■山南ノート(3)☆☆☆演劇航海日誌

劇団夢桟敷♂山南純平の演劇ノートです。2008年は劇団創立30周年。海は荒れているか!面舵一杯。

小劇場史(47)

2008年07月15日 | 小劇場30年
★劇団夢桟敷<小劇場30年>を振り返って連載中です。ここでは走り書きのつもりで書いております。何度か書き直して整理してみようと計画中です。
 尚、不定期で気ままに掲載します。流れがつかめない場合はココをご覧下さい。

 小劇場の変化

 いつの頃からか、「小劇場」が大衆化していた。それに気付き始めたのは熊本に帰って来た1980年代半ばではなかっただろうか。・・・<第二期>
 私たち夢桟敷のことも怪しげな集団だとは思われなくなっていた。いわゆる「アングラ」も風化したのか、死語のようでもあった。何をやってもチヤホヤされた時期がある。簡単に「芸術」だと思われたらしい。あるいは演劇をコマーシャルに利用できるものだと捉えられるようにもなっていた。1980年代である。
 さほど中身を変えた訳でもなく、気付けば「小劇場」と「商業演劇」の境界線が曖昧になって来たのである。一方、「アングラ劇」の「新劇」への里帰りと呼ばれるようにもなっていた。それが、1980年代の演劇だった。演劇の現場で囁かれていたのは「何も無い時代」とも言われていた。つまり「演劇では何も起こらない。」悲観的な様相もあった。負のエネルギーを感じていた。世にはその反対側を負のエネルギーと感じている者たちの方が圧倒的に多かったのだ。反対側の前衛やアングラ劇、アバンギャルドは海外へと流れていた。逆輸入現象が起こり、大衆化の反対側は権威ともなっていく。国内の「小劇場」=大衆化は元祖「小劇場」の権威と両極のようにも見えた。それが1980年代「小劇場」の二極化だった。
 
 劇団はメジャーへの登竜門として位置づけられるようになると個性が平均化していくようになる。この熊本でも「タレント養成所」と呼ばれるものがある。劇団の養成所化やテレビタレント(芸能)を目指す俳優志望者も潜在的には増えてきた。しかし、それが演劇への活性化につながって行かないのは何故だろうか。詰まるところ、演劇が商品として売れなければ意味がないからである。ここには文化の発想とは根本的に異なる。文化は演劇を商品化して利潤を追求する方向とは対立することがあるからである。結果として利潤が生み出される。利潤が目的とならない計算外が文化の力だ。ちなみに、劇団夢桟敷が原点としているものは文化とも呼ばれない風俗だったのである。つまり、サブカルチャー。文化への補完。主流や本流なるものへの抵抗感があった。大衆化や権威に無関心であった。
 
 芸術論や文化論とは無縁な集団であり続けている。これについては他人様が考えてくれている。他人様とは観客でもある。特にリピータが言う「文化・芸術」は自由だ。この集団のやっていることの意味を考えてくれている人たちがいる。自分のことのように賛同してくれている人たちもいる。大きな支えになってきた。義理やリップサービスで近づいているのではなく、熊本に異風を吹かせたい少数派だと思う。演劇人よりもミュージシャン、美術家、市民運動家が周りに集まっていた。
 「小劇場」が新劇や商業化の波を送り出している時に、夢桟敷は異種共同作業に入って行った。ある意味では演劇界とは疎遠な時期を送ることになった。これが<第二期>の特徴であり、客観的に「小劇場の変化」を見ていたのである。つまり、情報としての演劇やタレント育成としての芸能界やメジャーとしての下請け的な活動を離脱していたのである。まるで「小劇場」の変化を内部で体現していたような関係のようでもあった。

 日本の「小劇場」は第一世代の寺山/唐の時代から一歩前へ出ようともがいていたのだった。その原動力になったのが、流山児さん、つかさん、山崎哲さん、いわゆる第二世代と呼ばれる劇作家や演出家たちの第三世代への北村想、野田秀樹への影響力があったのだと思う。

 ■ヨゼフKと本田浩隆 
 この1980年代半ばの時期に、本田浩隆が入団してきた。彼も世代としてはタレント志向が強かったように思う。まさにバブル経済真っ最中である。美男子はジャニーズ事務所を思わせた。ダンスの振り付けは彼=本田がやるようになった。暗黒舞踏とモダンダンスがかけ合わされて行く。ステップを踏む、飛跳ねる。
 この時期は小本浩一(スター)とたちばななつき(アイドル)が抜けた頃でもあった。恐ろしい顔?風格をしたヨゼフKと姉御の佐藤めぐみが主要な若手で、彼らと組み合わされる。性格的には水と油のような関係であった。もう一人、本田君と同級生だった家近という俳優がいた。この水(本田)と油(ヨゼフ)の間に夢現が主演としてドカーンと立っていたのである。
 ヨゼフKと本田浩隆の接点とは何だったのだろうか。まるで筋が違っていた。このミスマッチが面白かった。ミスマッチは夢現が接着していた。まるで、台頭する大衆化「小劇場」と前衛化「小劇場」の振り子のような関係でもあった。

 ■造形作家・山本てつお
 1980年代半ば<第二期>では彼の存在は夢桟敷の<空間>としては必要不可欠なものとなった。単なる舞台美術ではなかった。美術の表現が演劇に大きな影響を与えていた。つまり、彼の作品が夢桟敷の演劇と重なったのである。彼との共同作業を通じて、演劇=美術だとも思えるようになる。あくまでも集団としての表現として美術作品は演劇と関わることによって「動の世界」へ変化することがわかった。これが、劇団の活動として美術展へ参加していく契機にもなった。

 社会的に「小劇場」が大衆化・権威化されている時に、夢桟敷はコラボレーションとパフォーマンスに走っていたことになる。時代は「思想の進化」から「イメージの進化」へ表現世界が要求されていたのだった。哲学的な観念の固さから視覚的な形の柔らかさへ流れる。
 映像と舞台のコラボレーションの可能性は!
 俳優たちが「小劇場」からテレビへ進出している時期に、舞台へ映像を取り込もうと発想していた。演劇を作る勢いを映像へも傾けることとなる。
 「アンドロイド伝説」他、光るオブジェ、照明効果としての映像などの実験を舞台で展開する。

小劇場史(46)

2008年06月24日 | 小劇場30年
 劇団夢桟敷(前身を「ブラックホール」と名乗っていた。)「人物烈伝」を書き始めて、これには流石に息切れを感じた。かまえてしまうのだ。私はかまえることが嫌いだ。にも拘らず、かまえてしまう。・・・「このジレンマは何なんだ!」と萎えてしまった訳だ。
 自分を何様だと思う。とりわけ「人物」について書き始めた頃から「いつから先生のようなことを!」と嫌悪感さえ感じるようになった。劇団は学校ではなかった筈。先生ー生徒、或いは、師匠ー弟子という関係を否定していた。
 その反動で海幸大介君のエピソードとして「ピンクサロン」に行ったことを書いてしまった。反省、反省。しかし、彼には駄文であったにしても取り返しはつく。だから、つまらぬことを安心して語ることができる。
 思い返せば、だらしないことや無茶が多すぎる。これを語り過ぎれば人生ハチャメチャ。誤解が誤解を増殖することになる。私のことなら良い。手が届かない所で生きている元劇団員の現在を知らぬまま書くのが怖くなってきたのである。今、一生懸命に生きている関係者に泥を塗ることになるのではないか!と不安にもなる。

 過去のことだから許してくれ給え。・・・そういうネタが山ほどありすぎて自分で驚いている。だが、書く対象を一歩間違えば洒落にならないことだってある。

 劇団夢桟敷の第三期活動は2000年からになる。昨日のような時間だ。この時期には60名~70名程度の劇団員たちが通り過ぎて行った。
 子どもだったメンバーも今では殆ど成人しており、中には結婚して子どもまでいるのもいて、びっくりする。
 第三期からの「人物烈伝」は人物をピックアップするのは辞めよう。
 これまでに書き殴った(1)~(45)を読み返して、もう一度、書き改める作業に入った。写真や過去のチラシ、新聞記事などにも目を通している。
 社会的(日本の演劇界)にどう関わってきたのだろうか?その視点が弱い。演劇に関係ない人々が読んでも面白くない。できれば、身をもって活動してきたことを演劇に興味を持たない人々にも読んでもらいたい。そのような欲望が膨れ上がってしまったのだ。演劇になびいて欲しいと思う。
 これより、「史」のドラマに登場する人物として物語ることにしたい。その前に・・・。

 「小劇場史」と「劇団30年史」というタイトルからして、「いかにも地方文化人が自己満足の実績アピール駄文」ではダメだ。
 どうやって構成しようか。その方法次第でタイトルが変わる。
 編集に時間がかかりそうな気配である。削り取れる部分と付け加える部分を考えて読み返している内に、「書き直し!」に腰を抜かしてしまった。精神的な椎間板ヘルニアである。コツコツやろう。
 読み物としての計算が始まった。

 今日は休止宣言をした「小劇場史」のため息を吐く。はぁ~。きっと口臭はニコチンである。

小劇場史(45)

2008年06月03日 | 小劇場30年
 記録を残したいという想いが、自身で滑稽に見えるのも事実だ。
 「オレは何を残そうとしているのだろうか?」・・・迷路を作る!!

 第二期:東京から熊本へ引っ越して来た。つまり、帰って来たのが1984年。ライブハウスを経営しながら劇団活動をしようとした。自分たちの小屋が欲しい。熊本で根を張ろうと決意したのだった。座長の実家が熊本(矢部・現、山都町)であり、いずれ熊本に帰ることを前提に結婚(私が座長の籍に入る。養子である。)したから、その約束もあった。東京での生活が長引けば熊本に帰れなくなる。6年弱の東京体験はそのまま東京でしか演劇ができなくなるような不安にも襲われようとしていた。東京では地方が見えなくなっていたのだ。
 熊本に帰ると、東京で演劇活動をしていた変わった劇団がライブハウスを開いた、とマスコミからマークされるようになった。変わった劇団?とは所謂「アングラ劇」と言うことだった。肥後のワサモン!(新しいもの好きだが長続きしない。)の風土があって、その波に乗った。実は自分では「新しいもの」という実感がなかったのだ。方向はポスト・アングラである。だが、60年代からの唐十郎・寺山修司たちの<新劇批判>を簡単に超えることはできない。・・・もがいていたのだった。

 人物烈伝(4)

 ☆小本浩一

 ライブハウスの開店が1984.11。同時にテント芝居のリダン、夢一族、風の旅団(いずれも「曲馬館」の流れから派生した劇団)の子飼橋下河川敷での公演受け入れなどを手伝っていた。その時に小本浩一と出会った。彼は大学浪人中だった。しかし、テント芝居を見て「大学よりも面白い世界を見た。」と感動していた。彼は大学進学から劇団への入団を選んだ。熊本へ帰って来て第1号の新人さんである。第二期では、彼に続いて劇団員■たちばななつき/亜野徳満/佐藤めぐみ/ヨゼフK/本田浩隆・他30名程度が激しい新陳代謝の如く入退団を繰り返した。稽古を休むと来づらくなってなっていたのだろう。それ程、一回休むと追いついていけないほどの目まぐるしい変化・進化をしていた。スピードが速かったのである。・・・当時は美術作家■山本てつお/片山昇/フーコ/林浩/上野純雄・・荒尾造形/異類異業・他の方々とのコラボレーションも行っており、時に西日本プロレス■ホーデスミン/川崎賢一/徳田までも舞台に上がる。
 小本浩一をはじめ、一人ひとりの個性が強く、そのエピソードは簡単には語り尽くせないのだ。・・・いずれフィクション?小説になるだろう。それは、これまでに上演した作品を振り返りながら<写真><ビデオ><宣伝チラシ><新聞記事>などを眺めながらドキュメンタリーとして、もう一つの<現実>を語ることになるような予感がある。

 再度、記録を残したいという想いが、自身で滑稽に見えるのも事実だ。「オレは何を残そうとしているのだろうか?」・・・迷路を作る!!
 過去の劇団員たちの顔を思い浮かべながら「小劇場史30年」を振り返ってみたが、人物スポットの書き辛さだけが身に染みる。
 人間を語る程、偉くはない。「小説的」に虚構と化したい。
 これまでに書き上げた(1)~(45)を再度、点検して書き直し!暫くは編集作業のため、一時、山南ノートでの下書きを休みたいと思います。

小劇場史(44)

2008年06月01日 | 小劇場30年
 久しぶりに「小劇場史」を書きます。実は4月末(劇団笠戸丸公演)から5月の「演劇大学」、更に夢桟敷8月公演に向けて慌しく動いていて、じっくり振り返る余裕がありませんでした。(注)「多忙。」・・・これは言い訳でして、人物シリーズに入って書き辛くなってきたことの方が大きな原因です。書いては消す繰り返し。

 ~人物烈伝~<第一期>の旗揚げメンバーは夢現ー海幸大介に続いて万ちゃん、上村源太を書こう。正直言って<人物>を書くなんてことは無謀とも言える。恐ろしいことである。今から30年前にもなろうとしているから記憶も薄れている。第一期(1979-1984)では、この2名以外にも小池喜久恵さん、内田さん(音楽)や坂上君(写真家)、高瀬進さん(映画評論)、若杉和歌さん、夏目一樹さんなど、劇団を支えてくれた多くの者たちがいる。一人ひとりを全部書き込むことができたら、それがベストだろう。しかし、中には迷惑なことと思われる元劇団員がいるだろう。まして、音信不通になった者に対して書くことは気付かない内に誤解を生むことにもなりかねない。前述した夢現、海幸大介は今、近いところにいて誤解が生じたとしても、今後の関係に於いて解消できるだろう。その範囲では安全圏だ。だが、万ちゃんは北海道、上村は東京に在住しており簡単には会えない。にも関わらず、この二人を書くことの勇気は<第一期>の活動を語る上で濃い存在だったからである。この二名に絡めながら、当時の活動や人間関係などを綴る。 

 人物烈伝(3)

 ☆万十蔵

 先日(5月24日)、大ちゃんから万ちゃんの消息が判った、という連絡が入った。北海道にいた。東京での演劇活動を辞めて大学を卒業の後、真面目に会社勤めを持続していたのだ。年齢は50ちょっと手前。時の流れを感じる。 
 記憶が正しければ「ぴあ」で劇団員募集に応じて入団してきた。北海道帯広市出身だった。高校演劇経験者でもあり、芸名の万十蔵は「唐十郎」を捩ったとも思われる。高校を卒業して神奈川の大学に入ったばかりだというのに顔は老けていた。ちょっと太り気味だったから風格があったように見えた。劇団では年齢不詳に見えるものが必ずいる。年齢不詳を俳優は得とする。
 大ちゃんー小池喜久恵ー万ちゃんのトリオが劇団内で結ばれていた。まるで兄弟のようでもあった。・・・舞台に立つと老けて見えるのが万十蔵。「まことちゃん事件」(1981.8)では二十歳でおじいちゃん役を演じていた。頭を丸めることに何の抵抗もなかったようだ。当時の劇団内合言葉は「ヘタは頭を剃れ!」であった。全く素直な男であった。頭、眉を剃ると舞台俳優というよりは暗黒舞踏手に見えるから不思議である。しかし、彼は舞踏に関心はなかったのではないだろうか。ダンスは好きであったが、彼が振付けるダンスは言わばジャニーズ系、つまりポップであった。それが、何の抵抗もなく渋谷駅前(忠犬ハチ公の銅像があるところ)で街頭パフォーマンスをやったことがある。基本は暗黒舞踏。私と大ちゃんと万ちゃんのトリオでおこなう。三人ともふんどしに襦袢という半裸で踊る。不覚にも男のイチモツがふんどしからはみ出ていた。駅の交番では警官が腕を組んで監視しているが捕まえようとはしなかった。原宿では竹の子族と呼ばれる若者たちが歩行者天国で踊っていた時代である。

 ☆上村源太

 彼とは1975年からの付き合いである。長い。年齢は座長と同じ。私が大学5年の時に入学してきた。新入生代表で挨拶したぐらいだからトップで入学したのだろう。が、私との出会いで大学とは反目することになった。文科系サークルボックス改築が大学当局管理につながるとして先頭に立って反対してきた男である。
 1978年、今の劇団の母体は文芸集団(一年間で解散。「ブラックホール」という文芸雑誌を発行する。4号まで。)から出発した。この時も彼は中心メンバーであった。この時のメンバーは木村かよ、風博士、林周一など10名くらいで徒党を組み、上村源太が夜警のバイトしていた中学校の宿泊所を拠点にして夜の宴会や出版、演劇の稽古場として体育館を勝手に使用していた。1978年に公演した「酔狂の華」が東京で旗揚げする劇団の助走公演となる。
 1979年に夢現と東京へ出て行くと、彼とUさんも後から東京で合流することになった。熊本組が4名。彼が書いた「黒い十字星」(1982.6)を発表する。犯罪劇から反戦の劇への挑戦となる。犯罪と戦争について語るようになっていた。今の劇作りからすると直線的であった。芸能界に憧れ、スターを夢見て劇団に入団する者たちを政治的故に追い払う形にもなる。直線的とは言え、暗黒舞踏やアングラ劇を表現方法として標榜していたから屈折はしていたのだろう。大衆的に受け入れてもらおうとはしていなかったのである。
 ある意味では贅沢な演劇活動だったとも言える。好きなことを好きなように演る!これだけが支えになっていた。だが、各人に将来への不安が過ぎっていたのも事実ではなかっただろうか。
 1984年に私と夢現が熊本に劇団を移すと、彼はきっぱり演劇活動から足を洗い、今ではコンピューター会社の幹部として仕事に専念する。曰く、「演劇を経験すると社会での仕事の苦労を苦労として思えなくなっている自分がいる。」と。この感覚は反対ではないだろうかと疑ったが、彼に言わせるとそうである。彼の真面目さが「演劇は甘い!」とする世間の感覚とは逆転していたのだとも思う。

 書ききれないものである。
 機会があれば酒に酔いながら昔話を録音してみたい。これは各地に散らばった劇団員(戦友たち)と会ったら実現したいものだ。昔の公演チラシや写真、ビデオテープなどを整理したいとも思っている。記録を残したいという想いが、自身で滑稽に見えるのも事実だ。

小劇場史(43)

2008年04月15日 | 小劇場30年
 人物烈伝の第二弾は<第一期>の旗揚げメンバーから、東京で劇団を旗揚げした頃のメンバー(1979-1984)である。当時の劇団名は「ブラックホール」を名乗っていた。いかにも悪役である。暴走族か宇宙の墓場をイメージさせる。その名前は1978年の文芸集団(熊本でガリ版刷り文芸雑誌を発行していた。)からの引き続きでもあった。

 人物烈伝(2)

☆海幸大介
 
 彼のことについては<第一期>の旗揚げの場面で何度か登場している。話が繰り返すから、ここではエピソードを付け加える。・・・最近、仕事の関係で東京から北九州市に帰って来ており、何度か会って昔話に花が咲く。この「小劇場史・第一期」では彼との会話で忘れていたことを思い出すことができた。中でも、ピンクサロンに二人で飲みに行ったことが、彼の人格を語る上で印象に残った。未だ二十歳そこそこだったと思うが、高田馬場駅近くの「一時間○○円ポッキリ」の看板に吸い込まれるように入った。私が誘った。彼は下ネタが苦手である。エッチな彼を見たかったのだ。ところが、・・・彼はホステスに演劇論を語っている。おや?「お客さん、時間を延長しますか?」に「はい。」と答える。私は忘れてしまっていたが、一ヶ月のバイト料の半分を使ってしまったらしい。笑い話になってしまった。エッチなお楽しみは置いといて「演劇青年」一色だと思った。そういう一途な青年だったから、年上の方からは可愛がられていた。目がキョロキョロとしていて大きい。暗黒舞踏のアリアドーネの会を主宰するカルロッタ池田さんとの交流もあった。第一期の活動は彼の舞踏へのはまりように色濃く劇の特色が現れたと思う。・・・劇団を退団(1983)と同時に新しく劇団を立ち上げるまでになっていた。驚いたのは可愛い女の子ばかりが集まっていた。作演出の公演を二度見たが、この先、強烈なライバルになるのではないかと思っていた。だが、私が熊本へ拠点を移してからは音信不通となってしまい、それから25年目の再会となったのである。空白の25年の間にお互いの人生を感じた。もう青年ではないが、演劇について語り始めると青年に戻れる。原宿や渋谷駅前、早稲田大学での街頭パフォーマンスの経験などは、誰でもが経験するようなものではない。貴重な経験を共有した数少ない同志であったのである。同志とは「新劇を正統派とするリアリズム批判への演劇活動」だったのだろう。その同志が熊本から100キロ程度の北九州に住んでいる、という近距離に心強さを感じる。最近では稽古見学にも来てくれて関係が復活したようにも感じる。

小劇場史(42)-3

2008年03月20日 | 小劇場30年
 人物烈伝(1)-3 夢現(ゆめ うつつ)
 
  
 (注)=昨日記事(42)-2つづき。=

 これまでに彼女が脚本を書いたのは三作ある。
 「眠れぬ街」1982年(12月)/下北沢スーパーマーケット
 「炎の回廊」1985年(12月)/ライブハウス夢桟敷
 「炎の回廊Ⅱ 不眠症パラダイス」1986年(10月~12月)
 熊本市民会館(くまもと市民祭企画参加)・RKK第二会館ABCスタジオ(熊本演劇フェスティバル参加)・八代市松屋ビル

 いずれも「事件」をヒントに書き込まれたものだった。
 「眠れぬ街」では新宿歌舞伎町のディスコで群れている若者たちが、少女殺人へと傾斜していく物語に仕立て上げられた。実際にあった「中3少女殺人事件(落合雅美さん14才)1982.6=未解決事件=」の衝撃的な事件である。少女の書き残した作文を読むと「落ちこぼれでもいい、自分に負けずに生きていく」から始まり「家族へのやさしい思いやり」まで書き残されている。若者や少年少女たちの行き場が家庭や学校から追いやられてしまう「叫び」のような劇になる。怪奇的であったのは少女はアキレス腱を切られていたのである。
 「炎の回廊」では学校の放火事件である。「荒れる学校・・・生徒が教師に対して暴行」などが叫ばれるようになって、各地でテスト前の学校放火事件が頻発するようになっていた。
 子どもたちに何らかの変化が生じている、と思っていた。否、昔から子どもたちはその成長過程で凶暴にも優しくにも変化する、悪魔と天使が同居している。そう思えたのは自分たちが大人になっていたことを自覚するようになってから見えるのだろう。
 少年少女が登場してくる劇になったが、いわゆる「少女もの=メルヘン」ではない。ここには「暴力」に対する視点が築かれていた。中々、女性が書くには困難なことだとは思っていたが、夢現には社会に反応するような目があった。
 今後も脚本を手がけることはあるだろう。一味違った「女性作家」が日本演劇に潜んでいる。だが、その後は女優に専念して行った。

 第三期(2000~)に入ってから、彼女にとってはライフワークとも思われるような劇に取り組む。それが、「星砂のくる海」「1945漂流記」だった。いわゆる反戦劇である。だが、かつての新劇運動のような政治劇にはならない。共産党も社会主義国家も演劇には関係ない。ヒューマニズムの詭弁や曖昧さも知っている。戦争の悲惨さを伝える女優ではない。命の大切さを訴える演劇言語としての道具でもない。「ない、ない。」である。だが、彼女が立つ舞台は明らかに「反戦劇」として見えてくるのである。これは政治的な闘争ではなく、演劇には演劇としての「闘い方」があるということを示している。
 表現活動が運動へ発展していくことがあるとするならば、演劇は運動が表現へと還元していくものだ。演劇それ自体が自分の中でも社会的にも同時に運動している。つまり、止まってはいない。
 この劇が将来に向かって彼女のライフワークになるだろうと予感をしたのは、演劇を興行形式に捉われずに「劇場」から「日常」へと移行した際に、この劇は成立するだろうと考えているからである。観客ー演者との関係がないところで突然に劇が進行する。ひとり芝居でありながら、聞き手・観客も舞台に立ち尽くす劇を目指す。私は彼女の女優としての価値をそこに見出しているのだが、今のところ演出方法に戸惑っている。日常への演出は舞台人としては最も困難な作業だからだ。これまでも非日常や狂気、怪奇幻想の表現を手がけてきたものにとって、その信念を歪める勇気がない。ある意味では劇を日常へ飛び出す力は「革命」かも知れない。一線を越えることが前提になる。危険でさえある。
 私が想像している夢現という女優は、ホンモノの老婆になって突然、街で踊りだしたり誰彼と無く、気持ち悪がって逃げる若者たちの首根っこを掴んで「私の話を聞け!」と狂っている姿だ。迷惑な想像・妄想だと思う。
 これも劇だ。
 チャラチャラした者にはできない劇である。
 これまでの30年間の彼女がいぶし銀女優であったために、溜まりに溜まった女優魂が、とんでもない大きな花を咲かせるだろう。<日常>で通用する<狂気>が認められる時だと思っている。劇の狂気は日常の人々にとって天使に代わることがある。それが彼女の女優としての仕事だと思ってきたのである。

小劇場史(42)-2

2008年03月19日 | 小劇場30年
 人物烈伝(1)-2
 ☆夢現(ゆめうつつ)
  
 (注)=昨日記事(42)-1つづき。=

 劇団で先頭を走る女優になっていた。つまり劇団の顔になっていることを意味している。
 通常ならば、劇団の顔はメジャー(例えば、テレビや映画など。)でも通用するものであるが、彼女の場合、「小劇場」にこだわり続けていた。
 (注)何度かはTVドラマやCM出演もあったが、軽くこなす程度でそれを仕事にしようとは思っていなかったのである。明らかに舞台の方が生きる場所だと確信している。「小劇場」の流れからすると、一見、逆流しているようにも思われるが、数少ない「芯」を持った女優だ。

 私のように自己顕示欲はない。が、最終決定権は彼女が握ってきた。その裏づけとなるのは、劇団運営の経済問題にある。
 劇団を長く続けられる力は、運営費を捻出することと劇団独自の思想である。
 彼女は公演の度に制作費を私財で充ててきたのである。勿論、劇団員の団費や協力者の援助金、入場料などが支えになっているが、ここでの「私財を!」の意味は自分の稼いだ資金の大半を演劇のためにつぎ込んできたのである。
 第二期(熊本での演劇活動)から、子どもを三人育てながら何度かあった劇団の運営危機を乗り切っていったのも、彼女の力があったからだと言える。

 第三期(2000年~)より、彼女のことを「座長」と呼ぶようになった。
 劇団員を見渡せば、自分たちの子ども世代と共に公演をしている。立場的にはお母さんになっていたのだ。・・・役者には年齢は関係ない。俳優は少女にも老婆にも化けることができるからである。しかし、新人が入団する度に力の差が歴然として見えてしまう。
 彼女の存在は劇団内部では「役者を育てる」立場になっていた。育てる、と言っても学校ではないから教育的なシステムはない。人間として、女優として「お手本」になっていたのである。
 百の議論よりも「お手本」には即効的な威力がある。「お手本」も進化し続ける。止まってはいないのだ。
 
 劇団は昔風に言えば、一座のようなもの。つまり、家族のような団体になってしまう。同世代で固まらず、新陳代謝を繰り返してきた劇団夢桟敷は振り返ると「家族」のような関係を作り上げてきたものだと思う。
 その中心が座長=夢現(ゆめうつつ)である。

 (つづく)

小劇場史(42)-1

2008年03月18日 | 小劇場30年
 これまでの「小劇場史」では劇団の公演活動を中心に[第一期1979]~[第四期2007.11]まで綴ってきた。この「30年史」公演活動の記述は2008年の「疫病流行記」と「梅川事件~夢の下張り」を残すことになった。これは、今年の8月と12月を予定しており記事は後日になる。
 
 (注)12月公演についての記事は小冊子「30年史~タイトル未定」出版が10月~12月の予定であり、内容としては公演記録にはならない。「梅川事件~夢の下張り」は1979年「四畳半夢の下張り~梅川の死のような微笑み~」という演題で旗揚げした劇団ブラックホール(夢桟敷[第1期])の復刻改訂版になる。30年かけて原点を復活させる試みでもある。ところが、原点完全復活には無理があるだろう。それは30年という時間経過と共に「あの事件」は更に、私の内部で熟成醗酵してしまっているからである。従って、公演に向けての取り組みと30年の変化にスポットが当たる。これを「小劇場史30年」のエピローグ[最終章]にすることがふさわしいと思った。
 
 しばらくは、記述されなかった(書き足らない!)「人物烈伝」・「イベント企画実施」などを思いつくままエッセイ風に書きとどめようと思う。あくまでも下書きである。
 この劇団に関わった人々のこと、今でも関わっている人、現在進行中で劇団の看板を背負っている者。有名無名に関わらず、全ての人々が劇団に何らかの影響を与えてくれたのである。だが、人物については全ての人々を書き込むのは不可能に近い。この30年で劇団員やスタッフとして関わった者だけで150人程度はいる。又、劇団とは無関係だが、劇団が刺激を受けた人物、公私共にお世話になった方をどうしても書きたい人もいる。「人物烈伝」については全てをフォローすることができないことを前提にすすめる。「烈」を思いつくままに!

 人物烈伝(1)
 
 ☆夢現(ゆめうつつ)


 連れ添って長い。1978年から、丸ごと劇団の歴史である。
 夢と現(うつつ)を行ったり来たり、・・・まさに名前の如く、非日常の舞台と生活の顔を使い分けて生きてきた女優である。
 劇団の創立メンバー。「四畳半夢の下張り」(1979年11月~)、「三菱銀行強盗殺人事件」の犯人・梅川の母あるいは女(お袖)の役でデビューした。その時、私(梅川あるいは男)は彼女のスカートの奥より登場する。股間から現れた。ふたり芝居だった。
 劇団の旗揚げは夢現の股間から出発した。劇団にとっては産みの母とも言える。
 第一期・東京時代の彼女は早稲田大学(第二文学部)の学生であった。学業とアルバイト、劇団の三足の草鞋(わらじ)を履いていた。彼女の住まいが劇団の事務所になる。私はそこへ転がり込んでいたようなものだ。新宿区早稲田鶴巻町→馬場下町のアパート(六畳一間)である。
 当時の劇団員からは彼女のことを南こうせつの「赤ちょうちん」とも呼ばれていた。♪~「あなたは も~お 忘れたかしら 赤い手ぬぐい マフラーにして・・・」。日常では赤い手ぬぐいが似合っていた。
 舞台に上がると「黒い魔術師・アブドラ・ザ・ブッチャー」とも呼ばれていた。テレビでのプロレス観戦がそのまま演劇論になっていた。演劇の養成期間などの経歴もなく、いきなり女優デビューしたものだから身体ごと演じるしかなかったのである。
 下手(へた)は前提、「下手は裸になれ!」と言うと、本当に裸になれたのである。・・・今、思うと劇団員たちは皆、下向きに走っていた。その先頭が夢現だった。

 (つづく) 

小劇場史(41)

2008年03月16日 | 小劇場30年
 第四期 2007-④

 第48回公演 「鳥伝説」公演■2007年11月23日

 熊本公演/同仁堂スタジオライフ(熊本演劇フェスティバル参加)
 
 作/演出◎山南純平(参考文献・「火の鳥~宇宙篇」手塚治虫より)
 出演◎夢現/坂本咲希/田中幸太/香西佳耶/工藤慎平/YUKA(新人)/村上精一/卓草四郎/山南純平
 照明◎村上精一/音響◎坂本冬馬/映像制作◎白髪仙人(山南)/映像操作◎西岡卓/舞台美術(西岡卓・村上精一)
 宣伝美術◎宮原由香利/衣裳◎向キミ子
 制作◎さかもとまり・坂本咲希/公演協力◎熊本大学演劇部/他 
 
 2007年に入って4人の新人が加入した。
 1月に工藤慎平。彼は札幌から熊本に来た。演劇の専門学校を卒業しての入団である。ジャニーズ系にしたいが、本人はどうなんだろうか。・・・同じ時期に「少女仮面」をみて入団をしたのは、舞さん。彼女は体の不調のため春には退団することになったが、年齢は40歳でいい味を出していた。退団後も付き合いは続いている。みんなのお姐さんである。
 9月よりYUKA☆ちゃんが入団する。彼女は福岡県大牟田市からの通いになる。8月の「アリスの証言」を見ての入団であり、劇団夢桟敷の演劇傾向を理解しているため、何の抵抗もないようだ。アイドルである。
 新人が加わると、基礎トレーニングの点検開発が問われる。実践のための合理性があるかどうかが、新人を見ているとわかる。 
 10月には衣裳部に向キミ子さんが入団。夢桟敷始まって以来の衣裳部になる。彼女がいなければ「鳥伝説」の鳥の衣裳がうまく表現できていなかっただろう。即戦力となる。 
 
 ■「鳥伝説」では映像と舞台との同時進行の場面を設定する。宇宙空間を背景にするために映像を用いた。
 上の写真は阿蘇中岳火口そばにある砂千里ヶ浜で撮影したもの。ダンス映像をナマのダンスと舞台上でドッキングさせる。砂千里は宇宙を思わせる。中岳の火口を覗き込むと宇宙の神秘を想像させるように、阿蘇は宇宙との距離感が麻痺する。

 「火の鳥」を題材にした演劇公演は二回目である。「永遠の命」と「輪廻転生」がテーマとなる。
 生命は何処からやって来て、何処へ行こうとしているのだろうか。過去と未来の永遠のテーマですらある。
 「どうでも良いことではないか。」と思われる日常社会で、その「どうでも良いこと。」を劇作りのために労力と時間を費やすことが面白いと思っている。ある意味、演劇人はとても贅沢な<時>を過ごしているのだ。空論や妄想を形にしていく。生活レベルでは何の徳(利益)も無さそうにみえる。ところが、これは贅沢なひと時である。この贅沢を味わってもらいたい。
 今回は2ステージ、一日のみの公演となった。ぱっと咲いて、ぱっと散るのである。そのための稽古に約3ヶ月かける。経済的には効率が悪い。入場料は一人10000円以上取らなければ、役者は食べていけない。それでも、小劇場が成立してきたのは何故だろう。・・・やる側の不屈な熱意と観客の支えや応援があるからだ。それが痛切にわかる。
 食べていけないのに、演劇で生きている者たちが日本、世界では星の数ほどいる。夢桟敷も星の数の中のひとつだと思っている。強(したた)かさがなければ、演劇はやれない。遠くを見る眼差しが、強かさを作る。
 
 「鳥伝説」は遠い世界を見る眼差しを提示していた。それを「火の鳥」から受け継いだ劇だった。だが、漫画の「火の鳥」とは別モノになる。何故ならば、意図的に別モノを作り上げたからだ。漫画で読めば済むことを、わざわざ劇にしようとは思わないのである。
 劇作家からよく言われることではあるが、「台本どおりの劇にして欲しい。」という要望がある。「台本どおり!」とは何であろうか。台本は読み物である。戯曲ともいう。読んで完結するものであれば、わざわざ役者の労力やスタッフの力は必要としない。わざわざ、劇にする必要はないのである。本として出版して読ませれば良い。それでオシマイ。
 戯曲をたたき台にして、役者の肉体、道具、音、明かり、衣裳、匂い、全てのことが重なり合って「もうひとつの形」が出来上がっていくものだ。劇は読み物ではないのだ。視覚聴覚、人間の五感に働きかける。
 「台本どおりではない。」ことが「台本どおりになる。」・・・優れた劇作家はここまで計算してしまうから恐ろしい。優れた演出家は台本の隙間を読み取る。優れた俳優は台詞以上のことを表現しようとする。それが、肉声となるのだ。こうなると「ことばが伝わる」ことよりも「感じる」ことの重要さがわかる。作家の思いが伝わってもなんともない。演劇は集団の力なのだ、と同時に劇作家・演出家・俳優にはカリスマ性が問われる。言いすぎだろうか。

 ラスト付近の音楽を巡って、最後まで揉めた劇となった。咲希の独白BGMの場面である。本番前夜は大喧嘩である。冬馬(音楽担当)は真夜中に音を探しに出る。彼は学校の卒業を控え、彼のセンスで音作りに集中できなかった責任を感じていたのだろう。本気で喧嘩をした。実は演出責任でもある。私が面白いと思っていたことが内部では通用していなかったのである。穏便にすませれば終わっていただろうことが、喧嘩をすることでお互いの「本気」がわかった。

 この劇では名古屋、大阪からのご来場があった。名古屋からは「てんぷくプロ」の滝野トモ君。大阪からは尼崎ロマンポルノの村里さん。
 夢桟敷の前身、劇団ブラックホールの創立メンバーだった海幸大介君が酒を持って見に来てくれた。
 常連さん、初めて見に来られた方、こういう方々に支えられているのである。「ありがとうございました。」のお礼が心の底から言えるようになってきた。
 満員御礼である。

小劇場史 (40)

2008年03月11日 | 小劇場30年
 第四期 2007-③
 第47回公演 「アリスの証言」公演 2007年8月

●福岡公演 8月08日(水)pm7:00開演/ぽんプラザホール
●熊本公演 8月11日(土)pm7:00開演 12日(日)pm2:00開演/熊本市女性センター(多目的ホール)
●大阪公演 8月18日(土)pm7:00開演 19日(日)pm2:00開演/-IST[イスト]零番舘
●名古屋公演 8月21日(火)pm7:00開演/七ツ寺共同スタジオ
 作/演出◎山南純平
 出演◎夢現/坂本咲希/田中幸太/香西佳耶/工藤慎平/村上精一/坂本冬馬/卓草四郎/山南純平
 田中瞳(劇団きらら)/竹下晴仁(熊本企画)/吉岡志穂(熊本大学演劇部)
 <大阪公演~尼崎ロマンポルノ>村里春奈/千葉哲茂/森田真和/松田卓三
 <名古屋公演~てんぷくプロ>矢野健太郎/小熊ヒデジ/うえだしおみ/ジル豆田/西邑千畝/滝野トモ
 音楽◎坂本冬馬/照明◎村上精一・山南純平/舞台監督◎西岡卓/宣伝美術◎坂本咲希/制作◎さかもとまり・坂本咲希
 公演協力◎てんぷくプロ・尼崎ロマンポルノ・ステージラボ(坂本)・熊本大学演劇部



 「アリスの証言」 / 2007年08月08日~23日・旅公演日記より。

■8月8日 福岡公演 ノリ打ち
 劇団夢桟敷 第47回公演「アリスの証言」旅公演がはじまった。車は三台。総勢15名で福岡へ。朝7時半に清水の事務所集合。内一台はラボの坂本さんが熊大生(スタッフさんなど)を乗せて別行動で福岡着。レンタカーで借りた車は道具を積み込み、劇団の車は劇団員たちが乗り込む。福岡の会場(ぽんプラザホール)にはam10:00到着。この会場は二年前からの春・夏公演で使わせて頂き、随分慣れてきた。アウェーである意識は薄れる。むしろホームグランドのような気になった。搬入ー照明セットー舞台セットまで、5時間でほぼ終了する。・・・リハーサル(照明・音響を含む本番テスト)も3時間はとれた。 ※ここで言う、ノリ打ちとはその日の内に行って公演すること。福岡ではこれができる。勿論、前日乗り込みが理想ではあるが、熊本ー福岡の距離では可能である。一日公演では、今後、このノリ打ちでいこう!
 さて公演の様子である。今回のステージではスモークを出しているが、照明の坂本さん(ステージラボ・市民舞台)が心配してくれる。本番中は坂本さんが効果をあげてくれていた。熊大のせっちゃん、桑原君が受付の面倒みてくれる。作業も手馴れたもんだ。折り込みも昨年までに比べれば増えた。予約が少なかったが、当日で来られたお客さんで客席は形になる。ホールは4F。楽屋が3F。タバコを吸えるのは楽屋の片隅である。本番までに2本しか吸えなかった。ニコチン依存症のオレとしては信じられない本数だった。・・・終演後、あるプロダクション関係者から「わけが分からん芝居だったが、じーんときた。」と言われた。そういわれて「じーん。」となる。どうやら、思い描いていたアングラ劇とは違って見えたようだ。一言で“アングラ”と言っても死語に近い。・・・演劇の革命児がこの時代には生まれ難い。昔(1960年代には標的が新劇に向かって存在することができたが・・・)は演劇のセクトがはっきり分かれていた。今は曖昧になってきた。というより、個人レベルで細分化してきた。個人レベルが社会性を失わせているようにも思える。狭い人間関係でセクトではなくグループ形成されており、それが日本中に無数に広がっている。世代の閉鎖も感じる。熊本も福岡もあまり差を感じていないのは私だけではないだろう。※セクト性とグループの違いは「烏合の衆」かどうか。最近、この「烏合」に興味がある。どうも否定できない。「烏合」にとんでもない奴が潜んでいるようにも思える。
 90分で劇は収まった。予定通りになる。ばらし、搬出も制限時間内で終える。
福岡公演を見られた皆様、どうもありがとうございました。わたしたちは、熊本の看板を背負った劇団ではありませんが、つい、「熊本から来ました。」と言ってしまいます。熊本着は午前0時を回った。予定よりは早くなった。・・・次は8月11日(土)12日の熊本公演に集中する。熊本から熊本に旅をします。
■8月9日 旅の途中 福岡から熊本旅の途中 福岡から熊本
 夜中の零時過ぎに熊本着。帰り着いて桑原君が撮ってくれたビデオを見る。このビデオは大阪ー名古屋のゲスト出演様に送るつもり。台本よりは良い方法である。
 途中、座長は久留米で下車する。理由は座長の姉が危篤状態になっており、病院へ駆け込むため。今日の朝方に熊本着。ほとんど睡眠不足のまま午後より出かける。姉の血圧が安定したらしい。・・・できれば名古屋公演が終わるまで生きていて欲しい。昨年の旅公演の時も卓さんの母上様、田中幸太、一宝良太の祖父様が公演後に亡くなられた。今年は座長に加えてクドシン(札幌からの新人)の祖父様も危ないらしい。・・・福岡公演は無事に終了する。舞台上に夢の世界が浮かび上がるか。俳優たちの日常が消えてくれるか。ここにこだわり、お客さんを劇場という非日常の世界へ案内すること。
 午後よりレンタカーを返したところで、どしゃぶりの雨になった。強烈なスコールである。昨夜は風呂にも入らずバタンキュー状態だったので、雨に濡れてイイ男となる。久留米より電話が入り、また姉が危ないということ。座長は夕方より久留米へバスで向かう。泊り込みである。
■8月11日 熊本公演(1)
 熊本では「火の国まつり」の真っ最中。熊本城(築城400年)。おてもやんサンバ、賑やかです。昨日の仕込みが予定より早くできていたので、今日の作業は楽チン。リハーサルもゆっくり流せた。福岡公演との違いは、出演者の顔が割れていること。だいたい、どういう人物が舞台に上がっているのか、その日常が見えている。やり辛さと馴れ合いが同居してしまう。やはり、熊本はホームなのである。あの顔、この顔、みんな見覚えのある顔ばかり。夢桟敷の劇を初めて見られるお客さんもけっこう居るんだな。熊本で23年、花火を打ちっぱなしだ。
 今日は古いお客さんとも遭遇しました。忘れられていなかったことに感激する。山ほどの話がしたかったのに、終演後の時間が足りない。懐かしい。
 終演後、座長のお姉様の通夜へ久留米へ走る。久留米到着が11:00。悲しい、淋しい。でも、化粧された顔を覗くときれいだった。オレと歳が一緒なんだ。早すぎる。・・・早すぎる。・・・「果てしない旅は何処までつづく。今から、生まれてくるもの。死んでしまったもの。・・・同じように、オレはみんなと会話ができるようになりたい。」
■8月12日 熊本公演(2)
 熊本公演2ステージ目にて打ち止め。旅公演前半終了する。暑い日が続く。熊本市内では「火の国まつり」の真っ最中ですが、こちらの公演に足を運んでくださるお客さんに感謝申し上げます。・・・完全に睡眠不足である。座長、咲希、冬馬と私が久留米市の通夜から熊本に戻ったのがam2:00。それから、二時間は思いに耽って眠れなかった。昨日の打ち合わせで劇場入りを一時間遅らせたのは正解。m10:00入り。早くも、熊本公演はラストの日。
 またまた懐かしいお客さんに会えた。元劇団員たちも見に来てくれた。熊本公演では受付から会場案内まで熊本大学演劇部の皆さんや、バラシ、搬出はお客さんまで手伝ってくれてうれしい限りである。福岡県大牟田市からの入団希望者のファミリー4名様も見に来ている。一瞬、あの場面この場面の変更をファミリー向けに修正しようかと過ぎったが、そんな上手なことはできない。ありのままが良い。これが夢桟敷の演劇である。昨日と今日ではお客さんの反応も違っていた。笑える部分で今日は身を引いていたというか堪えていた。反面、ちょっとエロチックな場面では昨日より身を乗り出して見てくれていた。客席の反応も日によって違うものだ。福岡公演から3ステージ目である。俳優たちは既に慣れてきた。客演3名たちとの息もぴったり合ってきた。もう既に内部ー外部の関係が薄れている。
 夜、会場近くの「博多一番どり」にて前半打ち上げをする。20名の参加。幹事役は坂本咲希。昨夜まで「飲み放題フルコース」にするか悩んでいたようだが結局「フリー注文制」になった。お茶漬けやカクテルに人気が集中する。サラダ、チーズポテトなど日ごろ食べないものを口にする。16日からの大阪ー名古屋では連日、このような飲み方がつづくだろう。気持ちは若いつもりだが体力が弱っている。特に酔うと言語がいかれる。言葉が「ふぁふぃふふぇふぉ」になると、みんなが離れていく。まったくしまらない。若者たちは打ち上げ終了後に花火大会をしたようだ。オレはダメになる一歩手前で引き上げる。まだ終わっていない。大阪ー名古屋バージョンを考えよう。
 8月8日(福岡ー熊本公演)から始まった「アリスの証言」は、旧盆のお休みを挟みいよいよ大阪ー名古屋へと向かう。連日、36度Cを越える猛暑の中、珍道中が始まる。すべてを書き残すことはできないが、記憶を辿って8月16日~23日までの「演劇航海日誌」を綴ります。
■8月16日(木) 移動日(瀬戸内海を船で大阪へ!)
 定刻の午後1時に清水の事務所を出発。キャラバンとエスティマのワンボックスカー2台に12名とパネルや衣装などを積み込み、まさにぎゅうぎゅう詰め状態である。肌触れ合う仲、この12名は肉体関係になってしまった。一路、熊本から九州山地(阿蘇ー九重)を超えて大分へ走る。車内は修学旅行気分だ。歌が口ずさむ。合唱になる。旅だ。大分市内に着いて、ちょっと道に迷ったが無事に大分港に着く。お盆の帰省客でサンフラワー号は満席。車のナンバーは大阪や三重、名古屋が目立つ。船はいい。風呂で汗を流し、すっきりしたところで宴会ができる。缶ビール、焼酎などで乾杯する。酔い覚ましに甲板に出ると夜空には満天の星。海(瀬戸内海)を渡って大阪に走っている。このコースは一昨年より三回目である。海風を受けながら面白い人生を歩いていることを実感する。
■8月17日(金) イスト零番館 仕込みの日
 朝8時半に大阪南港着。朝食は港近くのデニーズで。トーストとコーヒーを飲みながら「大阪ではお好み焼きとたこ焼きとうどんを食べよう!」などと食べ物のことで話が弾んでいる。食べ物は人を明るくする。村上と卓さんは大阪の地図で会場である零番館を確認している。・・・私の運転する車は会場の近くで一方通行の迷路にはまり込み、予定より1時間遅れて到着する。・・・卓さん、みんみん、吉岡君の三名は近くの劇場で少年王者舘が公演しており、陣中見舞い、宣伝を兼ねてご挨拶に行く。昨年もそうであったが、少年王者舘とは大阪でガチンコになってしまう。・・・夕方までにはほぼ照明の吊りとセットができあがる。村上が大活躍である。その分、私が楽になった。ほとんど任せっぱなし。福岡ー熊本の仕事でみんな慣れてきたようだ。夜、尼崎ロマンポルノのゲスト(村里春奈、千葉哲茂、森田真和、松田卓三)さんたちとの稽古に入る。1年振りの再会。堀江さんも駆けつけてくれる。・・・稽古は出演者同士の打ち合わせで順調に進む。もはや劇自体が一人歩きをはじめており、この場に及んで演出が口を挟まなくても面白くなる。後は交通整理みたいなことを考えていればいいのだ。驚いたのは、はる君が格闘場面(みんみんVS千葉さん)で振り付けていること。そんな才能があったんだ。頼もしい。零番館のスタッフは神戸で公演中につき空っぽの状態。しかし、夕方にはひとり(流星群の中田さん)顔を出してくれる。稽古を覗きながら「こうゆー劇が好きなんですよ。」と言ってくれる。・・・稽古終了後、一杯飲みながら劇場にて宿泊。公共ホールでは考えられないことが起こっている。旅をする劇団にとって劇場での宿泊はありがたい。感謝。
■8月18日(土) 大阪公演(1)
 目が覚めると、「ここ何処?」の状態になっていた。軽く飲んだつもりが酒臭い。頭がふらつく。大阪に来ていることを忘れていたのだ。否、寝ぼけていた。・・・座長とふたりで朝のコーヒーを飲みに近くの喫茶店に入る。今日も猛暑である。午前中は会場の整理と照明のメモリーを打ち込む。午後よりリハーサル。その時、ドドッと熊本より劇団第七インターチェンジのメンバーが訪問して来た。実は少年王者舘を見るためにツアーを組んでいたのである。
 午後7時。大阪公演第一ステージである。東京より田中のり子さん、ドッ君がご来場してくれる。遠いところ感謝感激である。熊本の演劇仲間であったが、彼等は今、東京で仕事をしていて、中々会うことはできない。小島さんは堀江さんと受付を手伝って頂き、観劇は開演後20分遅れてしまった。申し訳ない。
 終演後は大宴会となる。大阪の客演さんたちと初対面の熊本からの若いゲストたちとも打ち解けている。明日の第二ステージは息がぴったりになるだろう。もう他人ではない。またもや飲みすぎたようだ。ビールと焼酎の炭酸割りの味が分からなくなっている。ダメになる前に風呂に入りに繁華街へ出る。・・・劇場へ帰り着くと熊本組の乾さんがたこ焼きを差し入れに来てくれていた。またもや飲み直す。午前4時頃まで飲んでいたような・・・記憶が薄れていた。飲んで寝ると記憶がなくなるのである。プッチンと脳の神経が失われているのだろうか。昔のことはよく覚えているのだが。
■8月19日(日) 大阪公演(2)
 大阪三日目の朝を迎えた。今日で大阪は最後の日。猛暑。脳が溶けているような感じで目が覚める。起き上がると内臓のどこかわからないが痛い。チクチクする。きっと宇宙からの怪獣が体内に入り込んだのだ。その生き物に肉を食いちぎられているのだろう。しかし、大きなウンコをしたら痛みは治まった。痛みがとれると健康のありがたみまで忘れた。
 午後2時開演。今日はクドシン(新人)の家族が札幌よりご来場。卓さんの古い友人も来てくれた。元劇団員(大阪在住)も見に来てくれている。クドシンのテンションが心配だった。私も初めて母親から劇を見られた時は尋常ではなかった。息子は気が狂った、と言われるのではないか。夢桟敷の劇はきれいごとでは終われないところがある。いつも、教育的指導を受けなければならないことを意図して作ってしまう。それが劇だと思っているからである。「美」や「感動」は多面的なものだと思っている。一筋縄ではない。
 今回の構成は田中幸太(Q作)-坂本咲希(アリス)-夢現(キムさん)の部分だけをつなぎ合わせると物語らしいものが浮かび上がるように仕掛けた。しかし、場面は病院であり、イシャや看護婦、患者たちの存在が奇妙奇天烈に物語を混沌化するものに位置づけている。要するに必要な遊びである。単純明快を裏返せば複雑怪奇でスッキリ自由に解釈できる“遊び”が劇にはあった方が面白いと思っている。お客さんは騙されることを楽しみに来ている者もいる。その一人が私である。そういうお客さんを増やしたい。もっともっと出会いたい。そういう劇が少ないから自分でやっているのである。・・・卓さんが乗りに乗ってきた。若い女性に囲まれて男の色気を醸し出している。冬馬の音楽も評判が良い。座長のモノローグは泣ける。意味がわからなくても泣けるのは何故か。こんな劇は夢桟敷しかヤレナイノデアル。そう思い込んでやっている。正面切って批判して来る者がいない。それだけが淋しい。・・・あっ、という間に大阪公演は終わった。クドシンのお母さんに感想を聞くと「覚悟はしていました。」と言われる。女三人から見ぐるみはがされながら「在日朝鮮人」を語る場面はクドシンしかやれない。誰でも出来る芝居ではない。彼は身体は小さいが大型なのである。・・・一時間半でバラシと搬出を完了する。午後6時過ぎに名古屋へと向かう。客演の尼崎ロマンポルノの皆さん、ご来場頂いたお客様、本当にありがとうございました。
 夜の10時過ぎに名古屋、てんぷくプロ稽古場着。てんぷくの皆様が待ってくれていた。1年振りの再会。即刻、宴会となる。卓さんの古巣、年齢も夢桟敷より高い人たちばかり。暖かく迎えられて感謝です。今回は6名の客演さんと合流する。ムスメたちの胸の高鳴りが聞こえてきた。
■8月20日(月) 名古屋 てんぷくプロさんたちとの再会!
 午前中は自由行動となる。卓さんと若い衆は名古屋見物へ。本当に卓さんは面倒見が良い。すっかり若い衆は頼っている。・・・私は稽古場前の昭和薬局(てんぷくの矢野さんの職場)で身体の不調を訴え見てもらうことになる。どうやら身体が歪んでいるらしい。血液の流れが悪いらしい。心が歪んではいると思っていたが身体までも・・・。どうりで真っ直ぐ歩けないと思った。世界まで歪んで見える。漢方薬を二日分もらった。これで二日は真っ直ぐ生きていけるだろう。薬を飲んでびっくりした。小便が勢い良く出る。性的に気持ちが良い。効果てき面である。身体が軽くなった。脳の回転も良くなってきた。恐るべし漢方!
 午後より名古屋公演の会場である七ツ寺共同スタジオ入り。照明の吊りと客席を作る。てんぷくのメンバーも手伝ってくれる。否、主力がてんぷくなのである。なんて手際の良いことか。夜は名古屋の客演(矢野健太郎、小熊ヒデジ、うえだしおみ、ジル豆田、西邑千畝、滝野トモ)さんたちと稽古場にてダンスやエロス、格闘場面の稽古をする。ここでは卓さんがツーツーカーカーと段取りをつける。飲み込みが早い。遊び方が慣れている。大阪とは違った場面になる。ムスメたちはてんぷくの矢野さんと小熊さんにメロメロしている。乙女の心を奪うのが役者。おいおい、しっかりしりよ!看護婦三人ムスメたちよ。私はジル豆田さんにメロメロしてきた。こんな女優は見たことがない。すっかり惚れてしまった。すごいなー、てんぷくプロ。稽古終了後、近くの居酒屋へ行く。私と座長は稽古場でお留守番。実は私、飲みすぎであります。休肝日に座長を付き合わせてしまった。 漢方薬を飲んで寝る。
■8月21日(火) 名古屋公演
 9時より小屋入り。午前中はセット組み立てと照明シュート。その間にも予約の問い合わせなどが入る。名古屋では、てんぷくプロが定着しており客演で登場することを楽しみにしている方が多い。・・・ちょっともったいない客演さんたちの扱いではないだろうか。午後よりリハーサルに入る。問題ない。泣いても笑っても名古屋が「アリスの証言」最終公演である。全部エネルギーを出し切ろう!と呼びかける。言われなくてもわかっている、という態度でリハーサルを終える。
 見覚えのあるサングラスの人が卓さんを訪ねてきた。北村想さんである。村上が震えていた。彼の台本を使って熊大で公演したことがある。ある意味、雲の上の方だ。小島さんが新幹線で大阪から再び見に来てくれた。大感謝である。前回の公演を見に来てくれた見覚えのあるお客さんも入っている。 猛暑。お客さんにも熱気を感じる。満員御礼。
 とにかく、受けが良かった。てんぷくプロの方々が登場するや否や爆笑である。あのぅ、夢桟敷はお笑い劇団ではないのですけど・・・。お客さんが元気。とにかく楽しんでくれる。楽しみに来ているのである。 劇団員たちもノビノビしている。旅は役者を育ててくれる。ひとまわり大きくなっていくのがわかる。
 終演後、一気に打ち上げをすればお客さんたちも残って頂けただろうが、バラシと搬出後の打ち上げとなる。てんぷくプロの関係者と夢桟敷で午後10時より打ち上げる。身体の不調を忘れて飲む。小島さんとも新幹線最終までギリギリ話すことができた。矢野さんから前回の「ねじ式」より面白かった、と言われて胸を撫で下ろす。小熊さんは相変わらず看護婦三人娘から囲まれて酒を飲まずにはおられない、といった様子。話がかみ合わず困っていたようにも見えた。たつみさんも足を引きずりながら、劇場の照明の面倒を見てくださり感謝です。
 朝4時まで宴は続いた。平日公演にも関わらず名古屋の皆様、演劇界の片隅にお付き合い頂きありがとうございました。できれば心の片隅に夢桟敷を納めて頂ければ幸いです。
 「アリスの証言」名古屋にて打ち止め。いよ~、ぽん。一本締めにて楽日であります。
■8月22日(水)
 七ツ寺共同スタジオを午前10時に出発。大阪へ向かう。高速道路で渋滞に巻き込まれながら大阪南港着。船中にて再び三度の打ち上げ。あくる朝、別府港着。
■8月23日(木)
 無事、熊本に帰り着きました。「アリスの証言」にご来場頂いたすべての皆様、お手伝いご協力頂いた皆様、熊本からの客演(はる、みんみん、吉岡)さんたち、尼崎ロマンポルノの皆様、てんぷくプロの皆様、心よりお礼申し上げます。

小劇場史(39)

2008年03月05日 | 小劇場30年
 第四期 2007-②

 ■過渡期としての第四期活動へ
  
 演劇は心底、無限大だと思う。一回作り上げてしまうと、ナマであるが故に上演後は眼前から消滅してしまう。後は記憶の中で再構築されるか解体される。簡単なことを言うと「ものの哀れ!」である。美術で言うならば砂の上に絵を描くようなもの。潔くなければやってられない。必要なことは入場料をもらって消えていくものを表現する力。これは簡単なことではない。義理と人情だけでは通用しない。
 タンタンと積み上げている作業では終わらない。時々、崩れてしまうことがある。崩れた形を固め、それを土台にしながら再び積み上げていく。それの繰り返しで無限大である。死んでも賽の河原で石を積み上げるのであろう。無限地獄。確かに好きでなければ辛い作業になる。好きなことと辛いことがせめぎあってくる。好きだけでもやってられないのである。
 
 第三期の「少女仮面」公演(2006.12)を以って崩れるものなら崩してしまわなければ!と思った。まだまだ、変化ー進化したい。演劇を生きていく道具にすることはできないか。若い劇団員たちは二十歳を超えてきたのである。チャラチャラしている場合ではない。「生きていく道具」としての意識は長くやっていれば否でも生まれてくるが、それを共通認識として劇団で固めようと思った。第三期までは、そういう認識がバラバラであったと思う。個人差があった。
 
 夢桟敷の場合、ある時期に来るとメンバーが入れ替わってきた。学生であるならば卒業、進学、就職という分岐点である。熊本から離れてしまう。社会人ならば結婚、出産などによる家庭環境の変化。あとは不安と不満など。
 分岐点(一期~三期)は世代交代、つまり退団と新メンバー入団の大幅な入れ替えがある場合に立ち会うことになった。ニューフェイス(若い世代)が揃うと劇団としての色が変化していく。個性である。劇団は集団で表現されるから色が混じり合ってくる。濃い色も薄い色もある。色の量にも関係してくる。
 それに時代という色が包み込んでくる。演劇を時代として意識するようになっていた。歴史の中で生きているのである。または地域に対しても無縁ではない。流されるか、闘うか。翻弄されることを覚悟していなければ不安と不満だけが残ってしまう。遣り甲斐は演劇を「生きていく道具」として位置づけることだ。
 時代はいつでも動いている。その都度、心が揺れているから面白い。飽きないものだ。

 新しい海には新しい船が必要である。
 分岐点によって劇の作り方に変更と発見が湧いてくる。若い世代は流行に敏感である。プラスとマイナスの両面を運んでくる。古い頑固さと流行との対立する場面がしばしば劇団内部で生じる。対立が新しい方向を生み出す。対立しながら和解することができる。議論ではなく感性の衝突が新しいものを生み出す。
 これまでは感性の衝突を繰り返してきた。その後、理論として組み立てることをやっていたが、感性が先行してきたのである。
 
 ◇第一期(1979-1984)は犯罪をテーマにした。犯罪劇である。「貧困から犯罪が生まれる」これまでの概念を疑うようになった。劇場型犯罪の特徴。「梅川事件」がそうであった。この題材を旗揚げ公演にした。貧困は精神の変化に見られた。個人喪失。その反動として犯罪が発生することがある。犯罪が自己主張していたのである。
 ◇第二期(1984-2000)は犯罪劇とイメージパフォーマンスの混入が強く打ち出されて行った。つまり、説明を削ぎ落としていく作業が深まる。理性よりも感情の表現に傾いて行った。その道具として仮面を使うようになった。感情を体全部で表すことの奥深さを知る。仮面パフォーマンスは劇の事件性・物語性から別のドラマを想像させる実験的な試みとなった。
 ◇第三期(2000-2006)は戦争というコンセプト劇とイメージ劇の二刀流になる。少年少女たちの入団により、リアリズム批判の姿勢が強まる。それは「私の気持ち」や「日常」を伝える劇では追いつかない劇本来の可能性を求めたからである。小劇場は「伝えること」「コミュニケーションの道具」として矮小化されてきていることを感じていた。裏返せばコミュニケーションが困難な時代だと察知することができる。コンセプトとイメージの融合とは。

 劇だからやれることとは何だろうか。劇でしかやれないことを探そう。
 終着駅のない旅が演劇そのものだと確信しているから、平気で積み木崩しができる。崩れた形を眺めながら新しい積み木を並べる。・・・間違いなく、これまでは漂流していたのである。漂流することが演劇の目的ではなく、漂流の意味が見えてきた。生きるためだ。
 
 第三期から第四期への乗り換えは、これまでのような世代交代ではない。同一メンバーによる意識された変革を求めた。・・・それぞれが自立する演劇を目指そう。ラッパを吹こう。生きれ。主体性を持つとは・・・。
 
 <劇作(戯曲)・演出・舞台監督・美術・音楽・制作・照明・音響・メイク衣裳>などを俳優業の中から得意技として身につけること。全体を見回せることと部分を担う力である。俳優としては裏方の視点も必要なのだ。
 営業を経験することも必要であろう。自分の目線を確かめることだと思った。内部ばかりを見ていると外部が見えなくなる。だが、主体を持っていないと外部の出演の意味がなくなることもある。その意味とは、あくまでも主体確立にある。ギャラが発生するところへも売り込もう。

 過渡期とは、今いる場所・時間から次の場所・時間へ大きな変化をもたらす移行期間のこと。言い換えれば「革命期」とも言える。ここには自然の流れや客観的な立場で「どうにかなるさ。」では済まない。演劇に主体性はある。主体の確立を目指そう。

 ■過渡期:
 これは革命用語(歴史観)として用いられてきた。資本主義から共産主義へ移行する際の期間=階級闘争としての社会主義をK・マルクスは位置づけている。堕落した社会主義(革命)は国家が道具になり、政治と軍隊が権力を握る。基本的な共産主義思想は「国家・家族・私有財産」から解放された社会である。ここには理想的な善意の個人確立が前提となっている。エンゲルスは階級闘争のために共産主義を「空想から科学へ」を唱えた。
 演劇は逆流する。「科学から空想へ」。幻想や妄想も含めて人間の想像力へ問いかける。新劇運動は概ね「社会主義リアリズム」と「文芸芸術」、「映画・テレビや商業演劇」の流れに分かれて行った。寺山・唐などの俗称「アングラ劇(1960年代~)の登場は、新劇運動に対する異物として現れる。ここには政治の道具や文芸、商業などとは異質なものとして演劇の「革命」として現象する。・・・敢えて記すが、今や「新劇」「アングラ」は歴史的な概念(演劇論)である。
 今の夢桟敷を「アングラ」と言ったり思われている人たちは詭弁に巻き込まれたにすぎない。詭弁を楽しんで欲しい。確かに、潮流は「アングラ劇」にあったのだから。
 科学的社会主義よりも面白い世界があった。これは演劇永久革命の潮流だと発見する。空想的社会主義は文化芸術の特権ですらある。
 過渡期には移行する着地点がある。長いだろう。歴史を遡ること宇宙の誕生から未来永劫のビッグバンまで、その瞬間の日常の中に空想の花<非日常>を咲かせること。途方も無いことだ。
 第四期は解放された個人(実は並の意味ではない。)を目指す。才能は努力しかない。自分だけでも花は開かない。

 注:30周年での発表文章としては大幅に修正されるだろうと思いつつ、垂れ流した記事です。第50回公演「梅川事件~夢の下張り」(2008年12月)の際に出版予定です。この公演は30年前の劇団ブラックホール旗揚げの台本を改定して上演予定です。

小劇場史(38)

2008年03月04日 | 小劇場30年
 第四期 2007-①

 昨年(2007)12月より劇団夢桟敷の30年を振り返って「小劇場30年史」掲載中です。読み返して、一番楽しんでいるのは書いている本人だろう。いわゆる自己満足というものか。基本的に都合の悪いことは無意識のうちに書かないようになっている。書いたとしても装飾があったり自己弁護があったりする。
 第一期・第二期(1979年~2000年)の頃は時間も経過していて、自分では客観的に振り返れるのだが、現在に近づくにつれ主観が入り込んでくる。生々しくなる。・・・不思議なことに整理が遺言めいてくる。自分の死期を予感するのである。
 ナイフやピストルで殺されることは舞台でやってきたので、そういう死に方はないだろうと高を括っているが、怖いのは病死である。死ぬのに金がかかり過ぎる。癌だと痛いだろうなぁと不安はあるが、酒も煙草も辞めるつもりはない。自殺?今のところハイテンションだから、その心配はない。事件事故?ここまで考えると訳が分からなくなってくる。だから演劇で劇的なことを探す。
 ということで、「史」は「死」と隣り合わせで意識されていることを白状する。

 これより、劇団夢桟敷の第四期活動掲載になった。昨年(2007)より今年の2年間のことを書いて「30年」は終わる。
 残された記事は・・・
 (1)2007年8月「アリスの証言」
 (2)2007年12月「鳥伝説」
 (3)2008年4月~5月「ブラジル移民劇」と「演劇大学」
 (4)2008年8月「疫病流行記」
 (5)2008年12月「梅川事件~夢の下張り」への取り組み。
 
 これまでの記事を読み返して、ここに登場すべき劇団に関わってきた人間が書き込まれていないことに不満があった。弊害が無い限り書こうとは思う。しかし、コレまでに関わった全員のことは書けない。百名は超えており、顔は覚えているが名前を忘れていたりする人もいる。共に汗を流した者を忘れるとは失礼千万。それを前提に高飛車なことを書こうかと考えている。・・・又、過去のイベント出演などで抜け落ちていることもあり、そのエピソードなども若干付け加えたい。
 これは「第四期」の(2)から(3)の合間部分としてまとめようと思う。
 (※1)人物列伝
 (※2)小劇場エピソード集

小劇場史(37)

2008年02月26日 | 小劇場30年
 第三期 2000-2006⑪


第46回公演「少女仮面」2006年12月23/24 吉野スタジオ

作◎唐十郎 演出◎山南純平・夢現 音楽◎坂本冬馬 舞台美術◎西岡卓・村上精一 宣伝美術◎宮原由香利
[出演]
夢現/坂本咲希/村上精一/坂本冬馬/田中幸太/香西佳耶/一宝良太/卓草四郎/山南純平
協力◎劇衆上海素麺工場(衣裳・演出アドバイス)/尼崎ロマンポルノ(ダンス曲「機械少女」より)

 場面は地下鉄工事で立ち退きを余儀なくされている地下「喫茶肉体」である。場面通り、この物語は「地下」=アンダーグランドで繰り広げられる、唐十郎の代表的な初期作品「少女仮面」。・・・劇団夢桟敷にとって、原点探しの公演となった。
 
■この作品は1969年『新劇』11月号に発表され、唐十郎が初めて状況劇場以外の劇団、つまり鈴木忠志が主宰する劇団早稲田小劇場のために書き下ろした一幕劇である。
 1970年1月、この作品によって第15回『新劇』岸田戯曲賞を受賞した。
受賞は、既成新劇に強い異議申し立てをしていた小劇場派が公認の市民権を得た「事件」として受け止められた。既成新劇人たちの危機感を煽るようになったため、当時は新劇人たちによる反発もある。これが俗称蔑視としての造語「アングラ」劇と呼ばれるようになった所以でもある。
 状況劇場の紅テントによる上演は1971年。・・・俗称「アングラ劇」はこの時期に演劇の革命的潮流を築き始めたのである。

■宝塚歌劇の大スター「春日野八千代」(今回は坂本咲希が演じる)を自称する女が経営する地下の喫茶店<肉体>で展開するこの劇は、俳優の肉体論、つまりは演技論の物語でもある。換言すれば、唐十郎のいう「特権的肉体論」から転落し、「自らの肉体にゆきはぐれた者」たちの物語である。
 腹話術師と人形が逆転したり、この劇では二つの同質のドラマが交互に進行する。また、「少女仮面」が「少女都市」「愛の乞食」「吸血姫」へと連なる「満州もの」の出発点に立ったものにもなった。
 さて、21世紀の今、「満州」とは何だろうか。それは幻想の世界である。劇だからこそ、幻想の中より構築と解体を繰り返す「満州」が現れ消えていく。満州はそういった意味で演劇の肉体として登場してきたのである。現代の演劇にとって今でもこの潮流は通用するのである。

 アングラ劇と言えばテント芝居を想像される方も多いと思うが、一方では「小劇場」の実験劇として1960年代から喫茶店やビルの空き室など劇場以外のフリースペースを劇場化する試みがされていた。つまり、劇場空間の実験がなされていた。
 野外劇あるいは市街劇の開放感と共に「小劇場」は密室という閉鎖された空間での<非日常>を模索していった劇場への問題提起も含まれていたと思う。
 日本の高度経済成長の時代1960年代から地方都市でも文化会館建設なる箱物行政ラッシュとなって行く。しかし、行政による計画は会館の使用料の高さや舞台を作る上での制約により若者文化の発信基地として利用されたとは言い難い実情があった。むしろ当時の若者たちは、自由空間を求めて「劇場論」としての「小劇場」を新たに模索し始めたのである。
 
 この公演では自由空間としての「劇場」を作るための意味を含めて吉野スタジオ(稽古場)を想定する。
 演出プランとしては、ステージと客席を分けずに喫茶店を全体として考えてみた。ところが、稽古を重ねる内にステージが形付けられていく。どうも、区分を無くしてしまうことには無理が生じる。歌ったり踊ったりするためにはスペースを確保しておかなければならない。只、喋るだけの劇ではないのだ。
 以前の「愛の乞食」(唐十郎)では鏡を使用してバックに大陸を作るという実験をおこなったが、同じ構造は使いたくなかった。結果、演出プランは振り出しに戻る。
 
 今回の配役については、自主的に劇団員に選ばせるという方法を用いてみた。これは初体験である。誰が、春日野に手を上げるか、ここに興味があった。ところが、みんなの姿勢としては脇役から埋まっていく。希望通りにハマッたのは少女=香西、水のみ男=一宝、ボーイ=村上くらいだろうか。どうも、この三役に人気が集中する。後は演出の立場で二案・三案の役を回ってもらった。
 私個人の構想では、春日野=夢現、少女=咲希、腹話術師=村上、人形=香西、大尉=幸太、老婆=西岡、ボーイ1=冬馬、ボーイ2=一宝、水飲み男=山南・・・しかし、全部はずれる。それで良かったのである。気持ち優先が勝る。
 適材適所は役者が作る。それが証明された。咲希(春日野)と香西(少女)のコンビネーションは大当たりとなる。ボーイ(1)(2)(3)は村上・卓さん・冬馬がオカマになることで店の空気が怪しくなった。老婆は田中幸太が演じる。つまり、男たちは殆どオカマである。座長=夢現が腹話術師(男)になる。いいんじゃないの、これが夢桟敷の唐版である。
 水飲み男の一宝が頑張った。夢桟敷名物の赤いふんどし男となって登場する。しかし、劇を見に来てくれた一宝の友人(女子)は怒って泣いていた。いるいる、必ずいるのだ。こころの何処かに挑発する気持ちで演劇をしているのである。
 「てやんでぇ!これは水飲み男の復讐劇だとも。」

 観劇していた人から入団希望者が現れる。これが理想である。「演劇が好き。」だけでは夢桟敷の場合、ダメなのである。「誰からも愛される劇はツマラナイ。」・・・つまり、毒がある方が美味しいのだ。演劇には毒がある。それが「少女仮面」にはある。実際、宝塚ファンに見てもらえば、この意味わかる。

 ☆

 第三期はここまで辿り着いたと思った。更にステップアップを図りたいとも思った。演劇で自立できる可能性はないだろうか。何度も挑戦はしているが、経済的な自立には厳しいところもある。ぼんやりとした構想を実現するための具体化が問われている。まだ、発表はできないが、この上演で一区切り打ち、自立への過渡期段階としての構想を次回からの活動として実行していこう。
 第四期(2007年~)は同じメンバーによる体制作りへとススム。

公演写真をご覧下さい。

小劇場史(36)

2008年02月25日 | 小劇場30年
 第三期 2000-2006⑩

 ■「ねじ式」三部作(2005.11-2006.8)に取り掛かった理由。

 つげ義春の漫画「ねじ式」をいつか演劇にしようと思っていた。何十年も蓄積された「もやもや」があった。ここで言う「もやもや」とは心地よいものだ。まるで玉手箱を開いた時に出てくる浦島太郎の煙の「もやもや」である。
 「ねじ式」は時間を超越する。初めて読んだ時、こういう世界を持っている人がいる!と少年の心は浮き足立っていた。びっくりした。こういう世界がある。夢だ。不思議な夢だ。

 解説■海岸で「ぼく」はメメクラゲに左腕を刺され、不案内の漁村でイシャを探しまわるという夢なのだが、誰もいっこうにイシャを教えてくれない。そこへ汽車がやってきて、これさいわいと飛び乗るのだが、汽車は元の村に戻るばかりで、時間がちっとも進まない。それでもイシャを探すうちに、金太郎アメをつくる婆さんに出会う。婆さんは「ぼく」のおっ母さんに似ていたが、金太郎アメの製法を説明するばかり。シリツをしてほしい「ぼく」はやっとイシャのありかを聞き出すと、そこは婦人科だった。その婦人科医とくんずほぐれつするうちに、「ぼく」は左腕にネジを装着されたようだった。シリツは成功したらしい。「そういうわけで、このネジを締めるとぼくの左腕はしびれるようになったのです」と、モーターボートの上で「ぼく」が説明して終わる。終わったのだろうか。その謎が深まる。

 つげ義春の漫画は、「はぐれた私」を「私」がたずねるというふうになっている。だが、単純に「自分探し」のシナリオではない。幻想の中で幻想をみる。つまり、夢の中の迷宮に入り込むことで「私」以外の他者へ夢のバトンを渡しているように思われる。・・・受け取った者は誰かにバトンを渡さずにはおれなくなる。
 
 「まず夢だ。」で始まった劇団夢桟敷の原点へ立ち戻っていく劇として「ねじ式」に取り掛かった。
 旅を計画した。 
 
 原作◎つげ義春/脚本演出◎山南純平/作曲◎坂本冬馬/宣伝美術◎坂本咲希/舞台監督◎西岡卓
 出演◎
 夢現/坂本咲希/村上精一/坂本冬馬/悠夢(1)/田中幸太/香西佳耶/松田彩佳/田中芽生(1)/一宝良太/山南純平/卓草四郎
 堀江勇気/森田真和/村里春奈・・・尼崎ロマンポルノより客演(1)
 矢野健太郎・・・てんぷくプロより客演(3)

 第43回公演「ねじ式」~「熊本関西演劇交流公演」企画・【熊本演劇フェスティバル参加】
 2005年11月22日(火)~11月26日(土) 熊本県立劇場(地下特設小劇場)
ねじ式(1)写真プログラム・メッセージなど
 
 第44回公演「ねじ式~夢のつづき」
 2006年3月30日(福岡)ぽんプラザホール/4月1-2日(熊本)吉野スタジオ
ねじ式~夢のつづき(2)写真 

 第45回公演「ねじ式~不思議の街 ちゃちゃちゃ」
 2006年
 8月2日(水)(名古屋)七ツ寺共同スタジオ
 8月3日(木)(大阪)未知座小劇場
 8月6日(日)(熊本)吉野スタジオ
 8月8日(火)(福岡)ぽんプラザホール
ねじ式~不思議の街 ちゃちゃちゃ(3)台本

 (1)では関西より尼崎ロマンポルノとの競演企画となる。彼らの宿泊所は稽古場である。近くに温泉もあり連日の飲み会が続いた。県立劇場の地下和室を小劇場の会場としてレイアウトした。
 (2)より劇衆上海素麺工場さんとの交流が始まる。福岡公演での宣伝や宿泊で大変お世話になる。この公演より、つげファンより問い合わせなどもあった。つげ漫画の根強さを感じる。
 (3)名古屋ー大阪への旅公演を実現する。名古屋より、てんぷくプロの矢野さんがゲスト出演してくれる。卓さんの古巣劇団、初対面なのにてんぷくプロの方々を親戚のように感じた。大阪ではお客さんの小島さんとの出会いがあり、この公演以降お世話になりっぱなしである。

 旅は視野を広げてくれた。熊本での狭い人間関係では気づかなかった演劇への情熱と可能性も見えてきた。
 三部作の初回で悠夢が青年役として主演を務めたが、彼はこれを最後に退団することになった。まだ高校生である。だが光は放っていた。「自分のやりたいことを探す。」と言っていた。家族であることの窮屈さに耐えられなくなっていたのかも知れない。日常生活でも演劇のことしか会話がなかったからだ。これには落ち込んだが、劇団を停滞させるわけにはいかない。
 二作・三作は配役を入れ替えながら臨んだ。
 じっくり取り組むと、切り口を変えることで別の劇になることが理解できた。俳優たちはこのシリーズで確実に進化して行った。
 
 「ねじ式」はコンセプトの劇というより、イメージに趣きを置くことができる作品に仕上がった。ここには物語りを伝えること以上に、お客さんに想像力を駆り立てていく重要な演劇の要素を体験したのである。
 演劇をコミュニケーションや情報、伝達の手段だと考えている「小劇場」の現在からすると、夢桟敷は遠いところへ来たものだと感じた。
 世界は丸い球状に位置していることが実感できる。宇宙も丸い球状であることもわかる。膨張している。まっすぐに走り続けていると、元いた場所へ辿り着く。
2006年の劇活動・回顧集

小劇場史(35)

2008年02月24日 | 小劇場30年
 第三期 2000-2006⑨

 戦後60年。
 2000年より第3期劇活動に入って「1945漂流記・星砂がくる海」に取り組んできた。反戦劇である。沖縄の地上戦をテーマに「戦争による悲惨」を語り継ぐ劇に止まることなく、劇表現としての「反戦」の可能性を求める。剥き出しの人間とは・・・。戦争を説明し解釈することは議論や書物でもできる。劇だからできることは何だろうか。今生きている生身の人間が、「国家」犯罪を舞台上で蒸返すこと。ここにあるのは残酷と狂気しかない。日本人が日本人を殺す愛国心。天皇中心国家観の狂気に辿り着く。ここに沖縄を見た。ならば、劇表現の方法は・・・。人間が感情を剥き出していくこと。恐怖のパトス(感情)とは・・・!理性がなくなる恐怖。ひたすら悲しいことである。戦争が引き起こす悲しみを舞台では狂気となって現す。足掻いても舞台は虚構である。

 音楽は生演奏となった。カンカラとは缶を使ったサンシン、バケツのドラム、ベースギターにアコーディオンのバンドを結成する。名付けて「かんから楽団」。音楽や歌には「ことば」以上の力を感じる。剥き出しの悲しみの中に希望が見えてくる不思議さがある。どん底に愛が見える。「ことば」だけでは見えないものが現れてくる。これが劇だ。
 熊本県内4箇所のツアーを組んだ。いずれも劇場ではなく、集会場や喫茶店のフリースペースを劇場化する。言わば、「小劇場」の原点とも言える公演形式となる。自由空間である。しかし、自由には手がかかる。照明機吊りや配線、舞台セットから客席まで作らないと劇場らしくならない。4会場ともに個性豊かなものになる。ここでしか現せない空間作りがあったからである。

ドキュメントをご覧下さい。
 
 第42回公演「星砂がくる海Ⅱ」2005年
 8月6日 ■菊池市やまあい村(出前劇)
 8月20日(土)-8月21日(日) ■熊本公演=吉野スタジオ
 8月25日(木) ■水俣公演=愛林館
 8月28日(日) ■南阿蘇公演=風の音

 原作/下嶋哲朗 脚本演出/山南純平
 音楽/坂本冬馬(かんから楽団 生演奏) 舞台監督/西岡卓
 [出演]
 夢現/坂本咲希/香西佳耶/村上精一/坂本冬馬/田中幸太/悠夢/一宝良太/松田彩佳/田中めい

 
 

 無駄な物語はそぎ落とし、これまでの劇作りでは見られなかった「分かりやすさ」が出てきた。複雑怪奇から単純明快へ。ところが、ここには落とし穴がある。劇と日常空間の関係。劇が非日常と言われる安全圏にいる限り、この劇の無力さを感じる。それが反戦劇の宿命だろうか。リアリズムの無力さがそうであるように、作り物としての虚構には限界がある。
 劇という物語性からは抜け出すことはできない。ここに登場する、おばあの一人語りは今後、劇場自体からはみ出すことを考えてみたい。この劇は「日常空間」の中でこそ生きてくる物語がある。物語である。開き直って、戦争の真っ只中で物語れる劇として、戦争の日常の中で劇は移動していくような予感が重くのしかかってきた。

 アメリカがある限り、戦争は終わらない。そういう時代である。