後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「真冬でも花が咲き、緑濃い八丈島への独り旅」

2022年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
離れ島への独り旅は私の憧れでした。独りで淋しい心に自然の美しさが沁み込みます。人情の温かさが強く感じられます。それは男のロマンです。
ついに2009年1月28日、船に独り乗って八丈島へ渡りました。
八丈島は真冬なのに島全体が熱帯性の植物で覆われていました。天然の植物園です。そして花々が咲いていたのです。
そんな八丈島の冬から春先にかけて自分で撮った風景写真をお送りいたします。
1番目の写真は八丈島に繁茂している熱帯性の植物です。島は平野と火山で出来ていますが山地は全てこのように熱帯性の植物で覆われています。
2番目の写真は自動車道のそばに咲いていた熱帯性の植物の花です。
3番目の写真も自動車道のそばに咲いていたブーゲンビリアの花です。至る所にハイビスカスの花も咲いていました。真冬でもこのように熱帯性の花々が咲いていたのです。
その八丈島では早春になると「フリージア祭り」が行われます。そこで八丈島のフリージア畑の写真をお送りいたします。
4番目の写真は島の西にある山の麓にあるフリージア畑です。
5番目の写真はフリージア畑にいろいろな色彩の花を美しく混栽してある様子です。

6番目の写真はフリージア畑にある真紅と底の黄色いの
花です。

7番目の写真は混栽の仕方を列状にした風景です。フリージア畑の混栽の仕方を種々変化させて多様な美しさを演出しているのです。
このような八丈島は東京から約300Kmの海を隔てた太平洋上にあります。300Kmもの海を隔てているので八丈島は本土とは大変違う歴史と文化を有しています。
海路は明治以後の蒸気船やジーゼル機関のある船なら簡単に行き来出来ますが、それ以前の帆船では非常に困難な航海だったのです。「鳥もかよわぬ八丈島」と言われていたのです。
従って島民は東京都23区内ほどの広さの島で農産物と魚貝類だけで自給自足の歴史を築きあげてきたのです。独特の信仰と島特有の方言を持っていたのです。
その上、5000年以上前の縄文時代の石器や土器も多数出土しているのです。
この八丈島の厳しい生活条件を象徴しているのが1969年の八丈小島の全島民91人の離島、移住です。八丈小島は八丈島の西にある小島で、江戸時代から島の北西部に鳥打村、南東部に宇津木村の2村が置かれていたのです。この二つの村が1969年(昭和44年)に完全に廃村になったのです。
兎に角、八丈島は別世界なのです。
最後に八丈島の人々の暖かい人情について書いておきます。1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓のことです。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあるのです。八丈島の人々が毎日、切り花を供えていがのです。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。
秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。そして八丈島へ流されたのです。宇喜多一族は島の人々に大切にされました。
秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。
島の人々は流人たちを暖かく迎えました。流人たちはカイコや、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えました。サツマイモや焼酎の作り方を伝えました。
八丈島の人々は人情の篤い人々だったのです。
離島では周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。とくに海を渡って来た人々を大切にしたくなります。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。

今日は八丈島は真冬なのに島全体が熱帯性の植物で覆われ、ブーゲンビリアやハイビスカスの花が至る所に咲いている様子をご紹介しました。そして八丈島の人々は人情の篤い人々だという実例を幾つか書きました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。