後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」

2024年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。
そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。
今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。
松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。
慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp) 
しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑』のなかでは、大名の最末席に位置づけられていました。 
しかし松前藩は京都の朝廷と緊密な関係があったのです。
松前藩七世の公広(きんひろ)は大納言大炊御門資賢の息女を、一三世の道広は右大臣花山院常雅の息女など五人の藩主が都から正室を迎え入れていたのです。侍女たちも藩士たちと婚姻して、松前に京文化が浸透していました。 
これが地方の歴史の面白さです。
その上松前藩は北のシルクロードの中継地として繁栄していたのです。
アイヌ人たちが黒竜江(アムール川)付近から中国の衣服や絹織物などを持ち込んでいました。この美しい絹織物は「蝦夷錦」または「山丹錦」と言います。赤や青地の布に竜や竜頭や牡丹などの紋様が織り込まれていて江戸や大阪で人気がありました。北前船で日本海沿いに運んだのです。
この頃が松前藩の絶頂期でした。
松前藩の五世藩主の慶広が、徳川家康の望みに応じ着ていた蝦夷錦の胴服を家康に献上したという話が残っています。
このように繁栄した松前藩が明治維新の箱館戦争の余波で焼野原になってしまったのです。再興はなりませんでした。悲劇です。激しい盛衰ぶりです。
箱館戦争とは明治元年〈1868年〉に新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘です。
 幕府海軍の榎本武揚率いる軍艦開陽以下七隻が土方歳三とともに松前藩の箱館に上陸して函館で明治政府軍と戦ったのです。そしてその余波として土方歳三は松前町を占領し町を焼き尽くしたのです。
土方歳三率いる陸戦隊七百名が知内、福島と占領し、松前に入り激戦の末松前城東方の馬形台地にある法華寺を占領し松前城に攻め込みました。
焼失前の松前城天守閣には多くの刀傷が残っており、激戦の様子がうかがえたと伝えられています。この攻防戦の戦火によって城下町は焼失し、これ以後、松前の町は退潮の一途をたどったのです。 

2006年、私は独りで松前町を訪ねました。物凄く交通の便の悪い所です。
八戸までは新幹線。そこで函館行きの特急に乗り換え、長い海底トンネルを潜って木古内町という駅で降ります。淋しい小さな町です。そこから山越えのバスで1時間、松前町は遠方なのです。写真を示します。

1番目の写真は松前城の隅櫓です。2006年に行った私が撮った写真です。
2番目の写真は松前城の城門と隅櫓です。
3番目の写真は松前藩の代々の墓所です。松前城の跡地を歩いて行くと奥に隣接して代々の墓所があります。淋しい場所です。

4番目の写真は昭和26年(1951)に撮影された松前城下の写真です。
城下通りから西向き、天神坂方面を撮影した写真です。https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/bunkazai/detail_sp/00001680.html 

5番目の写真は現在の松前町の城下通りの写真です。
6番目の写真は松前藩屋敷です。よく修復されていて中に入れます。

7番目の写真は松前町の光善寺の写真です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E7%94%BA_(%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93)
2006年に松前町で泊った旅館は民宿程度の質素な宿です。汚れた古い畳の部屋に通され独り旅の淋しさを感じました。
そして夕食まで狭い松前の港町をつぶさに歩き回りました。港には電球をズラリと吊ったイカ釣り船がギッシリと並んでいます。町にも港にも人は居ません。
町並みを突きぬけると山側に小奇麗な新しい住宅が並んでいます。どんどん山の上の方へ歩いて行きます。すると若い奥さん風の人が白い犬を連れて来ます。先方から挨拶してくれます。
そしてここから帰りなさいと言います。北海道はヒグマが出るから夕方の独り歩きは危険です。私は犬の散歩なのでヒグマが寄って来ないのです。静かに言うのです。急いで帰りました。
次の日は松前城跡の丘に登り、松前藩の家具調度の展示館を見て、代々の藩主のお墓の列を参拝して、夕方、やっと函館まで出て来ました。
江戸時代の1850年台初め江戸幕府は人もあまり住んで居ない函館の浜港をロシアへ開港したのです。
それから函館の隆盛と松前の凋落が始まったのです。歴史の悲劇です。
余談ながら新選組の土方歳三は函館で壮烈な戦死をします。彼は函館では現在も英雄です。
松前では愚かな暴れ者として嫌われています。その必要も無いのに松前城を攻め、焼き払い、松前の町も破壊し、焼いて暴れたのです。人間の評価は場所によって違うのです。

今日は北海道、松前藩の盛衰の歴史をご紹介し松前町への旅の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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