スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(周鴻慶事件)

2023-01-05 10:04:03 | 日記
1月5日(木)
 これは昭和38年の事件である。前年にいわゆるLT貿易が発足した。Lとは中国側の交渉代表者の寥承志のLであり、Tとは日本側代表の高碕達之助のTである。つまり当時の日本と中国には国交がなく従って貿易も盛んには行われていなかったのだが、今回両国の交渉によって特別枠を設けた、今後はこの枠に沿って大々的に日中貿易が行われると、いうものである。日本中が中国ブームに沸く第一陣となった出来事と言える。
 その翌年この協定に従って中国側の経済訪日団が日本を訪れた。その通訳として同行来日したのが周鴻慶である。
 周は日程最終日の直前にソ連大使館に駆け込み亡命申請をした。周の思惑としては中華民国(台湾)大使館に行くつもりであったのだが、たまたまホテル前で拾ったっタクシー運転手が間違えたのか、それとも周自身の調査不足からなのか分からないが、とにかくソ連大使館に駆け込んでしまった。そこで中華民国(台湾)への亡命申請をしたのである。
 政治亡命であるから当然周は台湾に送られる筈なのだが、それに待ったをかけたのが日本政府と外務省であった。当時の首相は池田勇人であり外務大臣は側近の大平正芳である。彼らは国際法通りに周を台湾に送ったら、中共が大いに怒り、せっかく発足したLT貿易に支障が出ると、恐れたのだ。何とか中国様のご機嫌を損ねないで、しかも国際法違反にならない様な処理をしようと計った。そしで誠に姑息な手段を思いついた。周は訪日団の通訳であるから、パスポートの期限もそれに従って短時日のものだった。暫くなんやかんや言って時間を稼ぎ、そのパスポート期限が切れたら、即ち周を不法滞在者だとして、習の身柄をソ連大使館から日本側に移した(何故ソ連が同意したのか、どの施設へ移したかはネットの資料にはない)のである。
 そして周に様々な説得を加えたのであろう、ついに周に自分は中国に帰りたがっているとの意思を表明させ(台湾亡命の希望者を中国へ送ることは国際法違反との非難を受ける)、中国に送還してしまったのである。周がソ連大使館に亡命したのが10月7日である。中国へ送還したのが翌年の1月10日である。約3か月の間がある。周に中国帰国を表明させる為にどのような手練手管が使われたか、私には想像も出来ないが、少なくとも周が中国に帰っても何ら危害は加えられない、それは中国政府が約束している、我々(日本側)もそれは保証するとかは、言ったであろう。またお前の一族郎党はみな泣いているぞとも、言ったと思う。
 その後周がどうなったかはこの記事をネットに載せている人も触れていない。分からないし調べようがないのだろう。まあ生きている事を後悔するような拷問に曝されたと思う。そして精神病院に送られて殺されたと思う。
 中嶋嶺雄がこの件について別文章だが次のような記述をしている。
『一九六十三年十月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶亡命事件」が発生した。私は。橋本氏がこの周鴻慶事件を処理して本人を差し戻したのだと得々として語っていたことをよく覚えている』。橋本氏とは橋本恕(ウキでは「ひろし」、中嶋氏は「ただし」と読んでいる)の事で、この時外務省の中国担当の幹部職員であったと思われる。この後中国課長、そして中国大使へと出世している。中嶋嶺雄は橋本と直接面談して、その記憶を書いていると思われる。
 橋本にしても中共が口とは裏腹に周を殺すだろうとは内心考えたに違いない。それでいて冷血にも周を中国に返したのである。しかも自慢しているようにこれは相当に難しい作業だった筈だ。まずソ連大使館から取り戻さなくてはならない。ソ連は中国と当時仲が悪かったとはいえ、懐に飛び込んできた窮鳥である、政治利用できると舌なめずりしたに違いない。だから相当の対価を日本側はソ連に支払ったと思われる。また中華民国(台湾)からは猛烈な抗議が来た。戦争状態にある敵国を逃れて、自国に来たいと願っている人間を日本が止めているのだから、怒り心頭は当然である。自民党の巨頭の中には親台湾派が多い。そういう中で色々な部署に折り合いをつけ周を中国に返したことは、確かに自慢したい難作業であったろう。
 私は当初橋本を中国の種々のトラップに群がる、でっぷりとした好色人間然の男かと思っていた。しかし写真で見る限り全然違う。旧陸軍の制服を着せ参謀肩章でも吊るしたら、いかにも似合いそうな男であった。国士然とした風貌だと言っても良い。ここからあまりにも単純な推測だが私は、橋本は信念を持って周を返したと、推量した。
 中国に阿るとか中国の機嫌を取るとか言うとつい私たちは茶坊主的な人間を思い浮かべる。しかしどうも違うのではないかと最近考えるようになった。彼らは東大法学部を出た、外務省の幹部であったり、外務大臣とか総理大臣であったりする人物なのだ。茶坊主である筈が無かろう。反対に巨大な権力が振るえる人間なのである。ではなぜそんな権力者が、中国の一言に、ひれ伏すのだ。そこが分からない。
 一つの解答として突飛な考えだと思われるかもしれないが、私は戦前のやり方の裏返をしているのだと思う。橋本にしても大平にしても池田勇人にしても、彼らは皆戦前の教育を受けそれなりに活躍をして、頭角を現した人間だ。戦前と戦後で人の性格が変わると思う方がおかしい。彼らは戦前のやり方しか知らないし、出来ないのである。そこで、戦前の日本は強力な武力を持っていた。それに物を言わせて相手国に有無を言わさず、国策を実行してきた。戦後はその武力を失った。では日本はもはや国策を通すことは不可能なのか。盆暗の一般国民はそう思って国の発展を諦めるかも知れないが、俺たちエリートは違うという所なのである。俺たちエリートは石に噛り付いてでも国策を通す、その為に今手に持つやれる事とは、どんなに耐え忍んでも相手国の言う事を聞いて、そしてそのお返しとして日本の国策を通して貰う事を期待する、それしかないという訳だ。つまり戦前は武力に頼って国策を通すことが出来たが、現在は相手の言う事を聞いて、相手に気に入って貰って、国策を通すしか手はないだろうと言うのである。武力に代わる手段が相手国の言う事をどこまでも聞くという姿勢なのだ。
 だから中国要人の一言に敏感に反応し、韓国の無茶な要求にも屈するという事をしてきたのである。戦前の日本は帝国主義のルールに従って中国を取ろうとした。その政策の是非は私には判定できないが、国家目標を掲げてそれに精力を注いだことは確かである。戦後の日本も国家目標を掲げて、忍従と忍耐で、その実現に橋本たちは精力を捧げたのだと思うようになった。しかし戦前の強い日本の記憶が相手国にも残っていた昭和の時代は、相手も日本に配慮して、それで国策も何とか通った。しかし日本を自国よりも下位の国だと蔑む教育で育った世代が幹部となってきた中共と韓国に対して、このやり方は悪効果を生むしかなくなってきたのだ。そこを政治家も役人も分からなくてはならないと思う。
 私は中国と韓国に対して、日本との関係を10年先にはこうしようとかの、経済目標を据えるべきではないと思う。日本が両国から侵略を受けないだけの軍備を整えておけば、経済関係は、両国が日本を必要とする限りにおいて自動的に進展してゆくと思うから、ほかっておいたらよい。エリートが無理に頑張ることはないと思う。

















スケッチブック30(昔あった教科書誤報騒動)

2023-01-02 13:20:41 | 日記
1月2日(月) 令和5年
 1982年(昭和57年)と言えば私が35歳の時で、「もはや戦後ではない」との言葉も久しい、日本は安定して成長を続けていた時代である。この年の暮れに中曽根政権が成立して、日米は強固な同盟を謳うロンヤス関係に入る。いわば日本は大人に成長したのであるが、この年に日本は中国と韓国からとてつもない内政干渉を受けた。
 いわゆる「教科書誤報事件」である。6月に、この年の検定を通過した中学校の歴史教科書で、日中戦争に関して(まあ昭和12年くらいのところか?)当初は「侵略」とあった語句が、検定によって「進出」と書き直されたと、全国のマスゴミが一斉に報道したのである。何でそんな事になったかというと当時の文部省記者クラブ(今も存在するのか知らないが)には「各社分担・持ち寄り制度」という慣行があって、数十点に上る教科書を全部読むのは大変だから、各社がそれぞれ分担して、自分の分の教科書を読んで今年の検定の特徴を書き出し、それを持ち寄って一つにして報道するとの事をしていたからである。該当の教科書を担当して誤読したのは日本テレビの記者であるが、だから例えば「朝日」にしても「読売」の記者にしても、自身は「侵略」から「進出」への書換を、見た訳ではない。担当の日本テレビ記者の報告を鵜吞みにしたのだ。だから誤報が全国一斉に流れる結果となった。
 この日本の新聞報道を根拠にしてまず中国が歴史を改竄したと日本に文句をつけてきた。続いて韓国も「侵略」「進出」には全く関係のない、大正8年の出来事である3・1運動の記述を持ち出して、「暴動」との表現がしてあるのはけしからんと、今に繋がるヤクザの難癖そのものの便乗をしてきた。
 外交問題になって文部省記者クラブも慌てたらしく、各社検証をして、「侵略」から「進出」への書換の例は確認されていないと、新聞社は小さな訂正記事を載せた。テレビ局がどう訂正したか知らない。はっきりと誤報と書いたのは産経新聞だけである。産経はともかく他の新聞テレビは全く情けない。自分たちの誤報がきっかけになって外交問題に発展したのだから、中国と韓国にその旨を明瞭に示して、あなたたちの抗議には申し訳ないが根拠がない(何故なら我々の誤報ですから)と、はっきり言って然るべきである。それが言論機関の責任であろう。所が朝日新聞は自分たちの責任には全く触れず、「教科書検定の流れがおかしい」と、自分たちの誤報さえ何か文部省に責任があるかのような訂正(とも言えないような)記事を書いた。まあマスゴミとはそんなものだ。もっと昔の日本人は新聞記者とは飛ばし(嘘)ばかりのゴロツキ視をしていた。今やっとその正体がばれつつある。
 ただ朝日の言う事も全くの責任転嫁ではない。それまでに文部省は「侵略」に検定意見をつけていたのである。ただ検定意見には二種類あって、必ず直さなくてはならない修正意見と、意見は付くが直すか直さないかは各教科書会社任せの、改善意見があり、「侵略」に付いていたのはこの改善意見だった。そして意見は付くがそれを無視できる「侵略」との表現が、各社の教科書で増えてきている事実があった。つまり左翼思想が全国を覆いだしていたのである。
 ではなぜ文部省は改善意見を付けていたかというと、西洋諸国の中国分割とか大航海時代の西洋人の活躍を、それは「進出」と表記していたからである。何故イギリスやフランスは{進出」で日本だけが{侵略」なのかとの疑問が、当然に出る。マゼランやコロンブスの偉業を、「侵略」と言って良いのかとの疑問も出よう。更に遡ってアレキサンダー大王の東征だって侵略と言わねばならないのか。「侵略」との言葉には同時代的な生々しさ(善悪を当事者に当て嵌める)が伴うが、歴史的過去の行為に使う事が妥当なのかと私は思う。イギリスやフランスの中国「進出」との表現が妥当なら、同時代の日本だって「進出」で構わないとの、良識ある判断を文部省もしていたのだ。
 ところがこれが許せないのが中国である。しかし中国がイギリスとフランスの教科書に、歴史の改竄だと文句をつけたとの話を聞かない。それはイギリスとフランスが核兵器を持っておりまた国民の意識も強烈で、中国に反発してくる強い国だからである。その点日本は力のない弱い国である。我々なら強い国には遠慮し、弱い国相手には横暴に振舞うというのは、公平さを欠いた恥ずべき行為だと考える。所が中国人はそんな風には考えない。もっと現実的であるというより、あるべきとか、こうすべきというべき論(倫理観)を持ち合わせない、動物的行動をする人たちだと言った方がわかり易い国柄なのである。弱い国を叩く、それの方が公平(叩かれる理由に従っているだけ)だという、国なのである。
 中国は誤報とは関係なく教科書の書き直しを要求してきた。しないなら9月に予定されていた鈴木善幸首相の招待を取り消すと、脅してきた。日本を屈服させた、無理を日本に飲ませた、それは中国の方が日本より強い、偉いからだと全世界に見せたかった故である。今なら、もし高市首相なら、結構だと突っぱねる所だろうが、不思議だが当時は訪中を取り消されることはとても大変な出来事だと思われていたようだ。なんとしても中国様(及び付属の韓国)のご機嫌を取らねばならない、向こう様が友好に反すると言えば押し頂かなければならない、日本が要求に従わなければならないと、外務省官邸を見て実に不思議なのだが、その一念で行動するのである。
 文部省は抵抗したのだが今年の検定合格教科書は、2年後(通常は3年後)に見直しの対象にされることになった。官邸と外務省は来年の見直しを要求したのだがそれはさすがに技術的に無理で、文部省の役人は辞表を懐にしてそれには抵抗した。そして宮澤喜一官房長官に「政府の責任で教科書の記述を是正する」と談話を出される事となった。文部省は「是正」ではなく「改善」との言葉を使ってほしかった。「改善」なら一応従来からの筋が維持できるが、「是正」では過去間違えていたとの事になるからだ。しかし恐らく中国とすり合わせて「是正」なる言葉を用意しただろう宮沢が聞く筈もない。
 その後所謂「近隣諸国条項」が出来た。表向きの表現は「アジアの近隣諸国との友好・親善が十分実現するように配慮する」との耳障りの良いものだが、実質は日本は何を言われても言い返しませんというものだった。この条項には、では具体的にどのように検定するのかという、付属文書がある。それは公表されていないらしいのだが案文段階での文言が残されていて、それによれば
「侵略」 満州事変以降における日中間の記述については、侵略・侵入・侵攻などの表記について、検定意見を付さない。
「南京事件」 死亡者数について出典の明示を求める。(出典さえ明示されていれば40万人の出鱈目数字でもオーケー)
「三・一運動」 暴動状態にあったとの、検定意見を付さない。
「神社参拝、日本語使用、創氏改名」 強制されたとの表記に、検定意見を付さない。
「強制連行」 強制されたとの表記に、検定意見を付さない。
「沖縄戦」 日本軍が沖縄住民を殺害したとの表記に、沖縄戦の記述の一環であれば、検定意見を付さない。
等というものである。
 これは全くの内政干渉であり、それに屈した恥ずべき決定であるが、官邸・外務省にその感覚はなかったようである。むしろ中国・韓国との友好を維持したと、関係者の間で自慢話になっていたようである。では何でそんな体たらくだったのか。
 一つには検定制度の故であろう。もし教科書が完全に民間で作成されているとしたら、たとえ私のような小心者の政治家や役人だって、我が国は自由主義の国であり官が民を縛ることはできないと、中国の要求を突っぱねられたであろう。しかし教科書検定は政府の責任で行っている政策である。中国からの、日本政府が日中友好条約に反した行いをしているとの指摘(条約締結当時には思いもしなかった指摘、日中友好は歴史に対する政府の態度を拘束するものか)に、中国前のめりの日本政府が逆らう事は難しかったのだと思う。二つ目の理由であるが、意外な事のようだが、官邸・外務省は戦前の軍部の裏返し政策しか取れない、という点である。
 およそ二つの国が相思相愛になるには、両国ともに相手国を必要とする事情にあることが、大前提となる。しかしここが分からないのが軍部である。戦前日本は中国が欲しかった。無限の資源が埋まり無限の市場に成長すると思ったからだ。中国も日本の技術と投資が欲しかったか、そこは分からないが、そんなものは関係ないとしたのが軍部である。武力で取ればよいとの発想である。相手国の思惑を考えない。一方的な行動に出たのである。戦前の軍部は武力を使って自分の思いを、一方的に叶えた。戦後の官邸と外務省には武力がない。そこで自分の思いを叶える為に、相手の言う事は全て聞くという、一方的な手段に出たのだ。
 日中国交回復をして日本は中国市場が欲しかったであろう。同時に中国だって日本の技術と資本が欲しかったに違いない。ならば中国の教科書書換要求を不当な内政干渉だと突っぱねても、日中友好がこじれることはない。しかし官邸(多くが役人、政治家も役人上がり)と外務官僚には、この相互作用が分からなかった。戦前武力で有無を言わせなかったように、戦後の対中関係で、兎に角遜る事で中国に有無を言わせない作業に熱中する以外、頭が行かなかったのだ。武力がなければ頭を下げるしか手はない、この考えに絡め取られていたのだろう。