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私の金銭感覚

 文藝春秋の「オール読み物」5月号の、「ああ、大散財!」という毎回筆者を変えるコラム(p113)に、私が、自分の日常的な金銭感覚について書いた文章が載っている。小説を書くことはたぶん無いだろうから、めったに載ることのない雑誌だと思うと、少し嬉しい。先頃発売されたニンテンドーDSの株ゲームのキャラクター(眼鏡をかけたオジサンの漫画で、実名で出ている)としてゲームに出ている事と共に、意外な場所への登場である。
 拙文は、詳しくは、「オール読み物」5月号をご覧頂きたいが、書き出しは「吸った息を吐くように、私は、着実に散財している」である。「大散財」について書くコラムなのだが、考えてみると、私は「これぞ、大散財!」というような書くべき買い物・浪費を経験していない。そうは、言っても、物欲は旺盛な方だし(カメラだの、時計だのが、使い切れない数、自室にある)、飲み食いにも熱心な方だ。稼ぎに対して測ると、良くお金を使う方だろうと思う。
 「吸った息を吐くように」というのは、継続的且つ無意識的に、お金を使っているということで、半ば生理現象のように支出している、ということなのだ。お金について、意識的に計画したこともないし、家計簿をつけたこともない。また、借金をしたこともないし、さりとて、たいして大きな貯金や投資があるわけではない。お金のことは、いわば、自動運転に任せていて、できるだけ意識しないようにしているらしいことが、コラムを書いてみて分かった。お金については心配なのだが、たぶん心配であるが故に、お金のことを意識したくない心理が働いているようだ。
 お金の運用に関しても、対象が、自分のお金であっても、あるいは他人のお金であっても、上手く行って稼いだ場合に、「儲けた」という気分や、「やった!」という感覚はではなく、ある種のゲームで上手く行った、というような気分である。
 また、もう一つ、日々の「日常」を大切にしたいがために、継続できない非日常性が嫌いで、儀式(結婚式もしなかった)や、大旅行などが好きではない。外を出歩くのは好きなのだが、旅行がそれほど好きでないのは、これが理由だ。好きな場所に住んで、好きな仕事や遊びをして、無理なく続けられるような毎日を続けたいと基本的に思っている。
 他人よりも転職回数が多くなってしまったことの背景にも、「この会社で、日常を続けても、仕方がない」「続かない会社なら、早く、続けられる会社に変わろう」という心理が働いていた。
 人生は有限だし、そろそろ半分を過ぎている筈でもあり(来月の8日で49歳だ)、継続性に拘っても仕方がないと思うので、多少の意識転換を図ろうとは思っているが、長らく、こんなことを思いながら、生きてきた。
 お金の心配はしたくないし、できれば、お金というものを意識しないで暮らしたいものだとも思っている。「お金の話」を生業にしていて、ある意味ではお金及び他人のお金の問題(意識)に食べさせて貰っているのに、我ながら、ワガママである。
 金銭感覚という点では、もちろん、お金は大切なものだと思っているし、あって邪魔になるものでもないのだが、これを「強く、強く、欲しい!」という気持ちは、あまり湧いてこない。このブログにも、書いたことがあるかも知れないが、金銭的な強い欲求がないことは、金融マンをやっていく上では、資質的に物足りない。
 考えてみると、欲しいものはたくさんあるし、もっと豪華に生活すると楽しいのだろうし、何よりも、現時点で、将来の経済的な安心を確保しているわけでは全くない。「週刊ダイヤモンド」の連載などに自分でも書いているように、お金について、目標を持ち、意識的な計画を立て、先の「生理現象」のような支出行動を上手くコントロールしなければならないのだろう。近い将来、自分の、金銭感覚センサーの調整が必要になるのかも知れない。
 もっとも、お金というものは、それ自体が目的ではなくて、あくまでも「手段」なので、これを、徹頭徹尾、手段として使いこなす、という姿勢は、今後も堅持していきたいと思っている。
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