後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ブータン王国、ネパール共和国、チベット、それぞれの幸福度(2)チベット亡命政権を公平に考え直す

2012年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

チベット亡命政権は1959年から2012年の現在までインド北部に厳然と存在し続けています。最近、実権は渡したようですが、長い間ダライ・ラマ14世がその亡命政府の首班でした。

中国共産党軍は1949年にチベット全域を占領し、ラマ教の古い因習に束縛され、貧しい生活をしていた人民を開放したのです。

Cta1 しかし中国共産党の統治に反発したチベット人は10年後の1959年3月10日に大規模な蜂起をします。中国軍は87000人の蜂起軍を殺しましたが、ダライラマ14世と80000人のチベット人はインド北部へ亡命し、そこに亡命政権を作り、定住したのです。

左の写真がその亡命政権の建物と亡命チベット人が住んで居るインドの北の風景です。

この亡命政権の正式の名前は、「中央チベット政権 CTA (Central Tibetan Administration)」と言います。その後ダライラマ法王はノーベル平和賞を受賞し、国際的にCTAの正当性を訴え続けています。

日本の新聞は中国政府の怒りを買わないようにと、チベット亡命政権の存在や組織図はほとんど報道しません。しかしインターネットには詳しく公開されています。そのURLは、http://www.tibethouse.jp/cta/index.htmlです。

宗教の重要性を認識しているキリスト教圏の欧米諸国ではダライラマ14世と亡命政権の動きは何時も関心を集めているようです。去年はオバマ大統領がダライラマ14世と会見しています。日本の総理大臣は中国に気がねして絶対に会いません。

さて、チベット自治区に住んで居るチベット人の幸福度を考えて見ましょう。中国は昨年、ラサまでの高速鉄道を完成し、外国の観光客へも自由にラサへ行けるようにしました。立派なホテルやレストランも出来たそうです。従ってラサに住んでいるチベット人は昔に比べれば格段に豊かな生活が送れるようになったのです。一例を挙げると、下の写真です。ポタラ宮の下の道路の上の乗用車や観光バスと人々の様子にご注目下さい。Potala

観光バスが何台も停まり、乗用車が沢山走っています。人々は幸せそうに悠然と歩いて居ます。この平和的な光景を見ると中国の統治は成功したと言えます。(それにしても舗装された広場は後のポタラ宮とあまりにもチグハグです)

客観的に考えれば、ラマ教の因習から解放されて人々の幸福度が上がったのです。

従って、チベットが中国に領有されたお陰でチベット自治区に居る250万人以上のチべット人の幸福度が向上したと言えます。(下の資料をご覧下さい)

一方、北インドに定住している亡命チベット人は10万人前後です。その人々の幸福度はいか程でしょうか?仮に、完全に不幸だったとしても10万人だけの不幸です。

この不幸な10万人だけの亡命政権のお陰で巨大な中国が1959年以来、国際的に非難を浴びているのです。北京の政府は理不尽と感じます。憤懣やるかた無いのです。何故、欧米諸国が大騒ぎするのか理解出来ません。

共産党員には宗教の重要性が理解出来ないのです。

北京オリンピックの聖火ランナーが長野市を通過するとき、善光寺のお坊さん達が抗議の声を上げました。同じ仏教徒のダライラマ14世とその支持者を勇気づけるための抗議でした。皆様は忘れたかも知れませんが、私はとても安心しました。どの宗派にも属さない善光寺だから出来た義挙だったと高く評価しました。

チベット亡命政権の事は悩ましい問題なのです。自分の国の歴史を忘れれば、チベットを武力占領した中国は一方的に悪いと簡単に断罪できます。

しかし日本は明治維新の時、琉球王国を武力で威圧し領有してしまったのです。アイヌの邦、北海道を占有し、アイヌ民族とその文化を消滅してしまったのです。日本に中国を非難する資格が無いと感じるのです。まあ、私だけがそのように感じているのかも知れません。

チベット人の幸福度については続編で再考いたします。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

参考資料:チベット仏教(ラマ教とも言う)はインド後期仏教の流れを汲むものです。観音菩薩や阿弥陀如来が高僧に化身したとされる活佛としてダイライ・ラマとパンチェン・ラマが信仰の中心になっています。2人居るのは宗派が大きく2つに分かれているからです。

チベット族はチベット自治区の総人口281万人(2006年)の9割以上と言われています。したがって250万人以上と推定されるのです。チベット族はチベット自治区の他に青海省や四川省にも住んでいます。

中国政府は1951年には本格的に大規模な軍隊を送り、仏教教団に支配された封建的な農奴制からチベット族を解放する方針を発表しました。1956年には「チベット自治区準備委員会」をつくり、社会主義的な改革に着手し始めます。チベット族はこれに反発して、各地で武力衝突が起きたのです。

その最大の武力衝突が1959年3月10日にラサで起きました。チベット動乱と呼ばれる大規模な蜂起です。しかしラサでの解放軍との戦いで負けたのは、ダライラマ14世とそれに同調した住民側だったのです。

インドに亡命したダライラマ14世と8万人のチベット人はすぐにインド北部のダラムサラにチベット亡命政権を作りました。1959年のことです。これが、「中央チベット政権 CTA (Central Tibetan Administration)です。

それで終われば中国政府も安心出来たのですが、ラサ蜂起の30周年記念日の1989年3月10日を期して再びチベット独立のためのデモが起きたのです。デモ隊鎮圧の過程で多数の死傷者が出る激しい抗争になったのです。戒厳令もしかれたのです。

2002年になるとダライラマ14世側と中国共産党統一戦線工作部との交渉が始まります。しかし双方の主張は合意に至らず、現在でも対立が続いているのです。

この2008年には北京オリンピックがありました。「1959年のチベット動乱の記念日、」の2008年3月10日に再び騒乱が起きたのです。解放軍側の発表ではが18人のチベット人が鎮圧の過程で死んだと言います。一方インドにあるチベット亡命政権側の発表では死者が200人以上だったと主張しています。

中国政府がチベット族に譲歩すれば、他の地方に居るウイグル族へも譲歩せざるを得ず、頭の痛い問題なのです。(以上の情報は、田村宏嗣著、「中国の現代史」高文研社、2009年から引用いたしました。)

この中国の弱点を欧米側は外交上のカードとして時々使いますが、それはあまりにも刺激的な問題なので賢明な外交手段ではないように思います。日本は特にこの問題で中国を刺激しないようにしています。一般的に相手国の弱点を外交上のカードに使うのは紳士的でなく見苦しいものです。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。