大分県の豊後大野市にある"道の駅きよかわ"は、延岡から竹田や九重方面に行く際によく使っている。たまたまトイレに入った所、神楽のメンバーを募集している張り紙を見つけた。
この道の駅の隣りには、近年完成した神楽会館が隣接していて、ここで神楽を多くの人にみせたり、日頃の練習や、地元、御嶽神楽に関わるミュージアム的な機能も持たせているらしい(実はまだ中に入った事がない)。
神楽をはじめ、地域社会における伝統的な民俗芸能の継承者は、かつては地域社会のメンバーに限定され(さらに厳しくは長男のみとか氏子のみ或いはその両方とかという場合も多かった)、外部の人間が関与するのは難しかった。
それは勿論、地域社会における確固たる紐帯を維持していくためであるが、人口減少が著しく高齢化も進行すれば、そういった万全たる掟を維持する事は難しくなる訳だ。
今は一度外部に出て行った人々を祭りの"演者"として参加させ、或いは本来は地域社会の一員ではなかったヨソモノにも継続的に参加してもらう事でコミュニティーの維持をはかるという、一見消極的な方法を模索するしかない。
#しかしながら、これは決して"消極的"な方法などではないと考えている。
コメントありがとうございます。おっしゃる通り、それがベストです。
ただ問題は課題に取り組むべき学校でも、その機会の多くが失われてしまっている事。
事業がカットされたり、少子化によって学校が廃校になったり子供会が組織できなくなったりという問題が多くの地域ではあります。
僕は地域社会外から、いかに持続的に人を受け入れいるかが大きいと考えています。
先生のお考えにまったく同感です。
ヨソモノを後継者としていくことは消極的なことではない、というお話をもう少し聞かせてください。
実は僕も同じようなテーマに取り組んでいて(僕の場合は芸能ではなく、ある地区の朝市の継続と、別の地区の栗山の維持なんですが)、自分自身もメンバーとなって自作自演でいろいろやっているところです。だから、こう見えても7反の栗園オーナーなんです。それなりに効果はあり(と信じています)ますが、そんな自作自演を幾つも掛け持ちする訳にもいかず、一方で地域社会が置かれている現状を考えれば、個人の活動なんてあまりに微々たるもの過ぎて、途方に暮れるのも現実です。
よそのみなさんはどうされているのかな、と考えているところでした。
何かの機会に、ヨソモノを後継者として受け入れて育てることについての先生のご見解を書いて下されば幸いです。
お元気でしょうか?
朝市や栗山の話、初耳です。今度見学させて下さい。特に本来地域社会が集団で管理していた空間の典型だったはずの栗山が、オーナー制で運用されているというのは興味深いですね。
さて、ヨソモノが地域社会において果たす役割というのはヨソモノが内部の状況をある程度理解しつつ、なおかつまだヨソモノとして観られている状況が必要なのかな、と考えております。
硬直した、なおかつ不安定な状況にあるコミュニティーに於いて発言権を獲得した状況が、ヨソモノの真価が問われる状況なんだと、理解しております。
話が長くなりそうなんで、ちかじか別記事書きます。
#もし参考となる事例が必要でしたら、延岡の近く、北郷町で大変興味深い活動をなさっているランドスケープ系の方がいらっしゃるので、今度ご紹介したいと思います。