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和太鼓と相撲甚句が大好き!家族太鼓山本家(かぞくだいこやまもとや)です。楽しむ事が上手くなる初め~の第1歩♪

神戸で【元関取が作る本物の味】な、ちゃんこ鍋屋を営んでおりました。私はお関取じゃ有りませんよ(笑)“オカミサン”でした。

【家族太鼓山本家に訪問下さった皆様へ】

山本家族3人だけで産声をあげた≪家族太鼓山本家≫ですが、神戸から舞鶴に越して来て、色んな出会いが有り、現在は家族だけでなく幅広い年齢層の友達の集まりになりました。 笑顔と心の温かさにあふれている稽古場でのみんなは、血はつながっていないけれど、まさに『家族』のような仲間です。 家族太鼓山本家への連絡・入会希望問い合わせなどは、kazokudaiko-yamamotoya-aty(アットマーク)ymail.plala.or.jpにお願いいたします。 尚、(アットマーク)は、@に書き換えて送信してください。 【コメントを書き込んで下さる皆様へ】 なりすまし・嫌がらせ・個人攻撃等には、返信コメントを控えさせていただくか、場合によっては、削除させていただきます。

人はいつか灰になるけれど。

2008年06月29日 | 日々大切に生きたい。

人はいつか灰になる。
でも、今生きている事には、
ものすごい意味がある。

生きている事、生かされていること、
命の大切さ・・・・。
わかっていても、それを毎日毎日
常に意識しながら生きていく事は
簡単には出来ません。

ここ数日の間で、自分自身にも、
友達にも、知り合いにも・・・・。
私の周りで、命の大切さをあらためて考える
出来事が続きました。
命の大切さを確認できる時でもあり、
悲しく、辛い時でもあります。

そんな時に、職場のトイレに、
活けられたあじさいを発見。
毎日、胸がグッとつまるような日が
続いていた事も有ってか、
それがとても輝いて見えて、
思わずフォトを撮ってしまいました。

チューリップまつりや、
ヒマワリ畑。
広大な土地に植えられた、
何万本のチューリップやヒマワリ。
花を見ることが大好きで、
そんな大きなイベントに、
いつも出掛けては、その美しさに、
感動をもらっていました。

でも、このあじさいは、
その大きなイベントでの感動とは別の
広く深い癒しを私の心にくれました。



数日前に叔父さんが倒れ、救急車で搬送されました。
意識の無い日々が続いていました。
命よ、どうか助かって・・・・。と願う中、
昨日、意識が戻りました。
『良かった・・・・。助かった・・・・。』
喜びもつかの間、叔母さんを見て、
『あんた、誰や?』
何十年と連れ添った妻なのに、
わずか数日の間に、
それが誰なのか、判らなくなっていました。


もう、ものすごく昔の事だけど、
そこには、夢と希望が満ち溢れていました。
家も決まり、家具も入れていました。
彼は、親から自立し、先にそこに一人で住み始めました。
さて、結婚式について、詳しく決めよう。と、
言っていた矢先でした。
私は、20代の時、婚約者を失いました。
いえ、命は助かりましたが、
ある、とてつもない恐怖を体験した彼は、
記憶を失っていました。
私を誰だか、判らなくなっていました。
まるで、ドラマのような話ですが、
それは、私に突きつけられた、現実でした。

あの時の、私の悲しみ・苦しみを思い出すと、
叔母さんの事は、他人事ではなく、
でも、何もしてあげられず、
歯がゆい自分がただ居るだけです。


記憶が有った頃の、叔父さんの好きな事をさせてあげたら、
何か、思い出すだろうか・・・・。
どこか、好きな場所に連れて行ってあげたら、
何か、思い出すだろうか・・・・。

叔父さんは、腕利きの大工さん。
私の大切な大切な、大太鼓の台を作ってくれた人。
他の太鼓の台は、たいていが、太鼓とセットで買ったもの。
それを、なぜか私は、大太鼓の台だけは、
『作ってほしい。』とお願いしました。
一番大変な事なのに。

私達の演奏を見てくれたら、思い出してくれるかな。
夫・星君(仮名)とともに、
家族太鼓山本家のスタッフになってもらって、
大太鼓の台を、一緒に組み立ててもらおうかな。
そうしたら、思い出してくれるかな。
どうしたら、記憶が戻ってくれるかな・・・・。

言葉がでません。

2008年06月14日 | 日々大切に生きたい。
伸介さんの言うとおりです。
阪神大震災の時もそうでしたが、時間が経つにつれ、
だんだん、大きな被害状況が明らかになるでしょう。

壊れた道路を見ていると、
その先に住んでいらっしゃる方々が、
とても心配です。

元力士妻のmikiさんと同じく、力士妻つながりで、
仲良くしてもらっている、東北地方に住むお友達、
yukiさんと、お昼には連絡が取れて、
家族の皆さんが、無事だと確認できました。
でも、yukiさんが、『親戚と連絡が取れない・・・・。』と、
心配していました。

何をどう言って良いのかわかりません。
とにかくたくさんの方の命が助かってくれる事を、
祈るばかりです。

『歩こう会』~体育振興会~

2008年06月08日 | 日々大切に生きたい。
力士直伝・うどん入りちゃんこ鍋
好評(自分で言う・笑)のうちに『歩こう会』無事、終了いたしました

地域委員として担当するチビッコソフトボール大会と、
体育振興会・副会長として担当する『歩こう会』が、
時期的に、同時進行の為、ものすごい量の、
準備物が、私の背中にのしかかる・・・・
確かにここ数年で、とても広くなった私の背中だが、
今回だけは、耐えれるのかと言うくらい、
めちゃめちゃ気も体もしんどかった

思い返せば、4月のある日の事、
全くもって初めて、体育振興会たるものに携わる事になった私にとって、
未知の世界の、『第1回体育振興会・役員会』の日。
「『歩こう会』毎年カレーやったから、今年は、豚汁とか、
何か違うものはどうや?」との体育振興会会長のひとこと。
私には、まるで天からの声に聞こえ、
会長ったら、私に「待ってました」と言わせたいのね(笑)
と、都合の良いように理解し、思わず、
『じゃあ、ちゃんこ作らせていただきましょうか?』と、
言ってしまいました(^_^;)

だけど・・・・。
いくら作り慣れたちゃんこだからと言っても、
100人超の量を大なべでいっぺんに・・・・
初めての挑戦だぁ
・・・・でも、ちゃんこ鍋と和太鼓に関しては、
ついつい張り切ってしまう私なのでした。

雨だ雨だと言われ、ヒヤヒヤしていたここ数日
しかぁ~しちゃんこ鍋を食べてもらうには、
暑いくらいの天候に恵まれ、
ほんとうにありがたく、
『どんだけワシら普段の行いがええんやろなぁ。』と、
自画自賛する役員の面々でした(笑)

会長及び、役員さん、そして
私と一緒に食事担当をして下さった委員の方々も、
めっちゃ良い人ばかりで、
ホンワカと、和やかに、しかし、作業は、
ものすごいスピードで、こなされていったのでした。


「鶏ガラから本格的にダシを取りたいです。」の、
私のひとことで、朝の7時前から公民館に
集合することになってしまった関取衆。
じゃなかった、役員衆
『棟梁!ここは見とくから、中の準備も見てきてやって』と会長の声。
何で、私が棟梁やねん!と、くちごたえしつつ(笑)
ダシを取る作業は、外の役員衆に任せて、
公民館中の調理場へ。

各地域の委員さんの中から、
『手伝いますよ』と立候補して下さった
お母さん達と、野菜を切っていきます。
神戸に居た頃から今まで、色んなイベントで、
何度か、ちゃんこ鍋を作らせてもらったけれど、
今日が、一番スムーズに時間が進んで行きました。
もしかしたら、私が慣れて来たのかもしれないけれど、
良い人に囲まれて、気持ちよく作業出来たのは、
間違いない事実です

一致団結みんなの協力のもと、
ちゃんこ鍋も、めでたく炊き上がり・・・・。
(忙しくて、肝心の炊き上がりフォトが無い

さてさて、集合場所の学校から、大蛇伝説で有名な雨引神社までの、
『歩く』を楽しんだ参加者のみなさん。
ゲーム係の人たちは、食事までの時間、
宝探しや、ビンゴゲームで、皆さんを
楽しませてくれていました。

ゲームの時間も終わりのようです。

さぁお昼の時間です

みずなぎ高野学園さんから、購入したリサイクルできる丼に、
自慢のとりだんご&うどんを先に入れておきました。
1列に並んでもらい、各自その丼と、お箸をを持って、
前に前に進んでもらます。
そこに、アツアツのちゃんこ鍋を注ぎます。

『毎年、120~130人ほどの参加やなぁ。』
と、会長から聞いていたけど・・・・。
今年は、なんと160人の参加だったそうです。

参加者の皆さんにも、ひととおり丼が行きわたり、
ほっとひと息。
調理係も『いっただきまーす

後片付けを終えて、夕方、家に帰ると・・・・。
ピンポーン♪と、
リリリーン♪
が、4回・・・・5回・・・・6回・・・・。
地域委員のお仕事が、来るわ来るわ・・・・

あ~ものすごい密なスケジュール
でも・・・・。
朝4時に起きて、とりだんごのタネを作って、
公民館で合流し、皆と一緒に頑張った。
力を合わせて、ひとつのことを成し遂げた。
今日は、とてもすがすがしい気持ちです。

体育振興会の会長さん・役員さん・委員さん
そして、『歩こう会』に参加してくださった市民の皆様。
有難うございました

阪神淡路大震災。生き残った私に出来ること。

2008年06月01日 | 日々大切に生きたい。
阪神淡路大震災・・・・。
6400人あまりの方々の尊い命が奪われてしまった。
生き残った私に、いったい何が出来るだろう。

縁有って、私は5年前から、京都・舞鶴で暮らしている。

神戸市灘区の自宅、全壊・・・・。
一瞬にして、私達は、住む家を無くした。

新年会シーズンだった。
ちゃんこ鍋屋の仕事を終えたのが、真夜中。
日にちも、1月16日から1月17日にもう変わっていた。
明日も、いや、17日の今日も、ありがたいことに、
予約でいっぱいで、早くからの仕込みが待っている。
歩いて数分の自宅だが、もう店で眠ろう。
その方が、効率的だ。
だいいち、営業時間途中から、突然発熱し始めた清王洋。
38度を超えた熱。
お客様の帰った座敷の隅っこに、仮眠用の布団を敷き、
すでに倒れこんでいた。

洗い物を終えた私1人。
引退後も、180キロをゆうに超える元関取を、
いくら歩いて数分でも、自宅まで、
抱えて連れて帰ることは、絶対に不可能。

嫁いで来た、第一日目の夜。
そんな夜に、私はまだあたたかさが残る店の座敷で、
仮眠用の布団を敷いて、眠りに就くことになった。


なぜか突然目がさめた。
パチッと、目がさめた。
そして、なぜか後頭部が痛かった。
なんだ?考える間も無く、
ゴーッと言う、どこから聞こえるのかもわからない、
得体の知れない、気持ち悪い低音が聞こえてきた。
そして、突然の大きな揺れは、立ち上がるどころか、
仰向けの体を、うつ伏せにしようとしても、
寝返りを打つ事さえできず、
ただただ、そのうねりに身をまかせているしか
出来なかった。
座る事も、立つ事も、うつ伏せになる事も出来なかった。

変な例えだが、こう例えるしか良い表現が見つからない。
中華鍋をザッザッと振ると、
中の具材が、一瞬にして宙に浮き、
そして元に戻り鍋肌に叩きつけられる。
私は、その具材のようだった。
一瞬にして浮いた体は、畳の上に叩きつけられ、転げ、バウンドする。
自分の体なのに、自分の力では、コントロール不能な状態だった。
でも、恐怖感を感じなかった。
だって、何がおきているのか理解できなかったから。
何が何だか解らない、理解できない内に、
大きな揺れはいったん止まった。
揺れがおさまり、やっとその場に座る事ができた。
今のは、じ・し・ん?
そう、地震である事は理解が出来たが・・・・。
放心状態・・・・。
座ったまま、身動きが取れなかった。
明るくなって、後ろを見てみると、
だから、寒かったんだ・・・・。
バルコニーのガラスが、大きく割れていた。
防犯用の針金入りの強化ガラスを突き破り、
裏の家の2階の屋根が、ウチの店の1階のバルコニーの
ガラスを突き破って、私の背中に触れて、止まっていた。

近所の人に助けてもらうまで、
ずっと、閉じ込められていた。
助けてもらって、外に出て、
初めて、この地震の規模を知った。
たまたま、鉄筋コンクリート建てだった我が店。
中は、もうぐちゃぐちゃで、
酒瓶も、ビール瓶も、土鍋も、
そこいらじゅうに散らばり、全て割れて、
凄まじい店内だった。
どうやって入ったのか理解不能だが、
テレビは、カウンター席を飛び越えて、
厨房の中に転がっていた。

でも、たまたま仮眠していた場所には、
何も飛んでこなかった。不思議だった。
建物は一応建っていた。
だからまさか・・・・。想像もしていなかった。
助けられて、店を脱出した時、周りの家が全て無いだなんて。

古い町並みだった。古い住宅密集地の中に紛れ、
ウチの店の鉄筋コンクリートビルは建っていた。
助け出されて外に出た時は、
木造の密集した建物は、ほとんどが、
1階はぺしゃんこで、2階の屋根は、
手で届くくらいの位置に有った。
密集した家で、見えなかったはずの道が、
遠くに広がっていた。なんであの道が見えるんや・・・・。


震災当時、神戸で色んな方から色んな形で助けていただいた。
元気をいただいた。
その時のご恩を、今何かの形でお返しできたら・・・・。
と日々思い舞鶴で暮らしてる。
神戸を離れた私に出来ること・・・。
舞鶴で、誰かの役に立てること・・・。

障害児学級に深く関わり、総合の時間、週1回の割合で、
授業を受け持ち始めたのも、
障害児・者の地域生活を考える会に携わりだしたのも、全部こんな思いから。
義務感じゃない、同情でもない、
ただただ今まで受けたご恩を返したい。
誰かの役に立ちたい。そんな気持ち。

和太鼓だってそう。上手いだけを求めるのじゃない。
ほんまに真心のこもった、
何でも話し合える風通しの良いチームが作りたいと思った。
だから、ただ単に『入って!入って!』
といった方法では人を集めていない。
急がない。知り合って、ゆっくり友達になって、
信頼関係をじっくり作っていく。
そんなメンバーと、楽しく演奏したい。

家族太鼓山本家のプロフィールを見たり、
そして、私達の演奏のMCを聞いたりして、
今さら震災なんて・・・・。10何年もの前の話やん。
いつまで言ってんの?毎年おんなじことを・・・・。
プロフィール変えたら?と、
非難・否定をする人が居ても、
私の気持ちは変わらない。

10人十色、人ぞれぞれ。
『いつまでも、震災の話なんて、やめたら?』
その人たちの感情や、発言を、
私がコントロールすることは不可能だし、
そう感じ、そう言ってくる人が居ても、
それは仕方が無い。

でも、言われてあらためて考えてはみた。
結果・・・・。
家族太鼓山本家のメンバーの中で、
確かに震災に遭ったのは私だけだ。
私、ひとりだけ・・・・。

でも、やはりこれからも私は、
プロフィールから、震災の話を取り消す事は、無いだろう。
そして、演奏の合間のMCに、震災の話をする事も有るだろう。
だって、私が作ったチームなのだから。

震災で辛い思いをしたから、元気で居れる今に感謝できる。
命が助かった事への感謝の気持ちが心に有る。

震災が有ったからこそ、命と家族の大切さを
あらためて考える事の出来る今の私が居る。

震災が無かったら、
家族太鼓山本家を作っていたかどうかわからない。
震災が有ったからこそ、今の家族太鼓山本家が有る。

震災の事を抜いては、家族太鼓山本家を語れない。



家族太鼓山本家プロフィール
    ↓↓↓
http://www.taiko-web.com/yamamotoya.htm