八ッ場ダム建設中止をめぐる混乱が簡単には収まりそうにない。
”情”と”理”の戦いになってしまっているところが、解決を難しくしている。
いわば非対称の争いといえるだろう。
”理”は建設中止にある。
建設続行は”情”に属する。
そしてマスコミは”情”の部分を煽っている。
八ッ場ダム中止 公約至上主義には無理がある(9月24日付・読売社説)
民主党の政権公約(マニフェスト)墨守の危うさが、最初に顕在化した例といえよう。
国土交通省が群馬県内に建設中の八ッ場(やんば)ダムのことである。
不思議な文章である。
マニフェストを掲げて戦った政党がそのマニフェストを実行に移すことを、”マニフェスト墨守の危うさ”と言う。
マニフェスト不履行のススメとでも言おうか。
しかしこれは読売に限らず全マスコミの基本的な姿勢のようである。
民主党は衆院選のマニフェストで、無駄な公共事業の実例としてこのダムを名指しし、政権交代後の建設中止を明記していた。
前原国交相は就任直後、公約通りダム建設中止を宣言したが、建設推進を求める地元住民らの意向を無視した一方的な発表だったことで、反発が一気に広がった。
事態がここまでこじれた以上、前原国交相は建設中止発言を撤回し、白紙の状態で自治体や住民と話し合うべきではないか。
「事態がここまでこじれた以上」というが、建設反対運動の激しさはこんなものではなかったはずた。
何年にも渡る反対運動が繰り広げられているときに、国交省にダム建設の白紙撤回を読売が求めたかどうかは分からない。
政権発足まだ10日足らずである。
「ここまでこじれた」というのは早過ぎるであろう。
それと並行して、ダム建設のメリット、デメリットを慎重に再検討し、政府としての最終方針を決めても遅くはあるまい。
50年以上前に計画が持ち上がった八ッ場ダムに対し、地元住民は最初、反対の立場だった。だが、国との長期間の話し合いの結果、次第に住民も軟化し、2000年代に入ると、水没予定地の住民は次々と移転に応じていった。
地元では今、建設されるダムを目玉に、観光客を誘致して経済振興を図ろうとの動きもある。
こうした地元にとって、いまさら中止といわれても、納得できないのは無理からぬことだろう。
ダム建設の総工費は4600億円だ。うち約3200億円は関連工事などに投入済みである。1都5県も多くを負担しており、国の都合で中止すれば、これを返還しなければならない。
前原国交相は、中止の場合、自治体の負担分を返還する考えを示しているが、その財源は貴重な国民の税金である。
一方で、地元での環境整備事業などは継続するとしており、これにも相当な資金が要る。結局、ダムの完成より、中止した方が余計にお金がかかる計算だ。
前原国交相は、そうした損得勘定も考慮に入れる必要がある。
住民感情と生活再建。
それと事業費の比較。
読売社説は、建設推進の理由としてこの二つを挙げている。
ところで、建設継続の場合と中止の場合とでの今後の事業費については、読売は根拠を示してはいないが、恐らく国交省発表の数字に依っているのだろう。
この数字には異論も出されているのは周知の事実である。
ところで今後の検証で、客観的で正確な数字が示され、中止の方が有利ということが明らかになった場合、読売社説氏は、どのような結論を出すことになるのか。
費用をとるのか住民感情を優先させるのか?
答えは分かっている。
建設推進を主張するはずである。
しかし、そこには住民感情に対する思いやりではなく、別な意図が透けて見えている。
住民の情の部分を煽りながら、本音は別のところにある。
マスコミの動きの底には”利”がある。
公明党の新党首以下のメンバーが前原国交相の1日前に八ッ場に乗り込んでいる。
生活再建と完成に期待 (公明新聞:2009年9月23日)
視察後、山口代表は記者団の質問に答え、「(住民は)生活再建とダムの完成を期待していると感じた」と指摘。前原国交相に対しては「(代替地で)実際に生活が始まっているところや、温泉の(移転)予定地をよく見てほしい。結論ありきではなくて、白紙の状態で、住民の意見を聞いていただきたい」と述べ、住民の声に誠実に耳を傾けるべきだと訴えた。
公明党は”理”を言うことなく、”情”の部分に耳を傾け、住民に同情を示してだけで帰ってきている。
”情”に対する支持の表明である。
八ッ場ダム 『建設中止 撤回を』 (東京新聞 TOKYO Web 2009年9月23日)
会場には水没地区の住民ら約五十人が集まった。最初に大沢正明知事が「地元と協議せずに一方的に中止表明されて非常に残念。八ッ場ダムは首都圏にとっても重要なダムだ」と強調。同町の高山欣也町長も「住民はダム建設と生活再建を交換条件に苦渋の選択をした」と説明した。住民からは「中止決定と聞いて八ッ場ダムが満杯になるほどの悔し涙を流した」「下流都県の利水や治水のために先祖伝来の田畑を提供せざるを得なかった住民の苦労を分かってほしい」などと訴える声が相次いだ。
いずれも”情”に訴える言葉が並ぶ。
ところで、テレビで繰り返し流されていた住民の一人、星河さんという女性が墓地で涙をながして訴えていた場面は、”情”に訴える一番の映像であった。
「ダム建設に翻弄されて死んでいった人になんと言ったらいいのか」、と言うようなことを語っていた姿には、”理”を超えた強さがあった。
これらの住民の方の言葉はわたしに、いわゆる”歴史認識”をめぐって繰り返される主張を思い起こさせる。
わたしたちの夫や父たちは、侵略戦争を遂行するために命を落としたのか。
彼等の死を犬死にというのか。
彼等は国を守るために正しい戦争で死んだのだと思わなければ、死んでいった人たちがかわいそうだ。
だからあの戦争は正しかった。
このような論理・主張には面と向かっての反論はしにくい。
ところで、この星河さんが実は建設推進派の町会議員だったらしい。
「到底中止受け入れられない」八ツ場ダム 地元町議会が意見書可決 (産経ニュース 2009.9.17 )
水没予定地区出身の星河由紀子町議は議会で「前原国交相の発言を聞き、(昨夜は)一睡もできなかった。ダム(問題で)で費やした時間を返してほしい」と憤り「これからが正念場。町は今後どう対応するのか」と質問。
確かに星河さんも地元住民の一人であることには違いなかろうが、分かってみると、”情”の部分も大分いかがわしい色合いを帯びてくる。
民主党の”理”
住民の”情”
そしてその後ろに、対立を煽る利益集団とマスコミの”利”
八ッ場ダムの決着は他の建設中の140余のダムの命運にもかかわる。
多かれ少なかれ他のほとんどのダムにおいても似たような問題が潜んでいるだろう。
”利”の集団にとっては、八ッ場ダム問題は一つのダムの問題では済まないのである。
真っ先に排除すべきは”利”である。
後は”理”による”情”の説得である。
政治は、”理”が基本である。
政の次は官と財とマスコミと!
古書 那珂書房
特に歴史書が充実しています
”情”と”理”の戦いになってしまっているところが、解決を難しくしている。
いわば非対称の争いといえるだろう。
”理”は建設中止にある。
建設続行は”情”に属する。
そしてマスコミは”情”の部分を煽っている。
八ッ場ダム中止 公約至上主義には無理がある(9月24日付・読売社説)
民主党の政権公約(マニフェスト)墨守の危うさが、最初に顕在化した例といえよう。
国土交通省が群馬県内に建設中の八ッ場(やんば)ダムのことである。
不思議な文章である。
マニフェストを掲げて戦った政党がそのマニフェストを実行に移すことを、”マニフェスト墨守の危うさ”と言う。
マニフェスト不履行のススメとでも言おうか。
しかしこれは読売に限らず全マスコミの基本的な姿勢のようである。
民主党は衆院選のマニフェストで、無駄な公共事業の実例としてこのダムを名指しし、政権交代後の建設中止を明記していた。
前原国交相は就任直後、公約通りダム建設中止を宣言したが、建設推進を求める地元住民らの意向を無視した一方的な発表だったことで、反発が一気に広がった。
事態がここまでこじれた以上、前原国交相は建設中止発言を撤回し、白紙の状態で自治体や住民と話し合うべきではないか。
「事態がここまでこじれた以上」というが、建設反対運動の激しさはこんなものではなかったはずた。
何年にも渡る反対運動が繰り広げられているときに、国交省にダム建設の白紙撤回を読売が求めたかどうかは分からない。
政権発足まだ10日足らずである。
「ここまでこじれた」というのは早過ぎるであろう。
それと並行して、ダム建設のメリット、デメリットを慎重に再検討し、政府としての最終方針を決めても遅くはあるまい。
50年以上前に計画が持ち上がった八ッ場ダムに対し、地元住民は最初、反対の立場だった。だが、国との長期間の話し合いの結果、次第に住民も軟化し、2000年代に入ると、水没予定地の住民は次々と移転に応じていった。
地元では今、建設されるダムを目玉に、観光客を誘致して経済振興を図ろうとの動きもある。
こうした地元にとって、いまさら中止といわれても、納得できないのは無理からぬことだろう。
ダム建設の総工費は4600億円だ。うち約3200億円は関連工事などに投入済みである。1都5県も多くを負担しており、国の都合で中止すれば、これを返還しなければならない。
前原国交相は、中止の場合、自治体の負担分を返還する考えを示しているが、その財源は貴重な国民の税金である。
一方で、地元での環境整備事業などは継続するとしており、これにも相当な資金が要る。結局、ダムの完成より、中止した方が余計にお金がかかる計算だ。
前原国交相は、そうした損得勘定も考慮に入れる必要がある。
住民感情と生活再建。
それと事業費の比較。
読売社説は、建設推進の理由としてこの二つを挙げている。
ところで、建設継続の場合と中止の場合とでの今後の事業費については、読売は根拠を示してはいないが、恐らく国交省発表の数字に依っているのだろう。
この数字には異論も出されているのは周知の事実である。
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費用をとるのか住民感情を優先させるのか?
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住民の情の部分を煽りながら、本音は別のところにある。
マスコミの動きの底には”利”がある。
公明党の新党首以下のメンバーが前原国交相の1日前に八ッ場に乗り込んでいる。
生活再建と完成に期待 (公明新聞:2009年9月23日)
視察後、山口代表は記者団の質問に答え、「(住民は)生活再建とダムの完成を期待していると感じた」と指摘。前原国交相に対しては「(代替地で)実際に生活が始まっているところや、温泉の(移転)予定地をよく見てほしい。結論ありきではなくて、白紙の状態で、住民の意見を聞いていただきたい」と述べ、住民の声に誠実に耳を傾けるべきだと訴えた。
公明党は”理”を言うことなく、”情”の部分に耳を傾け、住民に同情を示してだけで帰ってきている。
”情”に対する支持の表明である。
八ッ場ダム 『建設中止 撤回を』 (東京新聞 TOKYO Web 2009年9月23日)
会場には水没地区の住民ら約五十人が集まった。最初に大沢正明知事が「地元と協議せずに一方的に中止表明されて非常に残念。八ッ場ダムは首都圏にとっても重要なダムだ」と強調。同町の高山欣也町長も「住民はダム建設と生活再建を交換条件に苦渋の選択をした」と説明した。住民からは「中止決定と聞いて八ッ場ダムが満杯になるほどの悔し涙を流した」「下流都県の利水や治水のために先祖伝来の田畑を提供せざるを得なかった住民の苦労を分かってほしい」などと訴える声が相次いだ。
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「ダム建設に翻弄されて死んでいった人になんと言ったらいいのか」、と言うようなことを語っていた姿には、”理”を超えた強さがあった。
これらの住民の方の言葉はわたしに、いわゆる”歴史認識”をめぐって繰り返される主張を思い起こさせる。
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彼等の死を犬死にというのか。
彼等は国を守るために正しい戦争で死んだのだと思わなければ、死んでいった人たちがかわいそうだ。
だからあの戦争は正しかった。
このような論理・主張には面と向かっての反論はしにくい。
ところで、この星河さんが実は建設推進派の町会議員だったらしい。
「到底中止受け入れられない」八ツ場ダム 地元町議会が意見書可決 (産経ニュース 2009.9.17 )
水没予定地区出身の星河由紀子町議は議会で「前原国交相の発言を聞き、(昨夜は)一睡もできなかった。ダム(問題で)で費やした時間を返してほしい」と憤り「これからが正念場。町は今後どう対応するのか」と質問。
確かに星河さんも地元住民の一人であることには違いなかろうが、分かってみると、”情”の部分も大分いかがわしい色合いを帯びてくる。
民主党の”理”
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そしてその後ろに、対立を煽る利益集団とマスコミの”利”
八ッ場ダムの決着は他の建設中の140余のダムの命運にもかかわる。
多かれ少なかれ他のほとんどのダムにおいても似たような問題が潜んでいるだろう。
”利”の集団にとっては、八ッ場ダム問題は一つのダムの問題では済まないのである。
真っ先に排除すべきは”利”である。
後は”理”による”情”の説得である。
政治は、”理”が基本である。
政の次は官と財とマスコミと!
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