私の過去の記事「大地震に季節傾向はあるか」(2012年3月10日)は、今回の地震以前からそれなりに読まれていた。
この記事は、日本の過去1300年余の地震記録から、M7以上の大地震の季節傾向の有無を検証したものだが、
そのデータから、逆に過去に大地震の記録がない県の1つに熊本を入れ、「これらの県は長い目て見て安全といえる」と記してしまった。
もちろんその直後に「ただしM7未満の震源にはなっているし、
考古学・地質学レベルでの大地震の痕跡はあったかもしれない」と注釈はつけたが。
熊本地震の後、あらためてこの記事を見直してまずいと思った。
防災士たる者が「安全」宣言のような言辞を弄してしまったのは迂闊だったと(この記事の中で熊本は除外する旨を追加した)。
当時のこの記事を防災の根拠にした熊本県の方がいなかったことを今更ながら祈るのみ。
なぜ、防災にかかわる側が「安全」宣言をしてはならないか。
それは防災をすべき側に「安心」を与えてしまうから。
”安全”という客観的基準は、怠る事なく追究すべき極限値である(100%は到達できない)。
ところが、”安心”という心理はいとも簡単に、たいした根拠もなく人々の心に入り込む。
防災とは、完全には実現困難な「安全」と、いとも簡単に達成され、安全から遠のいてしまう「安心」との永遠の戦いなのだ。
だから、責任をもって防災に携わる者は「安全・安心」という両者を安直に並列したスローガンを使うことはない。
防災に携わる者は、人々の”安全”を少しでも高めるために、むしろその動機づけとなる”不安・恐怖”を煽るのが仕事であって、
不安・恐怖の対極の心理である”安全”は決して宣言してはならない。
防災にうるさい者は煙たがられるものだが、目的は人に好かれることではないから、人を喜ばせるような言辞は謹みたい。