山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

「冷たい世論」に民主主義の成熟を見た

2004年04月16日 | 社会時評
イラクで人質3人が解放された。無事であることも確認されたようだ。今回の事件では、人質家族らに対して批判や中傷が相次いだと報じられた。3人の行動と目的について、朝日と毎日が賞賛する一方、読売と産経は軽率との批判を強くにじませる論調を打ち出した。


国民世論も二つに分かれたが、総じて「自己責任」と突き放す意見が多く聞かれたような気がする。「人命は地球より重い」として乗っ取り犯の要求に応じたダッカ事件に比べると、世論の冷たさが目立った。

家族への脅迫まがいの批判とあいまって、この「冷たい世論」を危惧する意見も聞かれる。「他人事のよう」「傍観しているだけ」となじる声もある。有事法制やメディア規制の動きと合わせ「全体主義」の危うい空気を感じる人もいるようだ。しかし、私は実は正反対の印象を持っている。「冷たい世論」の背景に、むしろ日本社会の民主主義の成熟を見た気がするのだ。

無論、家族への脅迫などは論外の卑劣な行動だ。インターネットなどのメディア上にあふれた中傷も、殺害の可能性があった時点では誉められたものではないと思う。それでも、一部家族の居丈高に政府を批判する姿には違和感を通り越して、嫌悪感に近いものを感じた。人質の安否は気掛かりだったが、家族が叫ぶ姿がテレビに映るとチャンネルを替えた。

想像するに、家族たちには、北朝鮮に拉致された被害者家族の行動が念頭にあったように思う。首相との面会を求め拒否されると憤る。外相の対応を「官僚的」と批判し、仲間の集会で「全力を尽くす、全力を尽くすと政府は言うが、そんなの当たり前でしょ」と声を荒げて非難する。

しかし、忘れてはならないのは、拉致被害者と、今回の人質との間には大きな違いがあるということだ。拉致被害者は、学校帰りの中学生など、多くが日本国内で平和な日常生活を送っていた人達である。加えて彼らが拉致された疑惑が早い段階から報じられていたのに、日本政府が手を尽くして来なかったことも事実であり、被害者家族の政府に対する批判、不信感には十分うなづけるものがある。

今回の人質事件では、政府は実にうまく対応をしたと思う。表面上、普段と何も変わらない活動を維持しながら、各方面を通じて解放に向けた水面下での動きを続けた。そうした努力は今後もしばらくは表に出ないだろうが、外務省を初めとする政府職員の労には敬意がはらわれて当然だ。

一部被害者家族の言動には、そうした政府の対応を無視しているか、あるいは「当然」と受け止めているフシがあった。解放を受けての会見でも、「世界中の皆さん」に感謝するだけで、政府関係者の労をねぎらう肉声は、現段階で聞こえてこない。NGOのデモや署名活動が、犯行グループを動かした側面も確かにあるだろう。それにしても、家族のこうした言動には、やはりクビを傾げざるを得ない。

事件のさなか、川口外相が「退避勧告の出た場所へ行ったことは残念」とコメントし、外務事務次官が「同僚職員は現地で命がけの情報収集をしている」と不快感を示したのも当然のことだ。平沼前経産相や中川経産相からも「自己責任をわきまえよ」との趣旨の発言が相次いだ。

ある立場の人からみると、こうした閣僚の発言は冷たく、不遜に聞こえるようだ。「国会議員である大臣は国民の代表であり、行政機関とは独立した存在」という意識が、日本人にはある。ダッカ事件では、冷静な対応を進言する警察官僚を「人命重視」を訴える閣僚の感情的意見が押し切った。かつての日本では、これが国民から求められる政治家像だった。

今回の事件での一連の閣僚発言は、あたかも大臣と行政とが一体化しているかのようだ。一見それは「閣僚が官僚にコントロールされている」ように見える。しかし、実態は、一昔前に比べて、行政に対する政治の主導権が確立されていることの現れだと、私は評価している。

ダッカ事件の頃は、官庁にとって大臣は「お客さま」だった。客人であるがゆえに、他人事のように「我々国民の人命を優先しろ」と無責任な命令を下すこともできたのだ。政治家が、国家の危機を我が事として認識していれば、あのような結論には至らなかったはずだ。

一般国民の世論にも、同じ事が言える。今回の事件では、首相や大臣、官僚と同じ視点で、日本に付き付けられた刃(やいば)に国民は真剣に向き合った。犯人の要求に屈して自衛隊を撤退させたらどうなるか。冷静に判断した上で、「撤退拒否」の政府判断を多数の国民が支持した。

民主主義とは根本的に「自治」の思想である。自治の世界では、(1)国民(2)国民から選ばれた大臣(3)大臣が動かす官僚機構―の3者は一体であるはずだ。その意味で、今回のイラク人質事件への冷静な対応は、日本の民主主義の成熟を示したものと言えるだろう。

一方で、こうした世論の成熟は、諸刃の剣でもある。民主主義の成熟が「物分りのよい世論」を形成し、結果的に権力の暴走を許してしまった教訓は、世界史の教科書にあふれている。太平洋戦争前夜の日本の国論が、明治の自由民権的反骨精神から、大正デモクラシーを経て変質し「成熟期」に達していたことも事実である。

日本の民主主義と世論の成熟を喜ぶと同時に、我々国民はそうした成熟が権力者の思惑に利用されないよう、心の中に「反骨精神」を保ちつつ、政府の行動を注視していかなくてはならない。そんなことを考えさせられた事件だった。(了)

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