皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?
しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。
今日は中国の権力者だった周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。
私は1981年に北京と瀋陽に行きました。北京科学技術大学の周教授が紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどを案内してくれました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺へも行きました。
1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。
そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見ながら歩く回廊がロマンチックなのです。
2番目の写真はその頤和園の回廊の写真です。
中国人は唯々諾々として政府の言うことに従っている訳ではありません。時と場合によっては立ち上がるのです。
政府の指示を無視した周恩来の追悼行事と1989年の天安門事件がその例です。
中国人は絶対に文化革命時の悲惨さと、民衆を救おうとした周恩来を忘れません。民主化を進めて失脚した共産党総書記、胡耀邦と趙紫陽を忘れません。
これは北京の大学の地下室で見た中国人の本音です。
中国の首相、周恩来が1976年に死にました。中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止しました。周恩来の人気が高すぎるので政権内に混乱が起きるのを恐れたのです。この政府による禁止命令は1980年代まで続きます。
北京の大学の地下3階の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
中国の東北部にある瀋陽に行った時、東北工科大学の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で話しかけてきました。「日本人にはいろいろな人がいました。大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は絶対に忘れません」と懐かしそうに言うのです。
さて中国には二つの天安門事件が起きました。1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件です。周恩来と胡耀邦の死を悼んだ民衆が天安門広場に集まったのです。その民衆を共産党中央権力者が武力で蹴散らした事件です。中國人は周恩来と胡耀邦を慕っていたのです。愛していたのです。
3番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。その後の実権を握ったのは鄧小平でした。
4番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。
鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。
この1972年から1989年の間は日中友好の時代でした。この日中友好の時代には中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件が起き、その後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。
中国には独裁的な政治家がいました。毛沢東、鄧小平、江沢民、そして習近平などです。しかし一方温情的で国民に優しい政治家もいました。周恩来、胡耀邦、胡錦涛、温家宝などです。
下に胡耀邦、胡錦涛、温家宝のことを書きたいと思います。
まず胡耀邦のことですが、彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
5番目の写真は胡耀邦です。
胡耀邦は1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請しました。
そして日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案しました。胡はこれに賛同し、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせたのです。
6番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。
胡耀邦は1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。
その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。
5月4日には北京の学生や市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展します。
ここで胡耀邦の弟子だった趙紫陽総書記が学生運動に同情的な発言を行います。それが致命傷になり、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとして趙紫陽も失脚しました。
中国人は胡耀邦と周恩来を絶対に忘れません。
そんな中国人に私は強い親近感を持ちます。同情し尊敬します。
江沢民の常軌を逸した反日政策で荒廃した日中関係を友好関係へと軌道修正に努力したのが胡錦濤・温家宝体制でした。その期間は2002年から2012年迄です。
胡錦濤・温家宝体制が2011年の東日本大震災の被害に対して行った暖かい支援をご紹介いたします。
胡錦濤主席と温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供すると表明したのです。
中国地震局は東日本大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
温家宝は2011年4月11日に訪日し天皇とも会見し友好路線をとることを表明します。
胡錦濤も2008年5月に来日し、個人的にも信頼関係にあった当時の福田康夫首相と「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表し友好関係へ舵を切ったのです。天皇をも表敬訪問します。
温家宝は2011年5月に再び訪日し、5月21日、東日本大震災の被災地である福島県を訪れたのです。その時の写真を示します。
7番目の写真は温家宝首相は放射能の恐怖をものともせずに、福島第一原発事故の避難住民が暮らす避難所を訪れた時の光景です。茶髪のお母さんが嬉しそうに笑っています。
8番目の写真は中国政府が緊急に派遣した救援隊の写真です。
9番目の写真は2011年8月1日、温家宝の招待で東日本大震災被災地の子供たち100人が海南省海南島に到着した時の写真です。チャーター機が仙台空港から海南省海南島に到着したのです。これは2011年の5月に訪日した温家宝首相の招待によるものでした。
日中が友好関係にあった胡耀邦、胡錦涛、温家宝などの時代があったことを忘れるべきではありません。日本人は中国から受けた恩を忘れるような民族ではありません。
今日は周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)