後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

優しい美しさを追求し描いた小野竹喬と息子の戦死

2017年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画の世界は西洋画の世界とは非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しい上に人間の考えや精神が深く描き込んであります。東洋と西洋では精神性が違うので絵画も違います。
日本画では人間と自然と調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように人間と自然が対立しているのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。
ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。そこで彼の日本画の特徴を考えてみましょう。
小野竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界へといざなってくれます。優しい美しさを追求し描いた画家でした。
このような特徴は西洋画にはあまりありません。
人間の優しさを自然風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。
今日はそんな小野竹喬の絵画をご紹介し、最後に戦死した息子、春男の絵画をご紹介したいと思います。

1番目の写真は「西の空」です。素描、1967年作。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

2番目の写真は『夏の五箇山』です、 1933年(昭和8年)作、 笠岡市立竹喬美術館所蔵。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品なので山々の茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

3番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)作、彩色・絹本、東京国立近代美術館蔵。
この絵は碧い池の中に葦が茂っている風景です。波が静かに漂います。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。

4番目の写真は「沖の灯」です。 1977年作。
茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。
自然の大きさと静謐さを感じられます。

5番目の写真は「春耕」です。1924年作、 絹本着色,二曲一双 、笠岡市立竹喬美術館蔵 。
これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのでしょうか。大きな犂を引くことに疲かれた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。

彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。昭和17年に長男の春男が出征してすぐに戦死してしまったのです。

6番目の写真の画は遺作の屏風絵です。小野春男の屏風(びょうぶ)絵「茄子(なす)」です。1941年(昭和16年)作。

信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」にあります。
春男は父の才能を引き継ぎ日本画家として期待されていました。
1917年、京都市生まれ。41年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征。43年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。そのため、これまで知られていたのは、屏風絵「茄子(なす)」と自画像のみです。
息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。 戦争の悲しみが湧いて来る戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」は全ての作品に心打たれます。この屏風絵は小野竹喬が大好きな家内が悲しそうに説明してくれた絵なので、構図から繊細な筆使いまで忘れられない日本画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館
(2)小野春男:
大正6年(1917)、日本画家・小野竹喬の長男として京都に生まれた。父の母校である京都市立絵画専門学校に入り、昭和15年に卒業した。翌年には京都市美術展に「樹林」を出品している。
昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための浙カン作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充された。翌年、常徳殲滅作戦に参加。10月初に漢口付近に上陸し、揚子江を渡河し、敵陣地を潰しながら洞庭湖の西端にある常徳に向かった。
11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。おそらくその日、彼は歩哨に立ち、狙撃された。死亡は12月2日となっているのでしばらく生きていたのではなかろうか。享年27歳。
(3)無言館:
私共は巡礼のような気分で3度ほど訪れました。遠い所にありますが最近はバスが上田駅から出ています。その詳細は、http://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/shisetsu/museum/007.html にあります。

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