今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

清州城界隈を歩く

2015年02月25日 | 城巡り

今日は世間的には完全なる平日だが、授業も会議もなく、確定申告も提出したので、気分転換に愛知で城巡りをしたい。
関東の城は、北条・上杉・武田の三雄の抗争の跡だが、こちらは信長・秀吉・家康という天下人三傑の跡だ。 

名古屋城と犬山城はもちろん、岐阜城も訪問済みなので、次はどこにしようと考えたら、頭に浮かんだのは、東海道線で名古屋から岐阜方面に向ったとき線路脇に天守閣が見える清洲城(写真:あれは最近の模擬天守だが)。

もちろん織田信長の居城たっだ城。

ちなみに清州城は清須市にあり、清須市内に清州という地名がある。

名古屋からJR東海道線で2駅目の清州で降りる。
たった2つめなのだが、昔の町のまま鄙びた感じで駅前にコンビニもない。

江戸時代の幹線道路・東海道は名古屋市熱田から海路で桑名に向ってしまい、北の清州は美濃街道という脇道になってしまったせいもある。

駅からひたすら線路沿いに歩くと、清州古城跡公園に出る。

ここが本来の清洲城跡で、新築の模擬天守(清洲城では「天主」の字を宛てる)は、対岸にある。
城跡には、信長を祀る祠と、石垣の一部が残っている。
そこから赤い欄干の橋を渡って資料館になっている天主閣に入る(300円)

平日の真っ昼間なのに、就学前でも定年後でもない年齢の観光客が来ている。

中の解説は、すべて「信長公」で通してある。
そうえいば萩では「松陰先生」だし、渥美半島の田原町では「崋山先生」だった。

清洲城は、信長没後、信雄(ノブカツ)の時代に全盛期を向え、天主閣もあった。
武家屋敷も町屋も擁した城郭の面積は広大だった。
それが徳川家康の指示で名古屋が尾張の本拠地となったことで、廃城となる。

その後の清州は美濃街道の宿場町として生き残った。

線路を隔てた公園内に城主時代の若き信長の銅像がある(濃姫とともに)。

あと付近は美濃街道の風情が残っており、本陣跡とか、時代がかった家並もある。

私は南に足を伸ばして、日吉神社に向う。

途中の旧街道沿いに、清州桜醸造があった。
今宵の晩酌はもちろん「清州城鬼ころし」と決めていたが、その本拠地で買わない手はない。
工場向かいの販売所に入ると、スーパーで売っている安い紙パック(鬼ころし)だけでなく、ちゃんとした瓶の純米吟醸もあるではないか。
歩き中ということもあり、小さい300mlの吟醸酒「清洲城信長」を買った。

さてそれなりに広い日吉神社に着く。
この神社は信長在城の頃の清州の総鎮守で、近在の信仰を集めていた。
境内には「子産石」という一種の形象石が鎮座しており、その岩に触ると子宝を授かるという。
当時、日吉神社のこの石に子宝を祈った地元の女性が、御利益がかなって男の子を産み、神社にちなんで名を「日吉丸」とした。

残念ながらその子の容貌はいつまでたってもお猿さんのようだったが、両親はそれさえもよろこんだろう。
なぜなら日吉神社は山王信仰により、猿が神の使いだから(狛犬の代わりに猿の像が置かれている)。
この子はもしかして天下を取るような傑物になるかもと、親ばか的な期待したのではないか。

ということで、信長巡りの次ぎは、秀吉巡りとするか。 


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