延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

5年目の被災地にて。 その1

2016-03-01 05:12:51 | Weblog

東日本大震災から5年となった。元々東北被災地から離れている九州では、この震災をどこか遠くの出来事のように扱い、すでに過去のものとされてしまっている節もあるように思えて仕方がない。だがそれは当の被災地であっても外からは「いつまでも震災なのか」と言われ、さらに被災者の事が以前と比べて急速に忘れられてしまうと感じられているという。確かに10年前・5年前に宮崎県内各地で大きな被害をもたらした台風14号や口蹄疫といった、その時は身近であったはずの災害の記憶を、我々はいつのまにか乗り越えたつもりになって忘れつつあると実感する事がある。こうした点では同様なのかもしれない。

2月、まもなく3.11から6年目を迎える、被災5年目最後の東北を旅した。私の専門である博物館研究に関する集会が、宮城県多賀城市の東北歴史博物館で開催されたからだ。ここを以前訪れたのは前身の東北歴史資料館の時代で、今回実に20年ぶりであった。この博物館は東北地方で最も大きな規模を持ち、震災直後の文化財レスキュー拠点としても活用されていた(現在でも宮城県内の被災文化財の保存処理作業が、この館で行なわれている)。そうした場所で岩手・宮城・福島の被災3県における博物館の現状とこれからについて、それぞれ発表があった。

今回の発表を聴いて実感したのは、被災各地の博物館は被災直後の困難を乗り越えようとしながら、それまで日本の多くの博物館が主に担ってきた「過去をのこしていく」という活動から「未来を創り出す」という活動に向って方向転換を目指しつつある点であった。震災直後には各地の博物館で所蔵されたり、コミュニティや個人が大切に保管してきた数多くの文化遺産が被災してきた。これらは主に東日本や、阪神淡路大震災での経験を持つ近畿地方を中心とした専門家の手によってレスキューされ、さらに修復されてきた。これには直接的なレスキューに参加した訳ではないものの、レスキューに入った山形の文化財専門家グループの支援活動として、我々宮崎の専門家も資料情報化を行っている。こうした資料は現在も一部が安定な状態に保たれる状態となるために処理中であったり、さらには修復の途中にあるものの、土地や社会の履歴や足跡を記録・記憶してきた対象として重要である事から、懸命な作業が行われてきた。今、5年目になってこうした活動が曲がり角を迎えつつある。

一つにはそれは、救済された資料をどう活用していくかという点である。これまでも安定化による保存や修復された資料は、被災地だけでなく全国各地で災害を物語る重要な物象として展示されてきた。昨、平成27年2月~3月に、宮崎県総合博物館で開催された『”文化財”を守り伝える力―大災害と文化財レスキュー』展はその一つであった。遠く離れたこの宮崎において被災地の博物館や文化財の状況を理解し、さらに過去の災害の記録が防減災に大きく関わっている事を理解出来る重要な展示であったが、こうした企画では震災被災地で救済され、修復された資料が主に展示された。

だが今までの所、実際に活用されてきた資料はこれらのうち一部である。被災地の博物館では、従来の展示だけでなく、より広く活用していくにはどうしたらいいのかを考えていかなければならない段階になってきているのだ。こうした背景には、復興庁を中心とした集中復興期間が平成27年度で終了し、「復興特需」とまで言われたこれまでのような大きな財源が確保しにくくなるという事もある。しかし、問題はそれだけでない。そこには最初に述べた人々の意識の変化が強く関わっている。


※写真は東北歴史博物館

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