スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(集中と分散というか)

2023-07-29 11:05:43 | 日記
7月29日(土)
 少し前まで世の中はマルクス主義と資本主義の戦いのように思っていた。そしてマルクス主義は負けて、これから正常な世界が出現すると、思っていた。しかしどうもそうではないようである。ソ連が潰れて30年経つのにマルクス主義はコロナウイルスのように種々に形を変えて、現代社会に蔓延っている。山本太郎とかラサール石井はマルクス主義断末魔の、最後のあがきの出現形式のように捉えていたが、どうもそうではなく、彼らは新たな栄養素をどこからか取り入れていて、何時まで経っても死なない存在なのかも知れないと思い始めた。
 だいたいソ連は潰れキューバは破産し、中国に社会主義を期待する人は誰もいないという状況にあって、なおかつマルクス主義に魅力を感じる人などいない筈である。それでも亜流のマルクス主義者は、例えばBLMのように世界中に健在である。だからこれはどうもマルクス対資本主義と考るのではなく、別の捉え方をするのが正解だろうと考えるようになった。
 私が思うにこれは、集中対分散というか、建設対破壊というか、物事を作り上げる人間の本質から来るところの、対立のように思える。人間は社会を作り文化を作りして、己の生存を果たして行く存在である。例えば稲作にしても田を耕し水を張り稲を植えるなどの労力の集中をしなければ稲は出来ない。そして出来た米を食べて、生きてゆける。しかしこの人間の営みに本質的に付随してくるものがあるのだ。それは稲作などやめようという衝動である。昔は稲作をやめたら食べてゆけないので、その衝動は抑えられていた。だが工場に勤めて現金収入が見込めるとか、米など作っても食べてゆけないとなれば、衝動の方が勝つ。同じように例えばトランスジェンダーの人は昔から居たと思うが、昔の社会は今より窮屈だったので、自分の生物学的性に自分の意識を合わせるように努力してきた。当然苦痛は有ったろうがそれを克服してこそ人間だとの考えが勝っていた。今は社会が緩やかになって生きたので、無理に合わせるのは止めようとの意識が、勝ってきたのである。
 上手く書けないが物を作る事とそれを止めようとする意識とは、表裏一体のもののように思える。運動の法則の作用反作用の法則の如くに思える。だからどんなに社会が昔と比べて良いものとなっても、それを壊そうとする山本太郎のような人間は、出現するのだ。マルクス主義もそういう社会を壊そうとする衝動が、共産主義という形式をとったものと見るべきなのかも知れない。物を壊そうとする衝動は非現実的な思想とか、およそ間違った世界認識を伴っているものである。だから建設的な人から見ると、とてもまともな考えには写らない。よくあんなものを信じるなあと呆れる訳だが、侮ってはいけない。破壊衝動の栄養源は正しい世界認識とかそういった所から来ているのではないのだ。上手く言えないが創造の反作用から来ているのだから、多分理性など関係ないのであろう。例えばBLMは設立時に誰が寄付をしたのか知らないが90億円金を集めたそうだ。それを幹部連中が猫ばばして今はすってんてんらしい。これを見て誰もがもう騙されないと考えるだろうと思う所だが、時と場所を変えて繰り返されると私は考える。反作用という人間の本質に根差しているからだ。
 社会を作る側とそれを破壊する側の戦いがずっと続くと考えると、現代社会が見えてくるように感じる。そして破壊する側が偶に勝ったりすると、無法地帯が出現してしまう。だから良識ある人間は常に戦いを続けて、建設者側を支えなければならない。そんな風に考えるようになってきた。