらざるを得ない。たとえば、親は自分の生存のための食料を欠いてまで子供を養育すべき絶対的な義務があると強制することは誰にも出来ない。逆に、子供は自立すれば(家出した瞬間に)自由であり、親元に帰ることを強制することは不正義だ。
⑨私が⑦から推測するに、ロスバードは、「(例えば、彼にとって)望ましい道徳的な姿」と「絶対に必要で、一貫性をもって適用することができる、社会的正義の原則」とを区別して、後者を優先的に重要なものと考えている。
⑩国家はそれ自体が犯罪的な存在である。「簡潔に言えば、課税は窃盗である」。
⑪ハイエクやノージックのような自由主義者も、国家を不可欠又は悪くなくあり得る存在と見ている点において、不徹底であり、失敗したリバタリアンである。
⑫効用は基数的には不可測であり他人に関して合計できない。このことに加え、全体的効用の増進のために、不正義(他人に対する不当な強制)を認めるべきではないから、「最大多数の最大幸福」的な功利主義は正しくない。
⑬リバタリアンの目的は国家のような不正義な存在の即時廃止であり、これを見失うべきではないが、この目標を忘れない限りに於いて、漸進的なアプローチはあってよい(たとえば減税はそれ自体で国家の縮小になるなら、いいことだ)。
⑭著者は概してリバタリアンな価値の実現に対して楽観的だ。但し、これは、たぶん、70年代のスタグフレーションとウォーターゲート事件の余韻が残る1982年に本書が書かれたことにも関係しそうだ。
重要な点、面白い点、はまだまだあるが、一読してみた感想を幾つか述べてみる。
・国家というものを倫理的に正しいものとしようとする試みに対するロスバードの批判は、議論としては成功しているように思える。昔の「社会契約」に今の人が縛られるべき根拠はないし、少数の反対を押し切って彼らの所有権を侵害するような社会契約は、少なくとも所有権の侵害が不正義である限り、不正義だろう。従って、プラトン、アリストテレス以来の(ハイエクやノージックにまで影響したバイアスだが)、国家を良き価値実現の主体とする考え方は、倫理的な議論として一貫性を維持できない、というのは議論として正しかろう。
・自己所有権が、絶対的で「自然な権利」だというロスバードの説明には必ずしも説得力を感じない。但し、一貫性のある正義の議論を作ろうとしたときに、これ以上に有力な前提を考案することは難しいかも知れない。
・だが、「現にある」という意味で「自然」を解釈すると、現実に犯されることの多い所有権がなぜ無前提に特別な「権利」なのかは今一つはっきりしない。所有権をこのように認めなければ、集団としての人間は幸せに暮らせない、ということがこの権利の根拠なら、これはロスバードの議論も功利主義的帰結主義に還元されてしまう。
・ロスバードの議論は、たぶん、倫理としての一貫性の観点で今までで最も強力な議論かも知れないが、絶対的な根拠を持っていると確信を持てるかどうかについては少なくとも私は自信がない。
・ロスバードの議論が、現実に「正義」あるいは「倫理」として働いているものの、あるいは働かせることが出来るものの、内容を適切に要約したという意味で最も優れた”理論”であるかどうかという意味では、帰結主義的・功利主義的な議論(現実がインセンティブを持って動き得るという意味で強力だ)や、ロールズなどの個人の所有権も何らかの意味で制限するようなリベラルな議論が、「正義」というコトバの使い方に関してより適切な内容を与えている可能性も否定できない。要は、正義については、もっと勉強してみる価値が大いにありそうだ。
・倫理に関して、一貫性を持った議論としては、ロスバードの議論は、第一級の純度と強度を持っていると思う。議論の一貫性ということに関しては、高くそびえ立つ記念碑的に強力なベンチマークといえるだろう。
100%説得はされないけれども、「うーん、凄い!」という感じがする、癖になりそうな切れ味と迫力のある議論だった。
本文で300ページを超える大著を一読しただけで、専門外の内容のものでもあり、適切に要約することは手に余るが、私が読んだ限りでの特色と要点は以下のようなものだ。(自分にとってのメモのようなものなので、アテにしないで下さい。興味のある人は原著を読んで下さい)
①人間の自己の身体に対する所有権は根源的な自然権であり、倫理・正義の基礎はこれのみにあると考える(自由は自分の所有する物に対する自由であり、所有という概念に含まれている)。但し、個人の自由と主体性は譲渡できないと考えるので、奴隷契約は無効だ。
②自己所有権と従って自由の尊重は、理性を持つ生物である人間の本性に基づくものだ。人間のこの権利は全ての人間に一貫して適用できるものでなければならない。
③他人の所有権の盗み及び、他人に対する他人の所有権を侵害するような強制は、全て悪である。
④物に対する所有権は、彼が「入植原理」と称する、最初に利用した人(自分の労働を混ぜ込んだ人)にあり、彼が合意にもとづく取引(贈与も含む)によってこれを移転することによってのみ正当に移転できる。但し、所有者が明らかに居なくなった物については、再びこれを最初に利用した人が所有者となる。
⑤所有権を離れた権利というものは存在しない。たとえば、言論の自由は、自分の正当に所有する手段を使って何を主張してもいいということであって、例えば、他人の家に上がり込んで自分の主張を展開する権利など誰も持っていない。
⑥また、自由と能力を混同してはならない。人は、他人の所有する空間以外の空を飛ぶ自由があるが、空を飛ぶ能力があるべきだ、とは言えない。
⑦他人の所有権を犯してまで生存する権利など誰も持っていない。従って、親には子供を養育する絶対的な義務は存在しない。
⑧たとえば、⑦のようなことは「不道徳」かもしれないが「政治的な倫理」としてはこうあらざるを得ない。たとえば、親は自分の生存のための食料を欠いてまで子供を養育すべき絶対的な義務があると強制することは誰にも出来ない。逆に、子供は自立すれば(家出した瞬間に)自由であり、親元に帰ることを強制することは不正義だ。
⑨私が⑦から推測するに、ロスバードは、「(例えば、彼にとって)望ましい道徳的な姿」と「絶対に必要で、一貫性をもって適用することができる、社会的正義の原則」とを区別して、後者を優先的に重要なものと考えている。
⑩国家はそれ自体が犯罪的な存在である。「簡潔に言えば、課税は窃盗である」。
⑪ハイエクやノージックのような自由主義者も、国家を不可欠又は悪くなくあり得る存在と見ている点において、不徹底であり、失敗したリバタリアンである。
⑫効用は基数的には不可測であり他人に関して合計できない。このことに加え、全体的効用の増進のために、不正義(他人に対する不当な強制)を認めるべきではないから、「最大多数の最大幸福」的な功利主義は正しくない。
⑬リバタリアンの目的は国家のような不正義な存在の即時廃止であり、これを見失うべきではないが、この目標を忘れない限りに於いて、漸進的なアプローチはあってよい(たとえば減税はそれ自体で国家の縮小になるなら、いいことだ)。
⑭著者は概してリバタリアンな価値の実現に対して楽観的だ。但し、これは、たぶん、70年代のスタグフレーションとウォーターゲート事件の余韻が残る1982年に本書が書かれたことにも関係しそうだ。
重要な点、面白い点、はまだまだあるが、一読してみた感想を幾つか述べてみる。
・国家というものを倫理的に正しいものとしようとする試みに対するロスバードの批判は、議論としては成功しているように思える。昔の「社会契約」に今の人が縛られるべき根拠はないし、少数の反対を押し切って彼らの所有権を侵害するような社会契約は、少なくとも所有権の侵害が不正義である限り、不正義だろう。従って、プラトン、アリストテレス以来の(ハイエクやノージックにまで影響したバイアスだが)、国家を良き価値実現の主体とする考え方は、倫理的な議論として一貫性を維持できない、というのは議論として正しかろう。
・自己所有権が、絶対的で「自然な権利」だというロスバードの説明には必ずしも説得力を感じない。但し、一貫性のある正義の議論を作ろうとしたときに、これ以上に有力な前提を考案することは難しいかも知れない。
・だが、「現にある」という意味で「自然」を解釈すると、現実に犯されることの多い所有権がなぜ無前提に特別な「権利」なのかは今一つはっきりしない。所有権をこのように認めなければ、集団としての人間は幸せに暮らせない、ということがこの権利の根拠なら、これはロスバードの議論も功利主義的帰結主義に還元されてしまう。
・ロスバードの議論は、たぶん、倫理としての一貫性の観点で今までで最も強力な議論かも知れないが、絶対的な根拠を持っていると確信を持てるかどうかについては少なくとも私は自信がない。
・ロスバードの議論が、現実に「正義」あるいは「倫理」として働いているものの、あるいは働かせることが出来るものの、内容を適切に要約したという意味で最も優れた”理論”であるかどうかという意味では、帰結主義的・功利主義的な議論(現実がインセンティブを持って動き得るという意味で強力だ)や、ロールズなどの個人の所有権も何らかの意味で制限するようなリベラルな議論が、「正義」というコトバの使い方に関してより適切な内容を与えている可能性も否定できない。要は、正義については、もっと勉強してみる価値が大いにありそうだ。
・倫理に関して、一貫性を持った議論としては、ロスバードの議論は、第一級の純度と強度を持っていると思う。議論の一貫性ということに関しては、高くそびえ立つ記念碑的に強力なベンチマークといえるだろう。
100%説得はされないけれども、「うーん、凄い!」という感じがする、癖になりそうな切れ味と迫力のある議論だった。
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転職関係の内容の物も含め、貴方の著書は数冊読ませて頂いておりそのお人となりに以前より非常に興味を抱いておりました。
そこで唐突で恐縮ですが「貴方は本当に男らしい方だ」と思いました。そう思った理由はいろいろあるのでいちいち書きませんが絶対にそう思います。
これからも応援していますので是非ご活躍のほどを。http://www.designer-handbags-jewelry.com htyht