goo

ジャーナリストのA級、B級、C級

前のエントリーの続きを少し考えてみました。

純粋にジャーナリズムのあるべき論から、私の原稿をボツにしてくれた雑誌の編集長を批判するのは簡単なのですが、現実問題として、雑誌をはじめとするジャーナリズムの関係者達も、「ごはん」を食べていかなければならない事情があるのが、難しいところです。

たとえば、テレビ局ではスポンサーの批判になるようなことを伝えにくいし、私の知っている範囲で言えば、マネー誌の編集部員は毎月分配型の外債ファンドがダメな商品であることを理由も含めて良く知っていますが、マネー誌にはそうしたファンドの広告が入るので、誌面で、そうしたファンドを悪く書くことが出来ません。

「一応はジャーナリストを名乗ってはいるものの、こうしたメディアに勤める人」の立場に身を置いて考えてみると、
(A)ジャーナリストとして大切なことを伝えるためには、自分の「ごはん」に不利に働くことでも伝えなければならないという覚悟が必要な一方で、
(B)そもそも「ごはん」を食べ続けて、またメディア自体が有効に存続していないと、本当に伝えるべき事があった時に、伝える手段を失ってしまっている、
という相反する二つの建前があります。

(B)について補足すると、「真の目的(或いは、より大きな目的)に向けた」取材のしやすさなど、将来の活動のために、現在(の小さな問題)を犠牲にするという考慮もあり得るでしょう。また、意見を発表する側としても、将来意見を伝える手段を失わないために、たとえば編集方針に対して妥協することもある、という理屈が、正否の確認が出来るかどうかはともかくとして、一応は成立するといえるでしょう。

そして、上記の「建前」の次元から一段落ちたところに、
(C)自分の生活と損得を考えると、「ごはん」で損をするようなことには関わりたくない(だって、生身の人間なんだから)、
という本音が存在します。

(A)、(B)の建前だけでも、ケース、ケースでどう判断するのか難しいところですし、そうした判断をしながらバランスを取っている状態と、(C)に支配されている状態の区別が外から見ると難しいのが現実です。皮肉な見方をすると、この区別の難しさがあるから、多くのジャーナリストが威張ることが出来るのかも知れませんし、また人々は、ジャーナリストに対して、腹を立てずに付き合う事が出来るのかも知れません(実は、これは大切な曖昧さなのかな・・・?)。

私は、ジャーナリストを名乗る人には、せめて(A)、(B)の建前の中で悩んでいるのだということであって欲しいと思っていますし、多くの場合は程度の問題ですが、(A)に徹することが出来る人を尊敬するにやぶさかではありません。しかし、現実に、(C)に支配されている人を、人自体として「非難」するところまでは、踏み込めません(「お前の有り様は、人間としてツマラナイね」というくらいのことは言えますが)。

ここで、考えてみると、生活力も、他人との対立を恐れない意思の強さをも含めて、本人の「総合的な力」があれば、(A)~(B)~(C)の中で、より(A)に寄った立場と行動を取ることが出来ます。たとえば、件の編集長さんの場合は、明らかに(C)が強いのでしょうから、こういう方を「C級ジャーナリスト」とでもお呼びすることが可能でしょう。

ジャーナリストと会った時には、相手が、A級に属する偉人なのか、平均的にはB級の悩み深き俗人なのか、主として喰うためだけにジャーナリストであるC級なのか、格付けをして付き合うと便利かも知れません。多分、程度の差があるでしょうから、B級でいうと、B+→B→B-、というくらいの段階を付けて評価するのが良さそうです。

ところで、私は、直接的に媒体側の人間ではありませんが、情報や自分の意見を他人に広く伝える手段を「ある程度は」持っている、という意味では、非常に定義を広く取った場合にはジャーナリストのカテゴリーに入るのでしょうから、なるべく(A)の純度を上げていきたいと思っています(自己評価としては、まだまだ不完全です)。

ただ、今回気付いたことですが、たとえばボツになった原稿を直ちに広く他人に伝える事が出来るという意味で、ネットとブログの存在は、ささやかながら、上記のような意味での私の力を強化しています。これはなかなか意義深いことです。
コメント ( 52 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする