★劇団夢桟敷<小劇場30年>を振り返って連載中です。ここでは走り書きのつもりで書いております。何度か書き直して整理してみようと計画中です。
尚、不定期で気ままに掲載します。流れがつかめない場合はココをご覧下さい。
小劇場の変化
いつの頃からか、「小劇場」が大衆化していた。それに気付き始めたのは熊本に帰って来た1980年代半ばではなかっただろうか。・・・<第二期>
私たち夢桟敷のことも怪しげな集団だとは思われなくなっていた。いわゆる「アングラ」も風化したのか、死語のようでもあった。何をやってもチヤホヤされた時期がある。簡単に「芸術」だと思われたらしい。あるいは演劇をコマーシャルに利用できるものだと捉えられるようにもなっていた。1980年代である。
さほど中身を変えた訳でもなく、気付けば「小劇場」と「商業演劇」の境界線が曖昧になって来たのである。一方、「アングラ劇」の「新劇」への里帰りと呼ばれるようにもなっていた。それが、1980年代の演劇だった。演劇の現場で囁かれていたのは「何も無い時代」とも言われていた。つまり「演劇では何も起こらない。」悲観的な様相もあった。負のエネルギーを感じていた。世にはその反対側を負のエネルギーと感じている者たちの方が圧倒的に多かったのだ。反対側の前衛やアングラ劇、アバンギャルドは海外へと流れていた。逆輸入現象が起こり、大衆化の反対側は権威ともなっていく。国内の「小劇場」=大衆化は元祖「小劇場」の権威と両極のようにも見えた。それが1980年代「小劇場」の二極化だった。
劇団はメジャーへの登竜門として位置づけられるようになると個性が平均化していくようになる。この熊本でも「タレント養成所」と呼ばれるものがある。劇団の養成所化やテレビタレント(芸能)を目指す俳優志望者も潜在的には増えてきた。しかし、それが演劇への活性化につながって行かないのは何故だろうか。詰まるところ、演劇が商品として売れなければ意味がないからである。ここには文化の発想とは根本的に異なる。文化は演劇を商品化して利潤を追求する方向とは対立することがあるからである。結果として利潤が生み出される。利潤が目的とならない計算外が文化の力だ。ちなみに、劇団夢桟敷が原点としているものは文化とも呼ばれない風俗だったのである。つまり、サブカルチャー。文化への補完。主流や本流なるものへの抵抗感があった。大衆化や権威に無関心であった。
芸術論や文化論とは無縁な集団であり続けている。これについては他人様が考えてくれている。他人様とは観客でもある。特にリピータが言う「文化・芸術」は自由だ。この集団のやっていることの意味を考えてくれている人たちがいる。自分のことのように賛同してくれている人たちもいる。大きな支えになってきた。義理やリップサービスで近づいているのではなく、熊本に異風を吹かせたい少数派だと思う。演劇人よりもミュージシャン、美術家、市民運動家が周りに集まっていた。
「小劇場」が新劇や商業化の波を送り出している時に、夢桟敷は異種共同作業に入って行った。ある意味では演劇界とは疎遠な時期を送ることになった。これが<第二期>の特徴であり、客観的に「小劇場の変化」を見ていたのである。つまり、情報としての演劇やタレント育成としての芸能界やメジャーとしての下請け的な活動を離脱していたのである。まるで「小劇場」の変化を内部で体現していたような関係のようでもあった。
日本の「小劇場」は第一世代の寺山/唐の時代から一歩前へ出ようともがいていたのだった。その原動力になったのが、流山児さん、つかさん、山崎哲さん、いわゆる第二世代と呼ばれる劇作家や演出家たちの第三世代への北村想、野田秀樹への影響力があったのだと思う。
■ヨゼフKと本田浩隆
この1980年代半ばの時期に、本田浩隆が入団してきた。彼も世代としてはタレント志向が強かったように思う。まさにバブル経済真っ最中である。美男子はジャニーズ事務所を思わせた。ダンスの振り付けは彼=本田がやるようになった。暗黒舞踏とモダンダンスがかけ合わされて行く。ステップを踏む、飛跳ねる。
この時期は小本浩一(スター)とたちばななつき(アイドル)が抜けた頃でもあった。恐ろしい顔?風格をしたヨゼフKと姉御の佐藤めぐみが主要な若手で、彼らと組み合わされる。性格的には水と油のような関係であった。もう一人、本田君と同級生だった家近という俳優がいた。この水(本田)と油(ヨゼフ)の間に夢現が主演としてドカーンと立っていたのである。
ヨゼフKと本田浩隆の接点とは何だったのだろうか。まるで筋が違っていた。このミスマッチが面白かった。ミスマッチは夢現が接着していた。まるで、台頭する大衆化「小劇場」と前衛化「小劇場」の振り子のような関係でもあった。
■造形作家・山本てつお
1980年代半ば<第二期>では彼の存在は夢桟敷の<空間>としては必要不可欠なものとなった。単なる舞台美術ではなかった。美術の表現が演劇に大きな影響を与えていた。つまり、彼の作品が夢桟敷の演劇と重なったのである。彼との共同作業を通じて、演劇=美術だとも思えるようになる。あくまでも集団としての表現として美術作品は演劇と関わることによって「動の世界」へ変化することがわかった。これが、劇団の活動として美術展へ参加していく契機にもなった。
社会的に「小劇場」が大衆化・権威化されている時に、夢桟敷はコラボレーションとパフォーマンスに走っていたことになる。時代は「思想の進化」から「イメージの進化」へ表現世界が要求されていたのだった。哲学的な観念の固さから視覚的な形の柔らかさへ流れる。
映像と舞台のコラボレーションの可能性は!
俳優たちが「小劇場」からテレビへ進出している時期に、舞台へ映像を取り込もうと発想していた。演劇を作る勢いを映像へも傾けることとなる。
「アンドロイド伝説」他、光るオブジェ、照明効果としての映像などの実験を舞台で展開する。
尚、不定期で気ままに掲載します。流れがつかめない場合はココをご覧下さい。
小劇場の変化
いつの頃からか、「小劇場」が大衆化していた。それに気付き始めたのは熊本に帰って来た1980年代半ばではなかっただろうか。・・・<第二期>
私たち夢桟敷のことも怪しげな集団だとは思われなくなっていた。いわゆる「アングラ」も風化したのか、死語のようでもあった。何をやってもチヤホヤされた時期がある。簡単に「芸術」だと思われたらしい。あるいは演劇をコマーシャルに利用できるものだと捉えられるようにもなっていた。1980年代である。
さほど中身を変えた訳でもなく、気付けば「小劇場」と「商業演劇」の境界線が曖昧になって来たのである。一方、「アングラ劇」の「新劇」への里帰りと呼ばれるようにもなっていた。それが、1980年代の演劇だった。演劇の現場で囁かれていたのは「何も無い時代」とも言われていた。つまり「演劇では何も起こらない。」悲観的な様相もあった。負のエネルギーを感じていた。世にはその反対側を負のエネルギーと感じている者たちの方が圧倒的に多かったのだ。反対側の前衛やアングラ劇、アバンギャルドは海外へと流れていた。逆輸入現象が起こり、大衆化の反対側は権威ともなっていく。国内の「小劇場」=大衆化は元祖「小劇場」の権威と両極のようにも見えた。それが1980年代「小劇場」の二極化だった。
劇団はメジャーへの登竜門として位置づけられるようになると個性が平均化していくようになる。この熊本でも「タレント養成所」と呼ばれるものがある。劇団の養成所化やテレビタレント(芸能)を目指す俳優志望者も潜在的には増えてきた。しかし、それが演劇への活性化につながって行かないのは何故だろうか。詰まるところ、演劇が商品として売れなければ意味がないからである。ここには文化の発想とは根本的に異なる。文化は演劇を商品化して利潤を追求する方向とは対立することがあるからである。結果として利潤が生み出される。利潤が目的とならない計算外が文化の力だ。ちなみに、劇団夢桟敷が原点としているものは文化とも呼ばれない風俗だったのである。つまり、サブカルチャー。文化への補完。主流や本流なるものへの抵抗感があった。大衆化や権威に無関心であった。
芸術論や文化論とは無縁な集団であり続けている。これについては他人様が考えてくれている。他人様とは観客でもある。特にリピータが言う「文化・芸術」は自由だ。この集団のやっていることの意味を考えてくれている人たちがいる。自分のことのように賛同してくれている人たちもいる。大きな支えになってきた。義理やリップサービスで近づいているのではなく、熊本に異風を吹かせたい少数派だと思う。演劇人よりもミュージシャン、美術家、市民運動家が周りに集まっていた。
「小劇場」が新劇や商業化の波を送り出している時に、夢桟敷は異種共同作業に入って行った。ある意味では演劇界とは疎遠な時期を送ることになった。これが<第二期>の特徴であり、客観的に「小劇場の変化」を見ていたのである。つまり、情報としての演劇やタレント育成としての芸能界やメジャーとしての下請け的な活動を離脱していたのである。まるで「小劇場」の変化を内部で体現していたような関係のようでもあった。
日本の「小劇場」は第一世代の寺山/唐の時代から一歩前へ出ようともがいていたのだった。その原動力になったのが、流山児さん、つかさん、山崎哲さん、いわゆる第二世代と呼ばれる劇作家や演出家たちの第三世代への北村想、野田秀樹への影響力があったのだと思う。
■ヨゼフKと本田浩隆
この1980年代半ばの時期に、本田浩隆が入団してきた。彼も世代としてはタレント志向が強かったように思う。まさにバブル経済真っ最中である。美男子はジャニーズ事務所を思わせた。ダンスの振り付けは彼=本田がやるようになった。暗黒舞踏とモダンダンスがかけ合わされて行く。ステップを踏む、飛跳ねる。
この時期は小本浩一(スター)とたちばななつき(アイドル)が抜けた頃でもあった。恐ろしい顔?風格をしたヨゼフKと姉御の佐藤めぐみが主要な若手で、彼らと組み合わされる。性格的には水と油のような関係であった。もう一人、本田君と同級生だった家近という俳優がいた。この水(本田)と油(ヨゼフ)の間に夢現が主演としてドカーンと立っていたのである。
ヨゼフKと本田浩隆の接点とは何だったのだろうか。まるで筋が違っていた。このミスマッチが面白かった。ミスマッチは夢現が接着していた。まるで、台頭する大衆化「小劇場」と前衛化「小劇場」の振り子のような関係でもあった。
■造形作家・山本てつお
1980年代半ば<第二期>では彼の存在は夢桟敷の<空間>としては必要不可欠なものとなった。単なる舞台美術ではなかった。美術の表現が演劇に大きな影響を与えていた。つまり、彼の作品が夢桟敷の演劇と重なったのである。彼との共同作業を通じて、演劇=美術だとも思えるようになる。あくまでも集団としての表現として美術作品は演劇と関わることによって「動の世界」へ変化することがわかった。これが、劇団の活動として美術展へ参加していく契機にもなった。
社会的に「小劇場」が大衆化・権威化されている時に、夢桟敷はコラボレーションとパフォーマンスに走っていたことになる。時代は「思想の進化」から「イメージの進化」へ表現世界が要求されていたのだった。哲学的な観念の固さから視覚的な形の柔らかさへ流れる。
映像と舞台のコラボレーションの可能性は!
俳優たちが「小劇場」からテレビへ進出している時期に、舞台へ映像を取り込もうと発想していた。演劇を作る勢いを映像へも傾けることとなる。
「アンドロイド伝説」他、光るオブジェ、照明効果としての映像などの実験を舞台で展開する。