ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

8月12日と言う日に、一言(20220812)

2022年08月12日 | 忘れてはいけないこと

おはようございます。本日は2022年8月12日(金)

 1985年8月12日に起きたことを私は忘れない。こう書いて、何が起きたのだっけと思う皆さんが多数派なのだろう。中曽根康弘政権の時代(82年ー87年)です。日航機123便墜落事故です。520名が亡くなった。ボーイング747が群馬の山中に落っこちた。

 ただしこの事故はただの事故ではありません。裏がある。当時の私は中曽根行革反対に忙しく、まだ軍事研究を始めていなかったので、おぼろげな記憶でしかなかった。123便が消息を絶ったとのニュースを聞いて、変だなと思いました。まともにとベず、しかるべき飛行場におりれなければ、海に誘導するのが常道でしょう。不時着水すれば、ほぼ全員が死ぬことはなかった。しかし何故か群馬と長野の境にある山の中に誘導され墜落。何があったのかはともかく、おかしい。おかしすぎる、とその夜直感しました。「生き証人を絶滅せよ」の指示があったのではないでしょうか。人命が無視され、軍命令が上位に?

 私は疑い続けています。まだ私が「横田空域」のことすら知らなかった時代のことです。このブログにも少々書いています。興味のある方は是非お読みください。

日航123便墜落の真相を考える(上)(20200815) - ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

 この続きを書けないままでいますが、私の疑念は変わりません。このとき私たちは現地の山を歩き、墜落現場を歩いています。放射能の調査に行ったのです。帽子などの遺品が木々にかけられていました。ただ当時の私は今のような軍事的な理由に思い至っていませんでした。私はヤマヤ(登山者)でしたから、記事になった見取り図と地形図をみながら墜落現場のあちこちを探し当てました。こんな所は、一人では歩けないと思いました。幽霊が出ます。亡くなった方々、ご家族/友人たちにとってみれば、無念でしょう。「圧力隔壁の事故」で片付けられたのですから、なおさらです。自衛隊がその証拠物件を切り刻んで捨てていました。証拠隠滅です。

 そして2004年8月13日は、言わずと知れた米軍ヘリCH-53が沖縄国際大1号館に落ちた日。こちらも本日のタイムスに「避難援助頼めない」「炎上アカギ風化進む」とある。あれから18年。小泉政権の時でした。アフガン・イラク戦争の渦中で、演習が激しく、整備不十分だったようです。夏休みだったから運良く死傷者は出なかった。1週間にわたって大学(現場付近)が米軍に占拠された。米日地位協定の力です。証拠隠滅。

 どちらの事故・事件も重大な証拠隠滅がはかられていたのです。こう並べると、どちらにも日米地位協定が陰に陽に張り付いています。日航機が誘導され、墜落した現場は「横田空域」をまたいでいますから、米軍の了解がなければ入れない空域です。

 人の命は重いと言われながら、政治が一枚、2枚かむと、おかしなことになる。

 中曽根の「戦後政治の総決算」が行革を進め、総評を解体し、国鉄の分割民営化をはかり、社会党を分解させていく巨大な力を伴っていました。中曽根行革が安倍政治の基礎をつくったのです。この「戦後政治の総決算」が貫徹されていなければ、「安倍晋三という政治家」は誕生しなかった、できなかったでしょう。

 この2つの事件(1985年と2004年)を挟んで、私は沖縄に関わっていきました。1989年5月から。2004年9月から辺野古の海で、ボーリング調査が始まりました。それでも当時の沖縄の人々は、これを阻止したのです。微力でも止めたのでした。それから18年の歩みは重たいです。

 一つの事件・事故も政治の流れに組み込まれると、一面(表面)だけでは、見えなくなっていきます。視界を失うのです。人為的なリングワンデリングに追い込まれます。現在位置と向かうべき方向を見失います。政治がまき散らし濃霧は、私たちが晴らすしかありません。晴らせます。

 

 



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