無知の知

ほたるぶくろの日記

ちょっとした思考の散策

2010-03-22 22:38:39 | 日記

東京の桜もとうとう咲き始めました。本格的な春になったようです。先週くらいまではあれこれ怒濤のように用事があったのですが、なんとか今週末は静かです。久しぶりに自宅でゆっくりできていることに感謝しています。インフルエンザは沈静化したようですが咳の出る風邪が流行っているようなので身体を休めておかないとやられてしまいます。桜が咲き始めたとはいえ、まだ寒暖の差も激しいようですし。

最近古代史に思いがとぶので興味に任せてあれこれ検索していました。ネット上にはいろいろの言説があり、中にはかなりのトンデモなものもあります。ただ感想として書いておきたいのは、現代の私たちには表層的には直接の関わりが見えませんが、無視していい問題ではなさそうだということです。頭の片隅においておこうとおもいます。

少し重い話題になるのですが、今回旧約聖書の断片を読んでいるうちに、「イサクの燔祭」につきあたりました。これまでにも何度か読んだことのある物語でしたし、あらすじは知っていたものです。しかし、今回読みながらこれまでと全く異なった印象を受けました。これまでの私の理解はキリスト教的なもので「神に命令されれば自分の最愛の子を殺すことさえいとわない」敬虔な(狂信的な)信徒の模範的行動を描いた物語、というものでした。ところが今回これを読みながらこのイサクの「神への信仰」というものがいわゆる「独裁的人格神への絶対的服従」とは異なるようだと思ったのでした。

燔祭=神への生け贄というのは多分に比喩的なものであり、実はもっとひろい不運に会うということを示しているのだと思えたのです。最愛の息子を燔祭に捧げなくてはならない、というのはその究極の状況なのではないでしょうか。人は生きる上で不運に会います。そしてそれは避けることができない。避けずに受け入れるしかないのです。それは必要があってやって来た不幸なのですから。これは生半可なことではありません。それの究極は、例えば自分の最愛の子供を差し出すことなのです。それさえも人はこの世でおこることとして受け入れていかねばならない。そしてその不幸を受け入れ、それでも誰を恨むことなく自己の良心に従い生きることができるならば、その方の人生は本当に恩寵に満ちたものになるのでしょう。旧約聖書における「イサクの燔祭」では、まさに息子を殺そうとするその瞬間天からのお使いが現れその行為を止め、代わりの羊が与えられたのでした。

私は自分自身のこの変化に驚いています。こんなにも旧約聖書に深いものを感じたのは初めてです。だからといって旧約聖書を読み返そうなどとはさらさら思っていないのですが(笑)そんな時間がありましたら、もう少しお家の片付けものをします。たまに今回のように静かな時を持つことがあったらちらっと見るのも悪くないかもしれないですが。


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