政治の季節【稗史(はいし)倭人伝】

稗史とは通俗的な歴史書等をいいます。
現在進行形の歴史を低い視点から見つめます。

櫻井よしこ氏の産経での主張について

2009-08-13 18:05:17 | 政治
これまでわたしは、櫻井よしこ氏の書いたものを読んだこともないし、読もうと思ったこともなかった。
間接的に他の人が櫻井よしこ氏に言及したものを目にしたり、あるいはテレビでの発言を耳にした限りでは、わたしにはまったく関心外の存在であった。
しかし、総選挙を目前にして麻生や自民党の傍若無人とも言える右傾化発言が際だってきていると感じていたところに、彼女の主張を産経が載せているのに行き当たった。
この低俗な、思想ともいえない思想の持ち主を保守論壇のスターともてはやす勢力が存在することには驚く。

反論と言うほどのものではなく単なる感想程度のものではあるが、わたしの思うところを彼女の書いているところに沿って述べたい。

【櫻井よしこ 麻生首相に申す】名誉挽回に死力尽くせ (msn産経ニュース 2009.8.13 )
今月末の総選挙に向けた自民・民主両党の主張は日本における政治の矜持(きょうじ)の喪失と保守勢力の凋落(ちょうらく)を痛感させる。日本はいま、歴史を重ねて蓄えてきたすべての力を使い切ろうとしているかのようだ。


「保守勢力の凋落」と彼女は嘆いているが、それが具体的にどのような状況を指して言っているのか、残念ながら彼女の主張にろくに触れたことのないわたしには分からない。
「日本はいま、歴史を重ねて蓄えてきたすべての力を使い切ろうとしているかのようだ」という部分についても同じである。

日本のすべての力は、歴史のなかで先人たちの苦労によって培われてきた。にもかかわらず、麻生太郎首相も鳩山由紀夫民主党代表も、あまりにも日本の土台を構築する価値観や歴史に無神経である。両党首の下の自覚なき政治で、先人の残した諸々の価値観がいまや消し去られてしまいそうだ。

「日本の土台を構築する価値観や歴史」、「先人の残した諸々の価値観」が失われることに懸念を抱き、怒っているらしい。
ただしここで言う、”消し去られてしまいそうな価値観や歴史”が何を指しているかは、やはりまだわたしには明らかでない。

8月15日、麻生首相も鳩山代表も靖国神社には参拝しないらしい。首相の言い分は「国家のために尊い命を捧(ささ)げた人たちを政争の具にするのは間違っている。(靖国神社は)政治やマスコミの騒ぎから最も遠くにおかれてしかるべきもの。もっと静かに祈る場所だ」というものだ。

「日本の土台を構築する価値観や歴史」、「先人の残した諸々の価値観」というのは靖国神社に象徴されるものであるらしい。
彼女が靖国好きであることはうすうすわたしも知ってはいた。
どうやら彼女は麻生や鳩山が靖国にお参りに行かないと言ったことに腹を立てているらしい。

本気であろうか。靖国神社参拝は長年「政争の具」にされてきた。中国が靖国参拝を日本抑圧の切り札とし、切り札を突きつけられた日本側が砕け続けてきた。政争の具にしないためには、まずこの構図を打ち破り、靖国参拝を巡る状況を正常化することだ。日本の首相が「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのに、外国政府に言われてとりやめるという異常からの脱出が正常化への第一歩だと気づき、熱い心をもって全力で臨まなければならない。そのこともなしに参拝を避けるとしたら、それは、無気力の極みである。異常を是として、異常を継続することにほかならない。

彼女は「政争の具」という言葉を使うことによって、靖国を政治から切り離したところに置きたがっている。
というより政治の上におきたがっているようだ。
しかしこの認識は間違っている。
靖国は政治と宗教という憲法上の問題でもある。
政争の具ではなく政治のテーマである。
議論・論争は当然のことである。

彼女は、”「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊する”ことを絶対的に正しいと考えているらしい。
そして、「国家のために尊い命を捧げた人たち」の霊が靖国にあると考えているらしい。
「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのは総理大臣の義務であると考えているらしい。

しかし、「国家のために尊い命を捧げた人たち」という定義そのものに既に櫻井よしこの情緒が色濃く入り込んでいる。
「過去の戦争で死んだ軍人」ではなく「国家のために尊い命を捧げた人たち」と表現した時点ですでにその態度は決まってしまっている。
「国家のために尊い命を捧げた人たち」という表現・定義に対して彼女は聊かの疑問も抱いていない。

彼女が8月15日にこだわるのも理解しがたい。
8月15日は太平洋戦争の終わった日である。
靖国神社には幕末以来の戦死者がまつられている。
太平洋戦争とは関わりない人たちも多いはずである。
「国家のために尊い命を捧げた人たち」の慰霊というなら、他の日でもいいのではないのか?

 吉田茂以来、不幸にも戦後日本に根を張った政治風土の最も深刻な欠陥は、この種の、異常を正常と思い込む価値観の倒錯である。総選挙を前に国民に訴えるべきは、返済不要の奨学金や農家への戸別補償の効用ではなく、靖国参拝に象徴される日本人の心の問題である。

「この種の、異常を正常と思い込む価値観の倒錯」を「戦後日本に根を張った政治風土の最も深刻な欠陥」と言うが、そうは思わない人たちも多い。
政官業の癒着構造、国民をないがしろにした政治、力を頼んで民主主義を蹂躙してきた政治の在り方、そんなものこそ「最も深刻な欠陥」と考える人たちも多いのである。
もちろんわたしも後者に属する。

「国民に訴えるべきは、返済不要の奨学金や農家への戸別補償の効用ではなく、靖国参拝に象徴される日本人の心の問題である」
なぜ「日本人の心の問題」が靖国に象徴されるのか。
明治に作られた靖国神社になぜ「「日本の土台を構築する価値観や歴史」が象徴されるのか?
「日本の土台を構築する価値観や歴史」の出発点をどこに求めているのかは分からないが、少なくとも明治維新あたりにそれを求めるのは少々近視眼的に過ぎよう。
もし、それまでの歴史を凝縮したものが靖国でありそれが現在に繋がっているというようなことを言う人があれば、それは詭弁というものであるし、日本の歴史に対する無知を表していると言うべきである。

 だが、首相が国民に語りかけていることのほとんどが金銭、物質に関する事柄でしかない。国家の基本的な問題点、たとえば安全保障、増大する中国の脅威、激変する米国外交こそを訴えるべき時、バラ撒(ま)きから透視される有権者への迎合こそ見苦しい。首相は日本の最も深刻な欠陥である安全保障の不備に関して、集団的自衛権さえも打ち出せていない。

以前から不思議に思っているのだが、”靖国好き”と”戦争好き”は”ぴったり”と言っていいほど重なる。
”靖国が好きだから戦争が好きなのか”それとも”戦争が好きだから靖国が好きなのか”
”戦争好き”という言葉が気に入らないと言うのなら”軍隊好き”と言い換えてもいい。

 占領下、吉田は日本の再軍備に抵抗し、ついにまともな軍隊を作らせずして引退した。米国のダレス特使に対しては、「日本を広い意味で米国にインコーポレート(合体)してほしい」とさえ述べ、米国の庇護(ひご)の下での経済優先を貫いた。吉田は引退後、軍事をないがしろにしたことを悔いたが、冷徹に言えば、それは繰り言にすぎない。物事をなすべき地位にあるとき、政治家は国益だけを考えて全力で事をなさなければならない。それなくしては、辞した後の言葉は虚(うつ)ろである。

「物事をなすべき地位にあるとき、政治家は国益だけを考えて全力で事をなさなければならない」というが、吉田が経済優先を貫いたのはそれが国益であると考えたからではないのか。
中国や諸外国との摩擦を避けて靖国参拝をしない、という判断も国益を考えた判断ではないのか?
櫻井よしこ氏は靖国参拝こそが何者にもまさる国益優先の態度であると考えているらしい。
しかし、国益の判断は人により、状況により異なるものであろう。

 麻生首相は、就任直後の2008年9月、ニューヨークで集団的自衛権について「基本的に解釈を変えるべきものだ」と語った。

                   ◇

 だが、首相は集団的自衛権の解釈を変更するどころか、その件に触れることもなく、選挙に臨もうとしている。首相は祖父と同じ間違いを犯し、後世に憂いを残すのか。

 そのうえ、「静かに祈る場所」と言って、靖国神社には近づかないのか。静かな祈りは口実か。「保守」の首相のそんな祈りを英霊たちは喜びはしないだろう。


今度は”英霊”である。
「国家のために尊い命を捧げた人たちの霊」を「英霊」と言い換える。
「首相のそんな祈りを英霊たちは喜びはしないだろう」
まるで霊媒師か巫女さんのようだ。
”霊”の存在を信じるかどうかは個人の自由に属する。
不思議なことを言う人だ。

 首相以上に、鳩山代表の靖国についての考え方は奇妙である。氏は8月11日、党本部で、「(靖国神社に)参拝するつもりはない」、民主党内閣が誕生する場合、「閣僚にも(参拝を)自粛するよう言いたい」と明言した。

 「村山談話」に関しては、「尊重し、談話の思いを十分に受けた政権にする」と強調した。先の大戦について、日本が間違っていたとし、ひたすら「心からのお詫び」を強調する「談話の思い」を鳩山氏は「十分に尊重」するそうだ。

 次期政権をうかがう二大政党の党首がいずれも、国家のために努力し、戦い、敗北し、命を落とした人々の魂を、慰め、鎮め、感謝の祈りを捧げることを、他国に気兼ねして行わないと表明したことに、私は深い喪失感を抱く。日本はここまで大事な価値観を失ってしまったのか。精神の支柱を腐らせたかのようなこんな国がほかにあるだろうか。


「国家のために努力し、戦い、敗北し、命を落とした人々の魂を、慰め、鎮め、感謝の祈りを捧げること」
戦争での死をどう考えるかも、個人の思想の自由に属する。
あるいは死そのものについても同様である。
櫻井よしこ氏に押しつけられることではない。

 鳩山氏はまた、非核三原則について、8月9日、「法制化を党としてしっかり検討する」と述べた。2日後には「本当に(法制化が)なじむかは検討の中で議論したい」と後退したが、そもそも「非核三原則は法律を超えた国是」というのが氏の考えだ。

 北朝鮮が核を保有し、日本を射程にとらえ得る中国の核ミサイルはすでに1000基を超えた。核抑止の担保は日本の安全保障上、死活的重要事だ。結果、非核三原則はいまや守るのではなく、見直しこそが必要である。鳩山氏の三原則論は日本を脅威の前に裸で立たせるようなものだ。


急に文章の格調が下がってきた。
言ってることが麻生並みであれば仕方がない。
以下、保守の論客とは思えない低俗な主張が続く。
読む価値もないものであるが、ついでだから載せておく。
麻生批判以外は、自民党の連中がすでに散々言ってきたことである。

 一方、政と官の関係を新たに規定する公務員制度改革について、麻生、鳩山両党首の言葉は共に、国民を騙(だま)すものである。麻生内閣の改革案は、結局、政治に対する官僚支配を強める内容となった。同案は廃案となったが、民主党案は、おそらく、自民党案より酷(ひど)い内容になる。鳩山氏は、幹事長だった今年6月30日、政権をとれば「局長クラス以上は辞表を出していただき」、民主党の大胆な官僚改革を行うとした。だが、いま「法的には難しい。辞表という形に必ずしもならない」と語る。長年、人事院と労組の連合の間には協調関係があった。民主党はその連合の支持を当てにする。大胆な公務員制度改革を阻む構図のなかに民主党が存在するのであり、事実、改革案の後退が早くも始まっているのだ。

 こうしてみると、民主党の政策には多くの疑問符をつけなければならない。だが、麻生首相のふがいなさゆえに、自民党に期待することも難しいのだ。そのふがいなさを、首相はいま、だれよりも深く肝に銘じよ。名誉挽回(ばんかい)に死力を尽くせ。


標題は「麻生首相にもの申す」となってはいるが、最後は麻生への叱咤激励である。
結局は「血は水よりも濃い」ということか。

読み終えた後のわたしの感想

櫻井よしこ氏は、思想家というよりは宗教家と呼んだ方がいいのではないか。





裁判員制度廃止!天下り禁止!議員世襲禁止!


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