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和太鼓と相撲甚句が大好き!家族太鼓山本家(かぞくだいこやまもとや)です。楽しむ事が上手くなる初め~の第1歩♪

神戸で【元関取が作る本物の味】な、ちゃんこ鍋屋を営んでおりました。私はお関取じゃ有りませんよ(笑)“オカミサン”でした。

【家族太鼓山本家に訪問下さった皆様へ】

山本家族3人だけで産声をあげた≪家族太鼓山本家≫ですが、神戸から舞鶴に越して来て、色んな出会いが有り、現在は家族だけでなく幅広い年齢層の友達の集まりになりました。 笑顔と心の温かさにあふれている稽古場でのみんなは、血はつながっていないけれど、まさに『家族』のような仲間です。 家族太鼓山本家への連絡・入会希望問い合わせなどは、kazokudaiko-yamamotoya-aty(アットマーク)ymail.plala.or.jpにお願いいたします。 尚、(アットマーク)は、@に書き換えて送信してください。 【コメントを書き込んで下さる皆様へ】 なりすまし・嫌がらせ・個人攻撃等には、返信コメントを控えさせていただくか、場合によっては、削除させていただきます。

舞鶴和太鼓フェスティバル。

2008年11月30日 | 日々大切に生きたい。
ピンポーン
打ち上げから帰ってしばらくすると、ベルが。
なんと、ご近所さんがお家に来てくれました。
『本当は、会場で渡そうと思ったのだけど、
太鼓とかたくさん有るし、
荷物になると思って自宅に届けに来たよ

ステキな花束をいただきました。
私の大好きなピンクと黄色のガーベラが
その場でいただくのも嬉しいけれど、
全部、自前太鼓の私にとって、
確かに荷物になります。
本当にわかってくれての心使い。
有難うさっそく玄関に飾りました。


そうです。今日は、和太鼓フェスティバルでした。

木村優一先生(和太鼓松村組)作曲の『風廻~ふうかい~』を、
演奏しました。
私が木村先生から教えていただいたこの曲は、
上級者向けの曲として作曲されており、
和太鼓経験の豊富な、神戸の仲間と仕上げて来たものです。
その『風廻~ふうかい~』を、舞鶴に持って帰り、
舞鶴和太鼓フェスティバルで、家族太鼓山本家として
演奏したいと打ち明けた時、
木村先生の一瞬驚いた顔は、
すごく脳裏に焼きついています。
驚かれた後に、
『いいですけど・・・・出来ますか?

『出来ます。大丈夫です。やらしてください。』
今になったら、なんでそんな自信たっぷりに言えたのか、
ちょっと恥ずかしくなりますが、
でも、今日の演奏は、木村先生の思いを
絶対に裏切らない演奏だったと思います。
先生、DVD出来上がったらお見せしますね。

そう言えば、当時、最年少だったnagiちゃんを始め、
三好大地さんのコンサート『森の音楽会』の
舞台に、大地さんと一緒に立つんだと、
チーム一丸となって取り組んだ2年前。
『ゆずり葉』も、難しかったですね。
でも、大地さんも『よくここまでやってくれたね。』と、
感心してくれましたね。
大地さんのお家まで行って、稽古もしましたね。
その後の夕飯が楽しかったですね。
なーちゃんが、火をおこしてくれて、
kawaeさんにスゴイ!と感激されていました(笑)
その火でみんなで外で調理して、
キャンプ気分でしたね。

そう考えると、私たち、家族太鼓山本家は、
家族に支えられ、そして、プロの太鼓打ちさんとの、
温かなご縁で、ここまで育ててもらったのですね。
『ゆずり葉』と、『風廻』。
とても思い出深い曲ですね。


ウチのメンバーは、9人ですが、
今日は、8人で打ちました。
なーちゃんは、中学生になってお休み中。
でも、そのなーちゃんの母、
のんちゃんが作ってくれた衣装を着ての演奏。
なーちゃんも、一緒に舞台に上がっている気持ちです。

家族太鼓山本家と言うだけ有って、
家族全員が舞台に上がっているので、
演奏中の写真が有りません
演奏後、記念撮影





今年の衣装は、上は、着物柄のタンクトップ。
和柄でまとめてはいますが、
デザインは、4種類です。
ボトムは、真赤のドレープのすごく綺麗なスカート。
風に揺れる・・・・とでも表現しましょうか。
動くと、そのドレープがゆれて、より素敵なんです。
まさに『風廻~ふうかい~』にピッタリな衣装です。

昨年は、真っ白なドレス。
今年は、真赤な衣装。
どちらも、私の大好きな女性太鼓打ち、
炎太鼓さんの衣装への憧れが、
いっぱい詰まっています。
ちなみにこれが去年の衣装、真っ白なドレスです。



で、今年の記念写真。
なんで募金箱も一緒に写っているかと言いますと、
この募金箱は、ウチのメンバーのお手製なんです。
竹で作った募金箱に、
大太鼓を打つ人形まで竹で作ってあって、
素晴しい力作です。


そして、演奏後の楽しみは、
やっぱり打ち上げ。
東来さんに行ってきました。

家族太鼓山本家にとって、もう定番である
東来さんでの食事。
何を食べても、美味しいんです。
鶏モモ唐揚げ(子供達が大好き)
酢豚(私が大好きでリクエストしていました)
鶏ムネ肉のレモンあんかけ(ムネ肉なのにジューシーでビックリ)
まいづるなちゃんぽんの変形版。あんかけ飯
エビのマヨネーズソース和え(マヨネーズも自家製)
中華風お刺身(ヒラメでした。)

出てくるお皿、出てくるお皿、
あっと言う間に無くなり
『写真撮るん忘れたぁ~

お箸をつける前に撮れた貴重な1枚(笑)
鶏ムネ肉のレモンあんかけ。


食べながら、ずっと気になっていた、
夫・星君(仮名)。
今年のネタは何だろう・・・・。

昨年は、マギー審司
その前は、マツケンだった。

ここで昨年を回想してみよう(笑)
     
うんうん、大人も子供も、
ミッキーの耳で、マギー審司になりきっていた(笑)


ところが、今日は、途中で本当に寝てしまった
夫・星君(仮名)。
無理も無い。最近は通常の仕事に加え、
大きな行事の関係で、休みの日にも、
出勤していた。そして、今朝は、
夜中の2時に、職場から自宅に電話がかかってきた。
とても大きな事故らしく、緊急出動となった。

連日、ものすごく睡眠不足な夫・星君(仮名)。
皆を、クスッと笑わせてくれる事が大好きな
夫・星君(仮名)だが、さすがに寝不足には勝てなかった。
来年、楽しみにしてるからね、星君

和太鼓フェスティバルのリハーサルでした(^^♪

2008年11月29日 | 日々大切に生きたい。
今日は、和太鼓フェスティバルの、
各団体ごとのリハーサルでした。
家族太鼓山本家も、みんな揃って行ってきました。

『あぁ(*^^*)楽しみやわぁ明日。』
『ほんまやなぁ』
と子供たち。

まぁ前向きな子供たち
(^-^)v
そうだよね。いっぱい稽古してきたもんね。
と、ほほえましく
その会話を見ていました。

『東来さん美味しいもんなぁ』
『ほんまやなぁ。早く打ち上げしたいなぁ
(^_^)/□☆□\(^_^)』


(((・・;)
え?!そう言う意味かいな(笑)



舞鶴和太鼓フェスティバル
11月30日(日)
13時30分 開演



ぜひ、皆様いらっしゃってください。


そして、木村優一先生(和太鼓松村組)のブログに、
先日の、家族太鼓山本家の稽古日の事を、
書いていただいています。
↓↓↓
和太鼓松村組ブログ

はい!先生!頑張ってきます。
そして、楽しんで来ます\(~o~)/

歌謡フェスティバル~舞鶴市総合文化会館~

2008年11月22日 | 日々大切に生きたい。
明日、11月23日(日)は、総合文化会館の25周年で、
歌謡フェスティバルが有ります。
私は、坂本冬美さんのデビュー曲、
『あばれ太鼓』を唄います。
今日は、リハーサル。

先日、NHKの歌謡コンサートを見て、
娘・むすびちゃん(仮名)が『これが良いわ』と、言った事。
それは、浅野太鼓楽器店の娘さんが、
坂本冬美さんの横で、太鼓を打つ姿。

綺麗にスッと伸びた右腕に惚れ込んだ様で、
私の横で、太鼓を打ってくれる事になりました。

歌謡フェスティバルなのに、
太鼓を持っていって良いものか、ちょっと悩みましたが、
会館側も『小道具でしょ』と、快く了承してくださいました。

明日、娘・むすびちゃん(仮名)と私は、
坂本冬美&浅野町子になってきます。

で、リハーサルに行く前に、家族でのど慣らし。
歌謡フェスで歌うのは、私だけなんだけど、
何でか、夫・星君(仮名)も、娘・むすびちゃん(仮名)も、
ノリノリで、1時間なんて、あっと言う間でした。

毎回、家族でカラオケに行くと笑わせてくれるのが、
夫・星君(仮名)の歌。
決して、そんなに下手くそではないのだけれど、
たまに音がはずれて、恥ずかしそうに笑う夫・星君(仮名)の姿が
またおもしろくて、笑わずにはいられないのです。
ほんと、夫・星君(仮名)は、ムードメーカーです。

夫・星君(仮名)、今日もやってくれました。
そのおもしろさに、娘・むすびちゃん(仮名)は、
あまりにも笑いすぎていて、普段は何にも言わないのだけれど、
今日は、『私の顔、載せたらアカンでぇ』と、
念を押されました
なので、モザイクです

初積もり雪は、しあわせの匂い。

2008年11月20日 | 日々大切に生きたい。
朝起きて、寒いなぁと思ったら
やっぱり雪でした。

初雪です。
ガレージの屋根から
少しはみ出したオシリに、
初積もり雪

舞鶴に初めて来た頃を思い出します。

この寒さ、この空気、この匂い。
毎年、初雪の日は、
夫・星君(仮名)と出会えて、
本当に良かったと、あらためて思う日です。

もうすぐ6回目の家族記念日です。

しあわせです。有難う。

木村優一先生有難うございました。

2008年11月16日 | 日々大切に生きたい。
今日は、待ちに待った木村優一先生
(和太鼓 松村組)の指導日でした

私の咳の発作や通院などで、どうなる事かと
数日前まで少し不安もありましたが、
肺がん検査も心配無しと言われ
気持ちよく今日を迎えることが出来ました

今までも、コンサートに行ったり習いに行ったりと、
神戸や、他の場所で出会う事は何度も有りました。

まだ、松村組さんが素人さんだった頃、
震災の頃に観たのが初めてなので、
もう10年以上続くご縁です。

でも、自分達の稽古場に来てくださるのは初めてなので、
大人も子供も、ワクワクドキドキして
準備をしました。



昔の話になりますが、
娘・むすびちゃん(仮名)が、保育園児の時、
神戸祭りの夢太鼓の舞台、
トリで和太鼓松村組さんが演奏されました。
舞台の真ん前にかじりつき、真剣に見入っていた
娘・むすびちゃん(仮名)。

7年ほど前のあの頃の私は、
まだ『MYバチ』1組をバックに入れて、
仕事の帰りに和太鼓サークルに通う。
そんな感じでした。

バチ1組しか持っていなかった私。
あの時は、まさか自分が主宰となり、
平大太鼓・長胴太鼓・締太鼓
担ぎ桶太鼓・桶胴太鼓・うちわ太鼓、等など、
大小合わせて、15基もの『MY太鼓』を
持つこととなり、素晴しいメンバーに囲まれて、
自分のチームを作ることになるなんて、
想像もしていませんでした。


さて、話を今日の稽古に戻します。

まずは、先生が入ってこられた時に、
ファンファーレ的に短い演奏をして、
『よろしくお願いします』と挨拶をしようと決めました。

夫・星君(仮名)に体育館の外で待ってもらいました。
先生の到着予定時刻は、お昼の12時頃。
先生の車が着いたら夫・星君(仮名)が、
私の携帯を鳴らしてくれる約束です。
それが合図です
皆それぞれ自分の太鼓の前で構えます。
先生が入ってこられました。

はっ
Nagiちゃんの掛け声で演奏開始
みんな緊張していて、私も上手く演奏できたかどうか、
ちゃんと覚えてないのですが・・・・

せっかくだから、歴代の衣装も見てもらおうと、
色んな衣装で、8人が演奏しました。


①金色ハカマに、帯の生地で作った上衣。
  お義母さん・ヒロゴン(仮名)が作ってくれた、
  一番最初の衣装です。この当時は、メンバーも
  少なかったので、2着しか有りません
②ジーンズに長ハンテン。
  急にメンバーが増えたものの、
  最初は衣装と言う衣装も無くて。
  どうして良いか解らず、とりあえずハンテンを購入。
  ・・・・が、色んな人からレディース?!と言われました。
  さくら吹雪の長いハンテンですもん・・・・
③和柄の2部式着物風衣装。
  これは、家族スタッフののんちゃんが、
  縫ってくれた衣装。
  さすが和裁士。
  11人が、これを着ました。
  大人と子供で少しデザインが違って、
  とてもステキな衣装です。
  和太鼓フェスティバルでも、
  他のチームや、お客様からも、
  『ステキやねぇ。』と絶賛していただきました。
④真っ白のドレス。
  これも、家族スタッフののんちゃんが
  縫ってくれました。
  前年の和太鼓フェスティバルとは
  また違って、洋風です。
  これも評判良かったです。
  これを着たいために、他のチームから、
  移籍したいといわれる人が出たほどです。

こんな色んな衣装を、木村先生にも見ていただきました。


さてさて肝心の稽古ですが、
私が伝えるのとは違い、
皆、真剣に聞いています。
私だと、どうしても『山ちゃん。』
『むすびちゃん(仮名)のおばちゃん。』と、
甘えが出るけれど、
木村先生の前では、皆ケジメついて
ピシッとしてます。

とは言っても、ずっと緊迫した空気かと言うと、
これが違うんです。

何だか、クスッと笑ってしまう。
そんな和みの空気をかもし出しながら、
ピシッと稽古を付けてくれる木村先生は、
すごいなぁと思いました。

これは、教え方が上手いと言うだけでなく、
教え方に人柄が表れるんだなぁと、
感慨深く思った次第です。

確かにいっぺんには上手くはならないけれど、
今日、一番最初に演奏した『風廻』と、
3時間経って演奏した『風廻』は、
全然違いました。

『次の稽古日まで時間が空いたら忘れてしまうわ。』
みんな、すごく自覚が出てきて、
通常の稽古日までに、1回集まろう。
と言う事になりました。

さて、和太鼓フェスティバルまであと2週間。
みんな、がんばろうね

ほんと、ウチのチームメイトはみんな良い人ばっかりで、
私は、良い人に恵まれたなぁと、嬉しいかぎりです。

告知せず。

2008年11月15日 | 日々大切に生きたい。
いま、テレビで、
『告知せず』を見ている。

私の父は肺がんで亡くなった。
心臓の裏に出来た肺がんは、
レントゲンだけでは発見が遅れた。

6月に、『風邪が長びいでいるだけ』と言われ、
どうしても咳が止まらないから秋に病院に行った。
すでに肺がんの末期だった。

私は『診療放射線技師になる』と、
父の葬儀で言った。
親戚中から避難轟々。
将来赤ちゃんを産むのだから、
絶対反対!と、言われた。

親戚の気持ちも解るが、
心臓の裏の肺がんをも見逃さない。
経験があるからこそ撮れる放射線技師になるんだ!
そう真剣に思った。

色んな事情が重なって、
それは実現できなかったけれど、
父に告知しなかった私たち家族の判断は
正しかったのだろうか。

でも・・・・
父は、悟っていた。
弟の就学資金を通帳から出していた。
某専門学校に通っていた弟の就学資金は、
年間、何百万。
亡くなるとすぐには出金できない事を、
まるでわかっていたように、現金で用意していた。

私だったらどうだろう。

今の私ならこう思う。

告知して欲しい。

いっぱいやりたい事が有るから。

またひとつ・・・・。

2008年11月10日 | 日々大切に生きたい。
またひとつ私のそばから光が絶えました。

人の命というものは、まさに紙一重。
強くもあり、はかなくもあり・・・・。

ほんの2週間前まで、私の目の前で輝いていたのに、
その光は途絶えました。

お見舞いに行けなかった。
行けばよかった。

いつもアクティブな私。
なんで行動に移せなかったんだろう。

久々の後悔。

人の命は・・・・。

2008年11月03日 | 日々大切に生きたい。

人の命というものは、
強くもあり、はかなくもあると日々思う。
事件や事故や火事で、突然死を迎えることになった友人知人、
闘病生活の末亡くなっていった親と友達。
色んな死に直面してきた。

子供の時には感じなかった思い。
いや、あまりにも漠然としていた感覚。
でも今は、一日一日を大切に、
精一杯生きたいという気持ちになる。


『ここです。これです。腫瘍が出来ています。』
画面に映し出された私の子宮の中。
『手術は早ければ早い方が良いです。
明日、入院の準備をしてきてください。』

20代前半で、突然【子宮内壁の腫瘍】を、
見せられた私。
病院からどうやって帰ったか覚えていない。
目の前が真っ暗になるとはこんな事を言うのだと、
何にもする気が無くなった。
やろうと思っても、体が動かなかった。


『大きな病院でもう一回見てもらわなあかん。』
動けない私を、父が無理矢理大きな病院に
引っ張って行った。
空きベットが無いと言う病院。
『若い命を亡くせというのか!』と
父は看護師さんに向かって病院の廊下で怒っていた。
でも空きベットが無いものは仕方ない。
ベットの空いている小さな病院に戻るか、
父も私も昔から絶大なる信頼を置く、
この総合病院で最後まで診てもらうか。

私は・・・・後者を選んだ。

先生から『絶対安静。』と言われる。

2階に有った私の部屋だが、
その日から1階のピアノの部屋に、
布団を敷くようになった。
ずっと寝ている。
しんどくて動けもしないから寝転んでいるだけで、
寝ようと思って寝ているわけではなかった。

『絶対安静。』先生から何度も言われた。
タクシーでの通院。点滴・注射・飲み薬。
しばらくして
『腫瘍じゃないって。骨盤腹膜炎やって。
骨盤腹膜炎を、腫瘍なんて、ひどいなぁ。
誤診やで。そやから町医者ではアカンのや。
お父さんと総合病院来てよかったやろ?
あの町医者で手術してたら、
今頃子宮が無くなってたかも知れん。
ほんまひどい誤診や。』と
父から言われた。

私は、何やそうやったんか、
そやけどガン宣告された人って、
こんな気持ちになるんや。
そう思った。

でも、ものすごく辛い治療だった。
点滴で、吐き気がして、何度も吐いた。
点滴が終わっても、すぐには立てなかった。
めまいがして、歩けなかった。
骨盤腹膜炎ってこんなにしんどいんや・・・・。
今のように、インターネットで
何でもすぐに調べられる時代じゃなかった。
だから、父の言葉を本当に信じていた。

それから1年が過ぎた。
私は元気に会社に復帰していた。
が、突然父が肺ガンだと宣告された。
19年前の今日、11月3日だった。

『本人に、伝えるかどうか、
ご家族で判断してください。』
と言われた。
弟も妹もまだ未成年。
母と私と、2人で判断することとなる。

私は母にくらいついた。
『私は結局は骨盤腹膜炎やったけど、
ガン宣告された時の気持ちは、
私が一番良く解る!
何にもやる気を無くす!
お父さんに言ったらアカン!
しかも、今11月やで!年内持たないって
先生言うてんねんで!
新しい年まで2ヶ月足らずやのに、
年越せないって言うてんねんで!
お父さんにそんなむごい事、言えん!』

家族から父には肺ガンである事は告げなかった。
病院も、重度の肺炎及び結核と、
父にはウソを説明してくれていた。


12月に入った。
恋人達はイブの夜の準備の為に、
三ノ宮や元町に繰り出す。
クリスマス戦線真っ只中のデパート。

そんな中、私は、自動車学校に通っていた。
電車が便利な都会。
私は、免許取得に全く興味なく過ごしてきた。
でも、父は車が大好きだ。
父が生きている間に、『免許取ったよ』と、
言いたくて、自動車学校に通い始めていた。

私の喘息の咳がひどく、行くのを迷ったが、
『仕事忙しくて1週間会えてないなぁ。』
自動車学校の後、父に会いたくて、
無理して父の入院する病院に行った。

『あほやなぁ。お前の風邪うつったら、
ワシ退院が延びるやろ。むこう向いてくれや。
もう帰ってもええで。』
重度の肺炎及び結核と言われている父だ。
風邪で肺炎がひどくなっては困ると思ったのかな。
喘息の咳やから、うつらへんのに。
そう私は思った。

しかし・・・・。
病室を出ようとした私の後姿に父はこう言った。
『お前の病気は、ワシが代わりにもらったで。
お母さんらのこと頼むで。』

私は、そこで初めて気がついた。

父は自分で肺ガンと悟っている事。
そして、私の病気が骨盤腹膜炎ではなく、
本当に腫瘍だったんだと言う事を。
そりゃそうだ。『ここです。これです。』と言われ、
私自身で、この目ではっきり確認した画面だったのだから。


翌朝、私の職場に電話がかかった。
急いで病院に行くも、すでに父の意識は無かった。
12月21日。55歳の父の命の光は途絶えた。


私が通院していた時、
『絶対安静。』医者から何度も言われた。
『とても強力な点滴ですので
気分が悪くなるかもしれません。
吐き気がしたらこれに吐いて下さい。』
『炎症によって、
卵管が癒着しているので、卵管を通す手術をします。
しかし、将来子供は出来ないかもしれません。』
手術の時、そう言われた。

それでも父は、私に『骨盤腹膜炎や。』と言っていた。
お医者さんと相談し、私にはそう言おうと
結果を出したのだろう。

点滴中に本当に吐いた。何度も吐いた。
何時間も処置室に居て、タクシーで帰る。
ベットが空いていないから、寝るのは家に帰った。
そんな治療をしていた。

でも父は、『骨盤腹膜炎って大変やなぁ』と
笑っていた。
いや、今思えば、無理して笑顔をつくっていたのだ。
ツジツマの合わない事も多々あることにも、
後になって気が付いた。
だって、頑固で短気な父が、
私を最初に診た産婦人科の、
誤診に普通なら黙っているわけが無いのだ。

これも20代前半の話だが、
私が仕事からの帰り道、家への最寄り駅を降りると
『オネエチャン、ちょっと遊ばへんか?』と、
突然腰に腕を回してきたオッサンが居た。
気持ち悪くて、ちょっと恐怖感を感じて、
腕を振りほどいて小走りで帰宅した。
顔も何も覚えてないけど、気持ち悪かったわぁ。と、
この事を話したら、
父は、私を引っ張って
警察へ怒鳴り込みに言った(汗)
『お父さんの、娘さんを思う気持ちは解りますが、
何の手がかりも無ければ
見つける事も出来ません・・・・。』と、
お巡りさんは困っていた。
でも、父は『娘が怖い思いしたんや!
何としてでも見つけるのが警察や!』と、
どう考えても無理な注文をしていた。
横に居て、何も言えなかったけれど、
お巡りさんが気の毒だった。

本来の父なら、
『良性やって。ほんまの病気は骨盤腹膜炎やって。
骨盤腹膜炎を、腫瘍と間違えるなんて、ひどいなぁ。
誤診やで。そやから町医者ではアカンのや。
お父さんと総合病院来てよかったやろ?
あの町医者で手術してたら、
今頃子宮が無くなってたかも知れん。
ほんまひどい誤診や。』
そんな事を私に言う前に、きっとその町医者に、
殴り込みに行っている(汗)
『お前はどんな間違いしたかわかっとるんかい!
骨盤腹膜炎を、腫瘍って言われた時、
ウチの娘がどんだけ辛い思いしたんか
お前はわかっとるんかい!』くらいの勢いで、
きっと怒鳴り込んでいる。
でも、この当時の父は、『骨盤腹膜炎で良かったなぁ。』
何度もそう言っていた。
そう言うだけで、怒鳴り込みにも行かなかった。

父の芝居に気付く余裕は無かった。
その点滴はするのがイヤなくらい、
しんどかった。めまいがした。歩けなかった。
思考力も低下していたのだろう。
父の言うとおり、骨盤腹膜炎だと思っていた。


祖父は父のお葬式で、『なんで息子のお前が先に逝くんや。
お前はまだ55歳やぞ。
ワシが代わってやりたい・・・・。』と、
号泣していた。
『お前の病気は、ワシが代わりにもらったで。
お母さんらのこと頼むで。』
父の言葉をまた思い出した。
私、25歳だった。



大昔、私が高校3年の時、某都市銀行を受けた。
合否の結果は、銀行から進路指導の先生に連絡が入り、
進路指導の先生から家に電話がかかるようになっていた。

予定の日にも、そして予定の日を過ぎても
かかってこなかった。

進路指導の先生に相談に行った。
『え?!かけたよ。お父さんに合格だと伝えたよ。』

郵便自動車を運転している父は、
私を郵便局に就職させたかったのだ。
父の父(私の祖父)も
昔、郵便局の窓口に居た。

私は郵便局の試験(当時の郵政・公務員の試験)は、
受けなかった。
学校からの電話をもみ消しても、
私の銀行への就職は変わらない。
なのに父は、何を思ったか、
合格の電話を私に隠した。
よっぽど郵便局に行って欲しかったのだろう。
進路指導の先生からの合格電話をもみ消すのだから・・・・。
そんな、ものすごいヘンコツとしか思えないような、
頑固さを持った父だった。

だけど、そんな父のおかげで、
私は骨盤腹膜炎だと思い込み、
治療を受け、手術も終えた。
いまこうして元気に生きている。
生かしてもらっている。


11月23日は、亡き父の誕生日である。
生きてくれていたら、74歳だ。

偶然、私の太鼓と相撲甚句を見て、『演歌もどうや?』と
拾って下さった先生のおかげで、
舞鶴市総合文化会館開館25周年記念
歌謡フェスティバルにも出演することが決まった。
それが、11月23日だ。
心をこめて唄おう。
お父さんの好きだった『あばれ太鼓』を。