スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(女系天皇論の欠陥)

2019-08-18 11:38:18 | 日記
8月18日(日)
 今秋にもまた、皇位継承についての有識者会議が始まるらしい。目的は女系天皇を容認する事であろう。会議の結論を予想するに、万一男子の継承者が途絶えた場合、その時に慌てるのではなく、予め女性天皇、更には女系天皇を認めておいて、万一の不幸な事態においても皇位継承が安定的になされるように、予備的措置を今回とっておく、そんなものになるだろう。
 小泉内閣の時の有識者会議のメンバーを見ても、選ばれた人たちは各分野のいわばボスで、つまりは耄碌と言っては言い過ぎかもしれないが深い見識のない、いわば調整型というか平均的思考の持ち主だ。そういう人でないと学会のボスにはなれない。真理を極めた人はたいてい孤高の存在となる。
 政府は有識者を選ぶ場合その分野の腐れ者から文句が出ないように、ボスを選ぶのが通例である。特に皇位継承などという殆どの人にとって専門分野外の事柄については、まずエキスパートは選ばれないと思うべきである。専門外でも日頃から深い思考をしていてそれを皇位継承問題に適用できる人なら良いが、そういう人はボスになれないから選ばれない。だから有識者の意見などと称する答申は、ごく浅い、偶然的で瞬間的な、流行のようなものになると思えば間違いない。
 恐らく彼らの思考は、現在の皇族に限定した皇位継承という枠組みから、逃れることはできないだろう。地動説の枠内に囚われて天体の運行を見た、中世の坊主のようなものである。日本国憲法で世界の現実を処理しようとする、シーラカンスのような進歩的文化人と同じである。ドイツの勝利を前提にして日米戦に突入した戦前の軍部のようなものである。
 前提が歪なものなら対応策も破滅的なものになろう。皇位継承者を現在の皇族に限定する限り、天皇なしか女系天皇にならざるを得ない。
 彼らを論破したいのだが、まず女系という言い方が極めて欺瞞的である。馬鹿な国民は男系に対応する女系と捉えて、男女平等だから女系だっていいではないかと考えかねない。しかし女系とは言えどうも新聞論調などを見るに、愛子内親王を始祖としてその子孫が皇位を継承してゆくことを指して、女系と言っているようである。それが過去の天皇制の伝統と権威を継承したものになれるだろうか。そのように国民が意識するか大いに疑問だ。愛子内親王家という一家族が、シャーマンのように先祖の位牌を守っている、そんな風に見られる可能性が大であると私は思う。
 うまく意を尽くせないが、現在の女性皇族の子孫の全ての方々に皇位継承権を認めるならば、或いは従来の天皇制に匹敵する女系天皇制の出現と言えるかもしれないが、愛子内親王家だけの皇位継承となれば、それは単なる一家庭の物語に閉ざされてしまう。しかし全女性皇族となった場合でも、果たして従来の権威と伝統が引き継がれるかは、甚だ疑問だ。新(女系)天皇制は自分達で新たに物語を紡ぎ、権威と伝統を作り出してゆくしかないと思う。それは出来るかどうか、非常に危うい話である。
 有識者会議の面々は弥縫策しか思いつかないであろう。彼らは眼前の辻褄合わせしか考えないからであり、いかに天皇制の伝統と権威を引継ぐかとの見地を、持ち合わせないからだ。ここら辺に差し掛かると、彼らの左翼の本性が出る。彼らは深奥では天皇制を廃止しても構わないと思っているのだ。天皇など居なくても(むしろその方がうまく)日本はやって行けると、心底で考えているとしたら辻褄合わせしか浮かばないだろう。
 私は、これまた十分に意を尽くせないが、天皇制は日本人の人心の安定と、民族的向上心の発揮に、大いに役立っていると思う。天皇制が失われたら相当な荒廃が生じるだろうと考える。日本人は真剣に(マスゴミと学者に引き摺られず、自分で)天皇制の功罪、有効性について、考えてみなければならない。女系天皇に乗ることは、日本の将来(進歩か停滞か凋落か)の分岐点を誤る事かも、知れないと思う。
 
 

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