スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(張作霖暗殺犯は張学良?)

2019-11-05 10:25:54 | 日記
11月5日(火)
 日本人として自国の歴史を知らねばと思い、少しづつ勉強しているが、興味深い疑問にぶち当たった。
 張作霖爆殺事件であるが儀我誠也という陸軍少佐が張作霖に同行していて、なんと列車が爆破された時、張作霖の一つ隣の椅子に座っていたという事なのだ。儀我少佐は奉天軍顧問との肩書だったそうだが、ならば張作霖と同席していた理由は分かる。その儀我少佐はかすり傷程度の負傷で、新聞に載った彼の談話によれば、張作霖は気を失ったがやがて蘇生し、「なに大丈夫だ」といって列車を下り、急を聞いて駆け付けた奉天軍の車に乗って、自宅に向かったという事なのだ。両手両足を吹き飛ばされて虫の息だったとの、従来聞いていた話とあまりに違い、吃驚したわけである。
 張作霖爆殺は1928年の事である。儀我大佐(昇進)はその後盧溝橋事件直後の1937年に天津特務機関長となり、同年8月に死亡している。公式発表は病死であるが、儀我大佐が連隊長だった時の部下だった石坂准尉は、当時部隊内では儀我大佐は支那人に毒殺されたと言われていたとのことである。何かミステリアスな臭いのする話だ。ミステリアスといえばパソコンで”シナ”と打つと必ず”志那”と出る。他の単語は最初は変な変換をしても数回打つと正しい変換がされるが、”志那”だけは何回打っても学習しない。誠にミステリアスは事象ではないか。
 当時ソ連も日本も張作霖と対立していた。ソ連は張作霖が満州に戻り日本との連携を強めれば、満州侵略が難しくなると、張作霖爆殺を意図したかもしれない。しかしその後の張学良との戦争で圧勝したように、軍事力に絶対的な自信があるから、何が何でも今張作霖を殺さねばならないという程の、強い動機はなかったと思う。日本も同様で満州に逃げ帰った張作霖は日本に頼らざるを得ない、大元帥になった時とは事情が違うから、再び利用できないものでもない、だから絶対に殺さねばならないとの動機まではなかったと思う。
 それにヒットラー暗殺未遂に見るように、爆殺は確実性に乏しい。現に隣にいた儀我少佐がぴんぴんしているではないか。張作霖が乗った列車は20両もあって、その8両目が張作霖専用車だとは分かっていても、爆破時点で確実にそこに張作霖が居るとは限らないではないか。何かの調子で隣の車両に行っている可能性はないのかと、私などは心配する。ソ連や日本がやったにしては杜撰な作戦だったように思えるのだ。
 そこで張学良であるが、もし彼がその時すでに易幟を決心していたとすると、張作霖は確かに邪魔な存在である。また張作霖が帰還すれば彼は満州における絶対的な権力者ではなくなる。彼は西安事件を演出した男でもある。相当に、決断する男であったように思える。
 張学良ならば仮に爆殺に失敗しても、治療名目で自宅に匿い、そこで殺すことが可能だ。虫の息ならばまず病院に搬送するのが普通だと思うのだが、張作霖の自宅に運んだというのが気になるではないか。張学良には動機も確実性も十分にある。また爆破時点で列車の速度は時速10キロであったと聞く。8両目が差し掛かったタイミングで爆破する為にはそれくらいスピードを遅くする必要があったと思われるが、その工作がソ連や日本に出来るのだろうかとも思える。
 ただ支那人の浮浪者を調達したのは、河本大作だったのは、実際の調達役の日本人の証言からして確からしい。河本は真っ先に日本軍から、爆破実行犯として疑われている。この辺の整合性がつかないが、謎に満ちた事件である。
 それと昭和天皇が「当初聞いていたのと話が違う」と、田中首相を叱責し、それで田中は辞職したとのことだが、「当初は河本の仕業と思い込みましたがよく調べてみるとそう断定できなくなりました、しかし疑惑は残りますので行政処分としました」と答えれば、筋の通る答弁ではないか。恐らく田中はそう奉答したと思うが、それでなぜ昭和天皇は怒ったのだろうか。昭和天皇に河本犯人説を誰かが吹き込んでいて、そちらの方を信じたのだろうか。