親心、子心

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自己肯定感と自我の発達~2~

2014年12月21日 20時46分44秒 | 過去~徒然から~
特別支援学級を担当していた経験から知ったことは、ある種の発達障害、あるいは知的障害のある子たちは、いわゆるメリー・アン問題で、特異な答え方をする。

『メリー・アン問題』
①メリーはボールを持っている。アンは隣にいる。二人の間に蓋の付いた箱がある。
②メリーはボールを置いて去って行った。
③アンは、そのすきにボールを箱に隠した。
④メリーが帰ってきた。
⑤さて、メリーはボールがどこにあると思うでしょう?

特別支援学級の中にいる子どもたちでも、答えが分かれる。(それが今の特別支援学級というものの現状だと思う)


メリーが箱の中を探すとすれば、少なくとも第三者の気持ちを考えることが難しいのだと思う。


じゃあどうしたら、メリーは周囲を見回したり、アンに聞いたりするようになるのか。

それは、自他の世界から抜け出して、多数の考えの違いを認識できるようになってからなんだと思う。

ちなみに、ウチの8歳の長男と、5歳の次男は認識できると思う。
でも2歳の長女には無理な話だ。

自他の認識がしっかりとできているなら、やがて第三者、第四者…と、考えを巡らせていけるのだと思う。

それをさらに磨き上げるのが、ギャングエイジと呼ばれる世代なのだろう。

親と自分、先生と自分、ある友達と自分しかなかった世界から、自分と集団の成員との違いを認識し…、やがて表に出されない集団意識や感情を恐れるようになる。
そのころが思春期の子どもたちの友達関係なのだろう。

そうして磨かれた自我は、やがて自立へとつながり、揺らぐ天秤のような大地の上でも、なんとか立って歩けるようになるのだと思う。

そこで鍛えられた四肢は、次の世代へとつながる何かを築き上げる力を発揮していくのだろう。

…きっとこれが「正常な」発達だ。



しかし、世の中はこうは簡単に進めてくれない。

私自身がそうだった。

恐怖の対象でしかない兄たちの存在におびえ、唯一自分の存在を示せたのは、学力。
しかし、あの兄たちと渡り合ってきているのであるから、周囲の友人などものの数ではない。教師すら、大人すら、自分が認めないものは無価値なもの。

そう考えて生きてきた。
だからこそ大人の言葉に耳を傾けず、大学を卒業したときには、空疎な成人だったのである。


今私の目の前にいる子どもたちも、どこかしら発達のいびつさを感じる。

自分の『不快』をひたすらがなりあげる生徒。
逆に自分を『殺して』ひたすら他人に委ねる生徒。

人だからいつかはこういうときはあるだろうが、こんなときばかりの生徒が増えている。

とてもおとなしくて協調的で、やや消極的に見える後者の生徒たちに囲まれ、クラスの矢面に立ち、リーダーシップを発揮する、元気ではあるが粗暴な生徒。

きっと彼らは、裏表の環境から生まれた被害者だ。

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