後藤和弘のブログ

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藤田嗣治画伯の愛国心と悲劇、そして神の愛

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで有名な藤田嗣二画伯は1886年に東京で生まれ 1968年にスイスで死にました。享年82歳でした。お墓はパリの郊外にあります。
彼の生涯を考えてみると次の3つの時期に分けられると思います。
(1)フランスで活躍し、「乳白色の肌」の裸婦像などで絶賛を浴びた時代
   (1913年、27歳で渡仏、1940年帰国)
(2)帰国し、戦争中に陸軍美術協会理事長として率先して戦争画を描き国威発揚に活躍していた時代
(3)戦後、フランスに逃げ、フランスの国籍を得て洗礼を受け、宗教画を描いていた時代
  (1949年渡米、フランスに行き帰化、1968年に死去)
今日の記事で私が主張したいことは、偏狭な愛国心は危険な愛であり、一方神の愛は人間に真のやすらぎを与える愛だという事実を主張したいのです。天才画家の運命も例外ではありませんでした。
フランスで画家として活躍し絶賛を浴びた後、帰国し、軍部に協力したのです。そしてその偏狭な愛国心は敗戦で挫折します。
戦後はフランスに逃れ、神の愛を知り洗礼を受け、幸せな晩年を過ごしたのです。
彼の一生は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生でした。
それでは上に書いた(1)、(2)、(3)の3つの時期の藤田嗣二画伯の作品を見てみましょう。

1番目の写真は「乳白色の肌」の裸婦像です。この乳白色は彼独特の手法で描いたもので、彼が一躍有名になったのもこのような裸婦画のせいでした。

2番目の写真は彼の婦人画の一例です。裸婦画でない普通の絵画でも彼の画家としての天才ぶりを発揮していたのです。

3番目の写真は1941年の、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」と題する大きな油彩です。ノモンハン事件で戦死した遺族の依頼で藤田画伯が描いた戦争画です。

4番目の写真は日本軍が初めて玉砕をした、「アッツ 島の玉砕」の油彩です。
この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。
そして彼はこの絵の前に遺族の弔慰金の募金箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。 人々が弔慰金を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。

5番目の写真は秋田の七夕祭りの様子を描いた非常に大きな絵画です。絵の前に並んでいる人間の大きさと比較してご覧ください。秋田に長期間滞在して描いた大作です。彼は日本の平和な風景も描いていたのです。

6番目の写真はランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で藤田画伯が建てた「平和の聖母礼拝堂」です。

7番目の写真は藤田画伯の描いた「平和の聖母礼拝堂」の壁画です。戦後は日本の国籍を捨てカトリックの洗礼を受け、教会の壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。
レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。
多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナーレ・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は彼の思想や私生活とは関係なく、現在でも世界中で高く評価されています。

しかしそれにしても、何故、レオナーレ藤田は大日本帝国陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画を描いたのでしょうか?その原因を考えてみます。
彼の父は森 鷗外が就任していた陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。
兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。
幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのです。藤田嗣二はもともと軍国主義者だったのです。ですから戦争画を描いた原因が理解できます。
その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたに相違ありません。
1940年に帰国し、陸軍からの要請で戦争画を描いたのは自然な成り行きです。彼は間違いなく率先して戦争に協力したのです。
一般的に言えば愛国心は非常に重要な愛の一種です。しかしその中身が問題です。
私自身は強い愛国心を持っていますが、いつも偏狭な愛国心だけは避けてきたつもりです。
それでは偏狭でない愛国心とは何でしょうか?それは人類愛に裏打ちされた愛でなければなりません。人類はみな平和に幸せに暮らすべきだという思想が裏にあり、表では自分が生まれ育った国を大切に思うような愛国心です。それは戦争を拒否する愛です。
この人類愛はキリスト教の神の愛と共通するのです。
戦後、日本で戦争協力者として迫害された藤田画伯はフランスに逃れ、そこで神の愛を知ったのです。

戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。
逮捕はまぬがれましたが、彼の心をひどく傷つけた のは人々の執拗な非難でした。とくに特高にいじめられた共産主義者の非難は陰湿で耐えられなかったようです。
そしてついにフランスへ亡命するように逃れ、1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナーレ・フジタと称したのです。しかしフランスのマスコミも戦争協力者の藤田画伯には冷ややかだったそうです。
所詮、人間の愛は儚いものです。しかし神の人間を愛する心は永遠なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===レオナーレ・フジタに関する参考資料=====
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Léonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日ー1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
義父は陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野が、従兄には小山内薫がいる。このように父や義父が陸軍の中将や大将であったので自然軍国主義者になったのだと思います。
第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
1949年にフランスに逃げた藤田は、1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
以上の文章の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB です。

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