山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

ナショナリズムを考える

2004年07月23日 | 社会時評
人間はこの世に産まれてから物心がつく頃まで、およそ「親」という絶対権力の支配のもとにあり、そのことに疑問を抱くことなく成長する。「物心がつく」とは自分自身を社会の中の客観的存在として認識することで、「自我を得る」と言い換えることも可能だろう。

自我を得る過程(「思春期」とも呼ばれる)では、自己と他人との比較から生じる「劣等感」を克服しながら、誇りの持てる自分像を探し続ける。それは同時に、長く絶対権力として君臨し続けてきた「親」を客観的に観察し、その干渉を拒否して独立を模索する「反抗期」でもある。

こうした葛藤を経て、人間は社会的存在である「個人」として新たに誕生するのだ。独立を手にする過程で、人はそれぞれに自らを敬う気持ち(=自尊心、プライド)を身に付ける。

自尊心は危険な衝動をはらんでいる。大半の個人は、自らの自尊心と同様に他者の自尊心も認め、社会生活の共生を学ぶのだが、まれに他者の自尊心を認めず、かつ他者に対しても自分と同じように自らを敬うよう強制する未熟者が存在する。

自尊心は、個人の内面にとどまる限り有益なものだが、ひとたびそれが他者の人格の上に主張されると、似て非なる「高慢」へと変質する。自尊心と異なり、高慢は社会生活に有害なだけである。

高慢な未熟者は他者との衝突を繰り返す。ある者は社会に出て更正するが、中には更正を拒否し、完全にドロップアウトしてしまう者もいる。高慢さを改めさせ、更正に導いてくれる存在を得た者は、ある意味で幸福である。更正後は、正しい自尊心を持ち、個人として社会生活を送ることが出来るだろう――。

長々と「個人の成長と自尊心」について書いたのは、それが「近代国家の成立とナショナリズム」を考える上で大いに参考になるからだ。上で述べた内容を国家に当てはめて考えてみよう。

<ある国は、成立してから近代化を実現する頃まで、およそ「神」や「君主」という絶対権力の支配のもとにあり、そのことに疑問を抱くことなく発展する。「近代化を実現する」とは、自国を世界の中の客観的存在として認識することであり、「国民国家になる」と言い換えることも可能だろう。

国民国家になる過程(「産業革命」とも呼ばれる)では、自国と他国との比較から生じる「劣等感」を克服しながら、誇りの持てる国家像を探し続る。それは同時に、長く絶対権力として君臨し続けてきた「神」や「君主」を客観的に観察し、その干渉を拒否して独立を模索する「民主化」の過程でもある。

こうした葛藤を経て、ある国は「国民国家」として新たに誕生するのだ。独立を手にする過程で、各国の国民はそれぞれに自国を敬う気持ち(=ナショナリズム、愛国心)を身に付ける。

ナショナリズムは危険な衝動をはらんでいる。大半の国家・国民は、自国と同様に他国のナショナリズムも認め、国際社会での共生を学ぶのだが、まれに他国のナショナリズムを認めず、かつ他国に対しても自分と同じように自国を敬うよう強制する未熟な国家・国民が存在する。

ナショナリズムは、それが国家の内面にとどまる限り有益なものだが、ひとたび他国の領域上に主張されると、似て非なる「帝国主義」へと変質する。ナショナリズムと異なり、帝国主義は国際平和に有害なだけである。

帝国主義者は他国との衝突を繰り返す。ある国家は国際社会に参画することで更正するが、中には更正を拒否し、完全にドロップアウトしてしまう国家もある。帝国主義を改めさせ、更正に導かれる機会を得た国家は、ある意味で幸福である。更正後は、正しいナショナリズムを持ち、独立国家として国際社会で名誉ある地位を得ることが出来るだろう>

――こう考えると、ある国家の近代化は、個人の成長過程によく似ていることが分かる。明治の日本は正に「自我」を得たばかりの若い国家だった。坂の上の雲を目指して殖産興業の道をまい進し、世界に誇る近代国家をつくり上げた。

大国と思っていた清朝や、帝政ロシアに武力で勝ったという自信は、やがて若き日本の「自尊心」を「高慢」へと変質させた。一足先に大人になった日本は、朝鮮や台湾に優越を感じ、軽蔑するようになった。国民主義(ナショナリズム)は国境を越えた途端に、帝国主義(インペリアリズム)へと堕落していったのだ。

最近、若年層を中心に不健全なウヨ(=右翼)思想が蔓延していると聞く。漫画やインターネットにあふれる反米、反中国、反北朝鮮、反韓国の論調を意識したものだろう。「ぷちナショナリズム」という造語でも指摘されるこうした現象は、しかしながら、長くナショナリズムそのものを「悪しき国家主義」としてタブー視してきた戦後民主主義への反動のようにも見える。

「ぷちナショナリズム」が批判の対象とする米国、中国、北朝鮮、韓国には、いずれも他国の内政に干渉したがる傾向がある。特にアジアの3国は長い間、若いナショナリズムのはけ口を「反日運動」へと向けてきた。

繰り返しになるが、ナショナリズムとは国民統合のエネルギーであり、それが国家の内面にとどまる限り、決して有害なものではない。しかし、中国や韓国のように、愛国心が「反日」や「反米」と結び付いたとき、それは醜い「帝国主義」や「覇権主義」へと変質する危険性を持つ。中国などに反発する日本の「ぷちナショナリスト」たちも、自らの内面にある愛国心が他者への寛容を失わないよう、十分注意を払わなくてはならない。

主権侵害には断固として闘わなくてはならないが、どんなに気高い愛国精神も、ある一線を越えれば、ただの「高慢な偏狭心」に変わるのだ。そして、その「一線」は限りなく不確かで、無色透明なのである。

日露戦争後の日本が経験した「ほろ苦い青春」は、ナショナリズムと帝国主義が紙一重であることを教えてくれている。(了)




最新の画像もっと見る