後藤和弘のブログ

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肺ガンで若くして亡くなったマイフレの一周忌に彼を偲ぶ

2011年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ひかるのさんとは2008年の春頃からのお付き合いでした。彼のバンコックやカトマンズで書いているブログに感動しました。メールを送り、彼の撮った情感豊かな写真や文章を何度も、このブログでご紹介してきました。

何故、私が彼の生き方に強く魅かれたのでしょうか?

彼はアジア各地の言葉を覚え、その文化を愛し、貧しい人々を大切にして生きて居たのです。そして、アジアの伝統的な草木染めの手織り布を蒐集し、時々、東京で展示会をしていました。

独身を通して、路上の孤児を一人育て上げました。彼の人生には金銭慾も出世欲もありません。一介の放浪者として誠実に生きて来たのです。

その彼と初めて会ったのは2年半前でした。日本へ帰ってきてインド刺繍とサリーの展示会をしたのです。展示会は2008年12月8日から神田、小川町で開催されました。

お客の居ない会場で長々と彼の来し方の話を聞きました。その後、2回も東京で「アジアの手織り布」の展示会を開きました。彼に会うのが楽しくて、毎回展示会へ行きました。

ところが2009年の暮れに急に肺ガンになり東京厚生年金病院に入院しました。2010年の1月下旬に家内とお見舞いに行った時が彼の元気な姿を見る最後になってしまったのです。抗癌剤の投与もむなしく2010年の5月に旅立ってしまったのです。まだ50歳を出たばかりの若々しいお姿を忘れられません。

あれからもう一年になりますが、時々、ひかるのさんを思い出して懐かしく思っています。

そこで以下に初めてお会いした時の記事を再び掲載します。

一周忌にあたり、彼のかぐわしい人間性を偲びつつ、冥福をお祈り致したいと思います。時の経つのは早いもので、もう一年が過ぎてしまいました。

======2008年12月8日の掲載記事========

何度か掲載しましたように今日から「インド刺繍の世界・展示会」が神田、小川町で始まりました。東南アジアに住み着いて人々の哀歓を描いたブログを作っている「ひかるの」さんにお会いし、お話を聞いてきました。まだ50歳前後のお若い男性で、心豊かな方でした。お顔は半分インド人のように見えます。展示してある刺繍やサリーは、天然繭を原料にした絹に細かな刺繍をした見事な作品です。素人ながら一目で全て超高級品と分かりました。聞くとインド各地の絹織物の市場を半日歩いて一番美しい刺繍布やサリーを1点しか買わないそうです。そのように厳選した絹織物なので触ってみると何故か心が深い満足感で満たされます。

デパートのマネキンが着ている高級婦人服のような作品です。そこで売ったら数十万円で売れそうなものばかりです。そんな売り場へ卸せば良いのではないでしょうかと言いました。ところが日本の女性は有名ブランドの服飾なら数十万円でも買うが、どんなに最高の品でもブランドの無いインドのものは買わないそうです。自分の美的感覚で選び、品質の良い、着心地の良い服を買うという文化は日本からは消えてしまったと、ひかるのさんが悲しそうに説明してくれました。

展示会にあるものは、どれも数万円から数十万円する絹織物です。天然染料を用い、手で一点一点刺繍した作品です。機械・動力を一切使わない手織りの製品のみだそうです。

会場を貸してくれた「T女史」も手織り文化の素晴らしさに取りつかれた女性で、一緒に現在の日本の生活様式の底の浅さを嘆いていました。

ひかるのさんの展示会では安物は一切売っていません。インドの最高の手織りの絹織物の良さを日本人へ伝えたがっているようです。売ってお金を儲けようという気が無いようです。生活費は心配していません。しかし職業は持っていません。ただ南アジアの人々が好きで住んでいるだけです。T女史と小生がそんな人生が理解出来なくで質問を続けます。きっとお金持ちの2代目で困らないのですか?そんな質問をT女史もしていましたが、ひかるのさんはニコニコ笑うばかりでした。

結論をいうと、理解を超えた素晴らしい人生を送っているらしいということです。お会いし話を聞くと何か幸福感につつまれて楽しくなります。小川町から明治大学の前の坂を登ってJRお茶の水駅まで歩いている間中、この心地良い幸福感が身を包んでくれました。

寒い午後でしたが、春のように暖かさを感じながら坂を登ってお茶の水へ上がってきました。(終わり) 下の写真の撮影日時:12月8日午後2時頃

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