1月5日(木)
これは昭和38年の事件である。前年にいわゆるLT貿易が発足した。Lとは中国側の交渉代表者の寥承志のLであり、Tとは日本側代表の高碕達之助のTである。つまり当時の日本と中国には国交がなく従って貿易も盛んには行われていなかったのだが、今回両国の交渉によって特別枠を設けた、今後はこの枠に沿って大々的に日中貿易が行われると、いうものである。日本中が中国ブームに沸く第一陣となった出来事と言える。
その翌年この協定に従って中国側の経済訪日団が日本を訪れた。その通訳として同行来日したのが周鴻慶である。
周は日程最終日の直前にソ連大使館に駆け込み亡命申請をした。周の思惑としては中華民国(台湾)大使館に行くつもりであったのだが、たまたまホテル前で拾ったっタクシー運転手が間違えたのか、それとも周自身の調査不足からなのか分からないが、とにかくソ連大使館に駆け込んでしまった。そこで中華民国(台湾)への亡命申請をしたのである。
政治亡命であるから当然周は台湾に送られる筈なのだが、それに待ったをかけたのが日本政府と外務省であった。当時の首相は池田勇人であり外務大臣は側近の大平正芳である。彼らは国際法通りに周を台湾に送ったら、中共が大いに怒り、せっかく発足したLT貿易に支障が出ると、恐れたのだ。何とか中国様のご機嫌を損ねないで、しかも国際法違反にならない様な処理をしようと計った。そしで誠に姑息な手段を思いついた。周は訪日団の通訳であるから、パスポートの期限もそれに従って短時日のものだった。暫くなんやかんや言って時間を稼ぎ、そのパスポート期限が切れたら、即ち周を不法滞在者だとして、習の身柄をソ連大使館から日本側に移した(何故ソ連が同意したのか、どの施設へ移したかはネットの資料にはない)のである。
そして周に様々な説得を加えたのであろう、ついに周に自分は中国に帰りたがっているとの意思を表明させ(台湾亡命の希望者を中国へ送ることは国際法違反との非難を受ける)、中国に送還してしまったのである。周がソ連大使館に亡命したのが10月7日である。中国へ送還したのが翌年の1月10日である。約3か月の間がある。周に中国帰国を表明させる為にどのような手練手管が使われたか、私には想像も出来ないが、少なくとも周が中国に帰っても何ら危害は加えられない、それは中国政府が約束している、我々(日本側)もそれは保証するとかは、言ったであろう。またお前の一族郎党はみな泣いているぞとも、言ったと思う。
その後周がどうなったかはこの記事をネットに載せている人も触れていない。分からないし調べようがないのだろう。まあ生きている事を後悔するような拷問に曝されたと思う。そして精神病院に送られて殺されたと思う。
中嶋嶺雄がこの件について別文章だが次のような記述をしている。
『一九六十三年十月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶亡命事件」が発生した。私は。橋本氏がこの周鴻慶事件を処理して本人を差し戻したのだと得々として語っていたことをよく覚えている』。橋本氏とは橋本恕(ウキでは「ひろし」、中嶋氏は「ただし」と読んでいる)の事で、この時外務省の中国担当の幹部職員であったと思われる。この後中国課長、そして中国大使へと出世している。中嶋嶺雄は橋本と直接面談して、その記憶を書いていると思われる。
橋本にしても中共が口とは裏腹に周を殺すだろうとは内心考えたに違いない。それでいて冷血にも周を中国に返したのである。しかも自慢しているようにこれは相当に難しい作業だった筈だ。まずソ連大使館から取り戻さなくてはならない。ソ連は中国と当時仲が悪かったとはいえ、懐に飛び込んできた窮鳥である、政治利用できると舌なめずりしたに違いない。だから相当の対価を日本側はソ連に支払ったと思われる。また中華民国(台湾)からは猛烈な抗議が来た。戦争状態にある敵国を逃れて、自国に来たいと願っている人間を日本が止めているのだから、怒り心頭は当然である。自民党の巨頭の中には親台湾派が多い。そういう中で色々な部署に折り合いをつけ周を中国に返したことは、確かに自慢したい難作業であったろう。
私は当初橋本を中国の種々のトラップに群がる、でっぷりとした好色人間然の男かと思っていた。しかし写真で見る限り全然違う。旧陸軍の制服を着せ参謀肩章でも吊るしたら、いかにも似合いそうな男であった。国士然とした風貌だと言っても良い。ここからあまりにも単純な推測だが私は、橋本は信念を持って周を返したと、推量した。
中国に阿るとか中国の機嫌を取るとか言うとつい私たちは茶坊主的な人間を思い浮かべる。しかしどうも違うのではないかと最近考えるようになった。彼らは東大法学部を出た、外務省の幹部であったり、外務大臣とか総理大臣であったりする人物なのだ。茶坊主である筈が無かろう。反対に巨大な権力が振るえる人間なのである。ではなぜそんな権力者が、中国の一言に、ひれ伏すのだ。そこが分からない。
一つの解答として突飛な考えだと思われるかもしれないが、私は戦前のやり方の裏返をしているのだと思う。橋本にしても大平にしても池田勇人にしても、彼らは皆戦前の教育を受けそれなりに活躍をして、頭角を現した人間だ。戦前と戦後で人の性格が変わると思う方がおかしい。彼らは戦前のやり方しか知らないし、出来ないのである。そこで、戦前の日本は強力な武力を持っていた。それに物を言わせて相手国に有無を言わさず、国策を実行してきた。戦後はその武力を失った。では日本はもはや国策を通すことは不可能なのか。盆暗の一般国民はそう思って国の発展を諦めるかも知れないが、俺たちエリートは違うという所なのである。俺たちエリートは石に噛り付いてでも国策を通す、その為に今手に持つやれる事とは、どんなに耐え忍んでも相手国の言う事を聞いて、そしてそのお返しとして日本の国策を通して貰う事を期待する、それしかないという訳だ。つまり戦前は武力に頼って国策を通すことが出来たが、現在は相手の言う事を聞いて、相手に気に入って貰って、国策を通すしか手はないだろうと言うのである。武力に代わる手段が相手国の言う事をどこまでも聞くという姿勢なのだ。
だから中国要人の一言に敏感に反応し、韓国の無茶な要求にも屈するという事をしてきたのである。戦前の日本は帝国主義のルールに従って中国を取ろうとした。その政策の是非は私には判定できないが、国家目標を掲げてそれに精力を注いだことは確かである。戦後の日本も国家目標を掲げて、忍従と忍耐で、その実現に橋本たちは精力を捧げたのだと思うようになった。しかし戦前の強い日本の記憶が相手国にも残っていた昭和の時代は、相手も日本に配慮して、それで国策も何とか通った。しかし日本を自国よりも下位の国だと蔑む教育で育った世代が幹部となってきた中共と韓国に対して、このやり方は悪効果を生むしかなくなってきたのだ。そこを政治家も役人も分からなくてはならないと思う。
私は中国と韓国に対して、日本との関係を10年先にはこうしようとかの、経済目標を据えるべきではないと思う。日本が両国から侵略を受けないだけの軍備を整えておけば、経済関係は、両国が日本を必要とする限りにおいて自動的に進展してゆくと思うから、ほかっておいたらよい。エリートが無理に頑張ることはないと思う。
これは昭和38年の事件である。前年にいわゆるLT貿易が発足した。Lとは中国側の交渉代表者の寥承志のLであり、Tとは日本側代表の高碕達之助のTである。つまり当時の日本と中国には国交がなく従って貿易も盛んには行われていなかったのだが、今回両国の交渉によって特別枠を設けた、今後はこの枠に沿って大々的に日中貿易が行われると、いうものである。日本中が中国ブームに沸く第一陣となった出来事と言える。
その翌年この協定に従って中国側の経済訪日団が日本を訪れた。その通訳として同行来日したのが周鴻慶である。
周は日程最終日の直前にソ連大使館に駆け込み亡命申請をした。周の思惑としては中華民国(台湾)大使館に行くつもりであったのだが、たまたまホテル前で拾ったっタクシー運転手が間違えたのか、それとも周自身の調査不足からなのか分からないが、とにかくソ連大使館に駆け込んでしまった。そこで中華民国(台湾)への亡命申請をしたのである。
政治亡命であるから当然周は台湾に送られる筈なのだが、それに待ったをかけたのが日本政府と外務省であった。当時の首相は池田勇人であり外務大臣は側近の大平正芳である。彼らは国際法通りに周を台湾に送ったら、中共が大いに怒り、せっかく発足したLT貿易に支障が出ると、恐れたのだ。何とか中国様のご機嫌を損ねないで、しかも国際法違反にならない様な処理をしようと計った。そしで誠に姑息な手段を思いついた。周は訪日団の通訳であるから、パスポートの期限もそれに従って短時日のものだった。暫くなんやかんや言って時間を稼ぎ、そのパスポート期限が切れたら、即ち周を不法滞在者だとして、習の身柄をソ連大使館から日本側に移した(何故ソ連が同意したのか、どの施設へ移したかはネットの資料にはない)のである。
そして周に様々な説得を加えたのであろう、ついに周に自分は中国に帰りたがっているとの意思を表明させ(台湾亡命の希望者を中国へ送ることは国際法違反との非難を受ける)、中国に送還してしまったのである。周がソ連大使館に亡命したのが10月7日である。中国へ送還したのが翌年の1月10日である。約3か月の間がある。周に中国帰国を表明させる為にどのような手練手管が使われたか、私には想像も出来ないが、少なくとも周が中国に帰っても何ら危害は加えられない、それは中国政府が約束している、我々(日本側)もそれは保証するとかは、言ったであろう。またお前の一族郎党はみな泣いているぞとも、言ったと思う。
その後周がどうなったかはこの記事をネットに載せている人も触れていない。分からないし調べようがないのだろう。まあ生きている事を後悔するような拷問に曝されたと思う。そして精神病院に送られて殺されたと思う。
中嶋嶺雄がこの件について別文章だが次のような記述をしている。
『一九六十三年十月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶亡命事件」が発生した。私は。橋本氏がこの周鴻慶事件を処理して本人を差し戻したのだと得々として語っていたことをよく覚えている』。橋本氏とは橋本恕(ウキでは「ひろし」、中嶋氏は「ただし」と読んでいる)の事で、この時外務省の中国担当の幹部職員であったと思われる。この後中国課長、そして中国大使へと出世している。中嶋嶺雄は橋本と直接面談して、その記憶を書いていると思われる。
橋本にしても中共が口とは裏腹に周を殺すだろうとは内心考えたに違いない。それでいて冷血にも周を中国に返したのである。しかも自慢しているようにこれは相当に難しい作業だった筈だ。まずソ連大使館から取り戻さなくてはならない。ソ連は中国と当時仲が悪かったとはいえ、懐に飛び込んできた窮鳥である、政治利用できると舌なめずりしたに違いない。だから相当の対価を日本側はソ連に支払ったと思われる。また中華民国(台湾)からは猛烈な抗議が来た。戦争状態にある敵国を逃れて、自国に来たいと願っている人間を日本が止めているのだから、怒り心頭は当然である。自民党の巨頭の中には親台湾派が多い。そういう中で色々な部署に折り合いをつけ周を中国に返したことは、確かに自慢したい難作業であったろう。
私は当初橋本を中国の種々のトラップに群がる、でっぷりとした好色人間然の男かと思っていた。しかし写真で見る限り全然違う。旧陸軍の制服を着せ参謀肩章でも吊るしたら、いかにも似合いそうな男であった。国士然とした風貌だと言っても良い。ここからあまりにも単純な推測だが私は、橋本は信念を持って周を返したと、推量した。
中国に阿るとか中国の機嫌を取るとか言うとつい私たちは茶坊主的な人間を思い浮かべる。しかしどうも違うのではないかと最近考えるようになった。彼らは東大法学部を出た、外務省の幹部であったり、外務大臣とか総理大臣であったりする人物なのだ。茶坊主である筈が無かろう。反対に巨大な権力が振るえる人間なのである。ではなぜそんな権力者が、中国の一言に、ひれ伏すのだ。そこが分からない。
一つの解答として突飛な考えだと思われるかもしれないが、私は戦前のやり方の裏返をしているのだと思う。橋本にしても大平にしても池田勇人にしても、彼らは皆戦前の教育を受けそれなりに活躍をして、頭角を現した人間だ。戦前と戦後で人の性格が変わると思う方がおかしい。彼らは戦前のやり方しか知らないし、出来ないのである。そこで、戦前の日本は強力な武力を持っていた。それに物を言わせて相手国に有無を言わさず、国策を実行してきた。戦後はその武力を失った。では日本はもはや国策を通すことは不可能なのか。盆暗の一般国民はそう思って国の発展を諦めるかも知れないが、俺たちエリートは違うという所なのである。俺たちエリートは石に噛り付いてでも国策を通す、その為に今手に持つやれる事とは、どんなに耐え忍んでも相手国の言う事を聞いて、そしてそのお返しとして日本の国策を通して貰う事を期待する、それしかないという訳だ。つまり戦前は武力に頼って国策を通すことが出来たが、現在は相手の言う事を聞いて、相手に気に入って貰って、国策を通すしか手はないだろうと言うのである。武力に代わる手段が相手国の言う事をどこまでも聞くという姿勢なのだ。
だから中国要人の一言に敏感に反応し、韓国の無茶な要求にも屈するという事をしてきたのである。戦前の日本は帝国主義のルールに従って中国を取ろうとした。その政策の是非は私には判定できないが、国家目標を掲げてそれに精力を注いだことは確かである。戦後の日本も国家目標を掲げて、忍従と忍耐で、その実現に橋本たちは精力を捧げたのだと思うようになった。しかし戦前の強い日本の記憶が相手国にも残っていた昭和の時代は、相手も日本に配慮して、それで国策も何とか通った。しかし日本を自国よりも下位の国だと蔑む教育で育った世代が幹部となってきた中共と韓国に対して、このやり方は悪効果を生むしかなくなってきたのだ。そこを政治家も役人も分からなくてはならないと思う。
私は中国と韓国に対して、日本との関係を10年先にはこうしようとかの、経済目標を据えるべきではないと思う。日本が両国から侵略を受けないだけの軍備を整えておけば、経済関係は、両国が日本を必要とする限りにおいて自動的に進展してゆくと思うから、ほかっておいたらよい。エリートが無理に頑張ることはないと思う。