◎以下の文章は「うちなんちゅの怒りとともに!三多摩市民の会」が発行する「沖縄の怒りと共に」(第127号)に寄稿したものです。前号からの続き
※長いです。資料からの引用が多く、番号等で整理しましたが、読みにくい。ご容赦願います。
◎前号は以下
メインタイトル「基地の島 沖縄島・琉球諸島のリアルについてー私たちが正面から戦争と平和を議論するために
本稿タイトル(3)1972年の自衛隊沖縄移駐後の53年を考える(中)
(1) 沖縄返還(交渉)の闇と自衛隊
① 沖縄返還交渉と自衛隊
私は前号で1971年6月17日に締結された「沖縄返還協定」の中に自衛隊に関 する取極は含まれておらず、69年11月21日の日米共同声明第6項に自衛隊の移駐が記されたと書いた。さらに具体的に71年6月29日久保卓也防衛庁防衛局長とウォルター・L・カーチス・ジュニア在日米国大使館首席軍事代表が「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」をまとめたことを紹介した。
以下、この取極が如何に具体化したかを述べるつもりだった。しかし返還交渉・返還協定の流れをもう少し注意深く読み直したい。こう考えたのは、前田哲男著「自衛隊の歴史」(1994年6月刊)を読むと、自衛隊の歴史を考察する上で沖縄返還と自衛隊に関する事項が何ひとつふれられていなかったのだ。唖然とした。著者は自衛隊問題の第一線の識者だった。沖縄返還協定は67年~71年にかけてのことであり、1970年反安保闘争は安保・沖縄・自衛隊の3点セットで論じられていたはずだ。今思い起こせば、随分議論の底が浅かったのだ。在沖縄ヤマトンチュの私は、改めて克服していきたいと考える。
そこで何冊かの返還交渉を巡る著書に目を通した。三木健著「ドキュメント沖縄返還交渉」(2000年1月刊)の第5章三の「沖縄防衛構想と4次防」を読んだ。第4次防衛力整備計画は、1972年~76年度の防衛計画であり、自衛隊の沖縄移駐は沖縄返還後の「日本国防衛」に直結していたはずだ。
本稿タイトル(3)1972年の自衛隊沖縄移駐後の53年を考える(中)
(1) 沖縄返還(交渉)の闇と自衛隊
① 沖縄返還交渉と自衛隊
私は前号で1971年6月17日に締結された「沖縄返還協定」の中に自衛隊に関 する取極は含まれておらず、69年11月21日の日米共同声明第6項に自衛隊の移駐が記されたと書いた。さらに具体的に71年6月29日久保卓也防衛庁防衛局長とウォルター・L・カーチス・ジュニア在日米国大使館首席軍事代表が「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」をまとめたことを紹介した。
以下、この取極が如何に具体化したかを述べるつもりだった。しかし返還交渉・返還協定の流れをもう少し注意深く読み直したい。こう考えたのは、前田哲男著「自衛隊の歴史」(1994年6月刊)を読むと、自衛隊の歴史を考察する上で沖縄返還と自衛隊に関する事項が何ひとつふれられていなかったのだ。唖然とした。著者は自衛隊問題の第一線の識者だった。沖縄返還協定は67年~71年にかけてのことであり、1970年反安保闘争は安保・沖縄・自衛隊の3点セットで論じられていたはずだ。今思い起こせば、随分議論の底が浅かったのだ。在沖縄ヤマトンチュの私は、改めて克服していきたいと考える。
そこで何冊かの返還交渉を巡る著書に目を通した。三木健著「ドキュメント沖縄返還交渉」(2000年1月刊)の第5章三の「沖縄防衛構想と4次防」を読んだ。第4次防衛力整備計画は、1972年~76年度の防衛計画であり、自衛隊の沖縄移駐は沖縄返還後の「日本国防衛」に直結していたはずだ。
② 沖縄防衛構想と4次防
同書の中に「沖縄返還に向けての態勢作りの中でも、特に政府にとって大きかったのは、防衛の肩替わり、つまり自衛隊の沖縄への配備だった」とある。なかでも「防衛庁では返還後の自衛隊の展開について早くから関心を持っていた」とあり、同庁は69年から担当官を沖縄に派遣し、検討を重ねていたようだ。佐藤栄作首相は69年頃から「自主防衛」論を打ち出していた。さらに「アジアの主役」足ることを示唆し、「沖縄返還」と「自主防衛」をセットで論じるようになったと指摘されている。
有田喜一防衛庁長官は、1969年10月、4次防の基本方針として、①沖縄防衛、②海上自衛力の強化、③基地周辺対策、④兵器の国産化の推進を掲げた。
沖縄(琉球諸島と大東諸島)が日本国に返還されれば、日本国の「領土」はともかく、「海域・空域」はドンと広がる。日本防衛の範囲は東西南北に拡大する。そうなると「防衛力」と言おうが、武力を中心とした「能力向上」は避けられまい。
1976年7月に発刊された「防衛白書」(「防衛白書」第1号)を読むと、ポスト4次防の草案が示唆されている。しかし返還された沖縄に一言も言及せず、「基盤的防衛力構想」を打ち出した。これは「平和時の防衛力」だと前置きしながら、小規模の侵略に対抗できる戦闘部隊と後方支援部隊などの有機的、体系的な拡充を打ち出している。
(2)1967年~71年の沖縄返還交渉で、日本政府は何を企図したのだろうか?
ここまで再認識できれば、自衛隊の沖縄移駐は、新たな日本領土・領海の防衛(地理的拡大)に留まらない「毒」をもっていたと考えるべきだろう。当時の私は、そんな知恵を持っていなかった。軍事とはウルトラ・リアルなものだという認識を欠き、沖縄へのリアルな認識もなかったからだ。
以下、沖縄返還をふり返りながら、この国の安全保障(軍事力構想)の転換について考えたい。
① 米国政府の思惑
ジャーナリストの河原仁志さんが「沖縄50年の憂鬱―新検証・対米返還交渉-」(光文社新書2022年刊)を著している。著者は、この50年を振り返りながら、第1章「復帰の背景」、第2章「交渉の経緯」、第3章「合意の舞台裏」、第4章「密約の実態」、第5章「半世紀の検証」に沿って論じている。この50年を日本政府側と米国政府側双方から読み解いている。
本稿の絡みで考えると、第2章が重要だ。アレクシス・ジョンソン米国大使が下田武三外務省事務次官(いずれも当時)にもちかけ、1967年5月、初めての秘密会合が行われた。日米安全保障協議委員会の下部組織に秘密会が組織されたのだ。日米の要職が集い意見交換したという。要は沖縄返還交渉の過程で「近い将来予想される沖縄返還の際に日本に防衛意識を根付かせて米国の負担を軽減し、極東の安全保障に日本を関与させる構想」が論じられていく。
ジョンソン大使は、沖縄返還を単なる「領土の返還」ではなく、「安全保障」問題として考えよと、日本の官僚に迫ったのだ。「沖縄の施政権返還は、その地域の軍事行動について日本が米国と共に政治責任を分担するという意味で考えているのであり、その責任を回避するような方策は採用できない」と、国防総省次官補代理ハルペリンは言いきったという。
② 日米政府が考える「本土並み」とは?
佐藤首相は「核抜き、本土並み」返還を主張した。米国は返還後も沖縄の基地を「自由使用させる」ことを狙っていた。「核抜き」は形式であり、日本国側は「有事再持ち込み」を内諾しており(核密約)、米国政府は返還以前のように基地の自由使用を確保したかったのだ。
日米政府が考える「本土並み」とは、「安保条約を本土と同じように適用すること」だと思われがちだが、その裏側に「安保条約では到底認められない沖縄基地の本来目的を、曖昧な形で日本側が容認するマジックワード」だったと著者は指摘している。
因みに、1960年1月に交わされた日米安保条約第6条にこうある。「日本国の安全に寄与し、ならびに極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および海軍が日本国において基地を使用することを許される」。一方で返還前の沖縄は米国の施政権下にあり、米国の世界大の軍事戦略を支える基地だったのだ。安保条約が規定する「極東」は、米国が狙う軍事戦略の一部にすぎず、大きな溝が開いていた。当時は米ソ冷戦構造があり、何よりも米国はベトナム・インドシナ戦争の渦中にあった。佐藤政権は、この「本土並み」を乱用し、日本国民を、何よりも沖縄の人々を欺いたのだ。「本土並み」を唱え,沖縄の民意を顧みず、「沖縄」と「本土」を分断していたのだ。
③ 米日両首脳が「極東の平和と安全」を重ねて交わした1969年11月共同声明
河原さんは、同書第3章「合意の舞台裏」の「共同声明には何が隠されてきたのか」で、佐藤栄作首相とリチャード・M・ニクソン大統領の間に交わされた1969年11月21日の共同声明(15項目に及ぶ)を論じている。
私なりに再整理すれば、「2。(前略)大統領は、アジアに対する大統領自身および米国政府の深い関心を披瀝し、この地域の平和と繁栄のため日米両国があい協力して貢献すべきであるとの信念を述べた。総理大臣は,日本はアジアの平和と繁栄のために今後も積極的に貢献する考えであることを述べた」。両者の「平和と繁栄」は、明らかに米国中心の繁栄と利益に貢献するものだ。当時は、ベトナム戦争の渦中だった。佐藤首相は、米国の国益に積極的に寄り添おうとしていた。軍事力行使を支持する「平和と繁栄」は何を意味していたのだろうか?
4項で「総理大臣は(中略)韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」と延べ「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」と述べた。ベトナムに対しては、両者は「ベトナム戦争が沖縄の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした」と他人事の如く述べ、「総理大臣は、日本としてはインドシナ地域の安定のために果たしうる役割を探求している旨を述べた」とはぐらかしていた。
真意を測りかねる文章が続くが、米国が沖縄を日本に返還するに当たって、「6.(前略)両者は、日米両国の安全保障上の利益は、沖縄の施政権を日本に返還するための取極において満たしうることに意見が一致した。よって両者は,日本を含む極東の安全を損なうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取極に関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した」。この後段に「総理大臣は、復帰後は沖縄の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐々にこれを負う」と日本政府の意図を明らかにした。両者は、「米国が、沖縄において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することに意見が一致」とあるのだ。
こうしてニクソン大統領と佐藤首相は「両国共通の安全保障」なる文言の中に、米国の意思(軍事)をより深く認め合う関係を了解したようだ。
米国政府は1969年11月の日米首脳会談や1971年6月17日の「沖縄返還協定」を通じて、日本政府を米国の「極東の平和と安全」の下に置き、沖縄にある米軍基地を初め、在日米軍基地総体の「自由使用」を確保したのだ。「日米地位協定」が交わしている条項・条文を越えて米国優先にしていることもあるのだ。だからこそ私は、しばしば「米日安保体制」だと表現している。
(2)「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」から
本紙前号で、私は米日両国が交わした上記取極を整理した。久保卓也防衛庁防衛局長とウォルター・L・カーチス・ジュニア在日米国大使館主席軍事代表(海軍中将)による上記の「取極」(1969年6月29日)だ。
① 取極の結論
「日本国による局地防衛責務の引き受けー陸上防衛、防空、海上哨戒及び防衛庁がその任に当たる捜索・救難を引き受ける」。
➁自衛隊の沖縄移駐のスケジュール
「日本国による引き受けの時期―沖縄復帰日後、1973年7月1日以前の実施可能な最も早い日まで。
A 当初展開―日本国は、復帰日後約6ヶ月以内に、約3200人からなる次の部隊を展開する。
(イ)陸上自衛隊:司令部、普通科(引用者註:歩兵部隊)中隊2、施設中隊 1、航空隊1、支援隊1、その他の部隊
(ロ) 海上自衛隊:基地隊1,対潜哨戒機隊1、その他部隊
(ハ)航空自衛隊:司令部、要撃戦闘機部隊1、航空警戒管制隊1(引用者註:基地等防護・防空のためのレーダー部隊)、航空基地隊1、その他の部隊
B 追加展開―日本国は更に1973年7月1日までに、地対空ミサイル防空を実施し、及び航空警戒管制組織を運用するために、ナイキ群1(3個中隊)、ホーク群1(4個中隊)及び適当な支援要員を展開」。
③施設・位置
「A:防衛庁は、次の施設に部隊を配置する意図を有する。
a.那覇空港 航空自衛隊の要撃戦闘機隊その他の部隊及び陸上自衛隊の航空隊、海上自衛隊の対潜哨戒機隊も那覇空港を使用する。
b.那覇ホイール(引用者註:那覇空港の東側で那覇軍港の西側一帯) 陸上自衛隊の部隊及び必要に応じその他の自衛隊の部隊
c.ホワイトビーチ地区(引用者註:勝連半島東側)及び那覇港 海上自衛隊の部隊。桟橋、集荷場その他施設の海上自衛隊による使用のため、地位協定第2条4項(a)(引用者註:合衆国軍隊が使用していないとき自衛隊が日米合同委員会で合議の上、使える)に基づく必要な取り扱いを行う。
d.ナイキ・ホーク及び航空警戒管制隊が使用中の施設及び区域。自衛隊の地対空ミサイル及び航空警戒管制隊。
同書の中に「沖縄返還に向けての態勢作りの中でも、特に政府にとって大きかったのは、防衛の肩替わり、つまり自衛隊の沖縄への配備だった」とある。なかでも「防衛庁では返還後の自衛隊の展開について早くから関心を持っていた」とあり、同庁は69年から担当官を沖縄に派遣し、検討を重ねていたようだ。佐藤栄作首相は69年頃から「自主防衛」論を打ち出していた。さらに「アジアの主役」足ることを示唆し、「沖縄返還」と「自主防衛」をセットで論じるようになったと指摘されている。
有田喜一防衛庁長官は、1969年10月、4次防の基本方針として、①沖縄防衛、②海上自衛力の強化、③基地周辺対策、④兵器の国産化の推進を掲げた。
沖縄(琉球諸島と大東諸島)が日本国に返還されれば、日本国の「領土」はともかく、「海域・空域」はドンと広がる。日本防衛の範囲は東西南北に拡大する。そうなると「防衛力」と言おうが、武力を中心とした「能力向上」は避けられまい。
1976年7月に発刊された「防衛白書」(「防衛白書」第1号)を読むと、ポスト4次防の草案が示唆されている。しかし返還された沖縄に一言も言及せず、「基盤的防衛力構想」を打ち出した。これは「平和時の防衛力」だと前置きしながら、小規模の侵略に対抗できる戦闘部隊と後方支援部隊などの有機的、体系的な拡充を打ち出している。
(2)1967年~71年の沖縄返還交渉で、日本政府は何を企図したのだろうか?
ここまで再認識できれば、自衛隊の沖縄移駐は、新たな日本領土・領海の防衛(地理的拡大)に留まらない「毒」をもっていたと考えるべきだろう。当時の私は、そんな知恵を持っていなかった。軍事とはウルトラ・リアルなものだという認識を欠き、沖縄へのリアルな認識もなかったからだ。
以下、沖縄返還をふり返りながら、この国の安全保障(軍事力構想)の転換について考えたい。
① 米国政府の思惑
ジャーナリストの河原仁志さんが「沖縄50年の憂鬱―新検証・対米返還交渉-」(光文社新書2022年刊)を著している。著者は、この50年を振り返りながら、第1章「復帰の背景」、第2章「交渉の経緯」、第3章「合意の舞台裏」、第4章「密約の実態」、第5章「半世紀の検証」に沿って論じている。この50年を日本政府側と米国政府側双方から読み解いている。
本稿の絡みで考えると、第2章が重要だ。アレクシス・ジョンソン米国大使が下田武三外務省事務次官(いずれも当時)にもちかけ、1967年5月、初めての秘密会合が行われた。日米安全保障協議委員会の下部組織に秘密会が組織されたのだ。日米の要職が集い意見交換したという。要は沖縄返還交渉の過程で「近い将来予想される沖縄返還の際に日本に防衛意識を根付かせて米国の負担を軽減し、極東の安全保障に日本を関与させる構想」が論じられていく。
ジョンソン大使は、沖縄返還を単なる「領土の返還」ではなく、「安全保障」問題として考えよと、日本の官僚に迫ったのだ。「沖縄の施政権返還は、その地域の軍事行動について日本が米国と共に政治責任を分担するという意味で考えているのであり、その責任を回避するような方策は採用できない」と、国防総省次官補代理ハルペリンは言いきったという。
② 日米政府が考える「本土並み」とは?
佐藤首相は「核抜き、本土並み」返還を主張した。米国は返還後も沖縄の基地を「自由使用させる」ことを狙っていた。「核抜き」は形式であり、日本国側は「有事再持ち込み」を内諾しており(核密約)、米国政府は返還以前のように基地の自由使用を確保したかったのだ。
日米政府が考える「本土並み」とは、「安保条約を本土と同じように適用すること」だと思われがちだが、その裏側に「安保条約では到底認められない沖縄基地の本来目的を、曖昧な形で日本側が容認するマジックワード」だったと著者は指摘している。
因みに、1960年1月に交わされた日米安保条約第6条にこうある。「日本国の安全に寄与し、ならびに極東における国際の平和および安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および海軍が日本国において基地を使用することを許される」。一方で返還前の沖縄は米国の施政権下にあり、米国の世界大の軍事戦略を支える基地だったのだ。安保条約が規定する「極東」は、米国が狙う軍事戦略の一部にすぎず、大きな溝が開いていた。当時は米ソ冷戦構造があり、何よりも米国はベトナム・インドシナ戦争の渦中にあった。佐藤政権は、この「本土並み」を乱用し、日本国民を、何よりも沖縄の人々を欺いたのだ。「本土並み」を唱え,沖縄の民意を顧みず、「沖縄」と「本土」を分断していたのだ。
③ 米日両首脳が「極東の平和と安全」を重ねて交わした1969年11月共同声明
河原さんは、同書第3章「合意の舞台裏」の「共同声明には何が隠されてきたのか」で、佐藤栄作首相とリチャード・M・ニクソン大統領の間に交わされた1969年11月21日の共同声明(15項目に及ぶ)を論じている。
私なりに再整理すれば、「2。(前略)大統領は、アジアに対する大統領自身および米国政府の深い関心を披瀝し、この地域の平和と繁栄のため日米両国があい協力して貢献すべきであるとの信念を述べた。総理大臣は,日本はアジアの平和と繁栄のために今後も積極的に貢献する考えであることを述べた」。両者の「平和と繁栄」は、明らかに米国中心の繁栄と利益に貢献するものだ。当時は、ベトナム戦争の渦中だった。佐藤首相は、米国の国益に積極的に寄り添おうとしていた。軍事力行使を支持する「平和と繁栄」は何を意味していたのだろうか?
4項で「総理大臣は(中略)韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」と延べ「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」と述べた。ベトナムに対しては、両者は「ベトナム戦争が沖縄の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした」と他人事の如く述べ、「総理大臣は、日本としてはインドシナ地域の安定のために果たしうる役割を探求している旨を述べた」とはぐらかしていた。
真意を測りかねる文章が続くが、米国が沖縄を日本に返還するに当たって、「6.(前略)両者は、日米両国の安全保障上の利益は、沖縄の施政権を日本に返還するための取極において満たしうることに意見が一致した。よって両者は,日本を含む極東の安全を損なうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取極に関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した」。この後段に「総理大臣は、復帰後は沖縄の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐々にこれを負う」と日本政府の意図を明らかにした。両者は、「米国が、沖縄において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することに意見が一致」とあるのだ。
こうしてニクソン大統領と佐藤首相は「両国共通の安全保障」なる文言の中に、米国の意思(軍事)をより深く認め合う関係を了解したようだ。
米国政府は1969年11月の日米首脳会談や1971年6月17日の「沖縄返還協定」を通じて、日本政府を米国の「極東の平和と安全」の下に置き、沖縄にある米軍基地を初め、在日米軍基地総体の「自由使用」を確保したのだ。「日米地位協定」が交わしている条項・条文を越えて米国優先にしていることもあるのだ。だからこそ私は、しばしば「米日安保体制」だと表現している。
(2)「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取極」から
本紙前号で、私は米日両国が交わした上記取極を整理した。久保卓也防衛庁防衛局長とウォルター・L・カーチス・ジュニア在日米国大使館主席軍事代表(海軍中将)による上記の「取極」(1969年6月29日)だ。
① 取極の結論
「日本国による局地防衛責務の引き受けー陸上防衛、防空、海上哨戒及び防衛庁がその任に当たる捜索・救難を引き受ける」。
➁自衛隊の沖縄移駐のスケジュール
「日本国による引き受けの時期―沖縄復帰日後、1973年7月1日以前の実施可能な最も早い日まで。
A 当初展開―日本国は、復帰日後約6ヶ月以内に、約3200人からなる次の部隊を展開する。
(イ)陸上自衛隊:司令部、普通科(引用者註:歩兵部隊)中隊2、施設中隊 1、航空隊1、支援隊1、その他の部隊
(ロ) 海上自衛隊:基地隊1,対潜哨戒機隊1、その他部隊
(ハ)航空自衛隊:司令部、要撃戦闘機部隊1、航空警戒管制隊1(引用者註:基地等防護・防空のためのレーダー部隊)、航空基地隊1、その他の部隊
B 追加展開―日本国は更に1973年7月1日までに、地対空ミサイル防空を実施し、及び航空警戒管制組織を運用するために、ナイキ群1(3個中隊)、ホーク群1(4個中隊)及び適当な支援要員を展開」。
③施設・位置
「A:防衛庁は、次の施設に部隊を配置する意図を有する。
a.那覇空港 航空自衛隊の要撃戦闘機隊その他の部隊及び陸上自衛隊の航空隊、海上自衛隊の対潜哨戒機隊も那覇空港を使用する。
b.那覇ホイール(引用者註:那覇空港の東側で那覇軍港の西側一帯) 陸上自衛隊の部隊及び必要に応じその他の自衛隊の部隊
c.ホワイトビーチ地区(引用者註:勝連半島東側)及び那覇港 海上自衛隊の部隊。桟橋、集荷場その他施設の海上自衛隊による使用のため、地位協定第2条4項(a)(引用者註:合衆国軍隊が使用していないとき自衛隊が日米合同委員会で合議の上、使える)に基づく必要な取り扱いを行う。
d.ナイキ・ホーク及び航空警戒管制隊が使用中の施設及び区域。自衛隊の地対空ミサイル及び航空警戒管制隊。
B:合衆国は、自衛隊の受信及び送信施設の設置に協力するものとし、かつ可能な場合、合衆国軍隊の施設及び区域内にこれらの通信施設を受け入れることを考慮する」。
以下、「防空」、「地対空ミサイル及び航空警戒管制組織」、「陸上防衛、海上哨戒及び捜索・救難」の項目ごとに自衛隊の主たる任務と留意点がとりまとめられている(前号参照)。
④ 返還後の米軍基地の取り扱い
また米日間で「(基地に関する)了解覚書」がまとめられた。既成の米軍基地を3分類し、復帰後も米軍が継続使用する基地(A表)、適当な時期に返還される基地(B表)、即時返還される基地(C表)に分けられた。しかし返還後も自衛隊が使う場所が大半を占め、沖縄に返還されたわけではない。
自衛隊基地は,米軍基地の一部が返還されて、造られた。これは単純な事実に見えるが、この意味は深いだろう。土地(米軍が占領し接収した)、施設と諸設備の整備(米軍が使っていた施設や武器の移管)、部隊(米国が日本の再軍備を1950年に命じ、警察予備隊、52年保安隊、54年、自衛隊)の移駐。繰り返すが、「日本国による(米軍への)局地防衛責務の引き受け」だ。
どう見ても、日本国の独立どころか、対米従属を深めるばかりだと言うしかあるまい。
(2) 沖縄返還後の自衛隊移駐
以下,上記取極が如何に具体化されたのかを「沖縄の米軍基地-平成30年(2018年)」(沖縄県知事公室基地対策室編)を参照しながら見ていこう。
以下、「防空」、「地対空ミサイル及び航空警戒管制組織」、「陸上防衛、海上哨戒及び捜索・救難」の項目ごとに自衛隊の主たる任務と留意点がとりまとめられている(前号参照)。
④ 返還後の米軍基地の取り扱い
また米日間で「(基地に関する)了解覚書」がまとめられた。既成の米軍基地を3分類し、復帰後も米軍が継続使用する基地(A表)、適当な時期に返還される基地(B表)、即時返還される基地(C表)に分けられた。しかし返還後も自衛隊が使う場所が大半を占め、沖縄に返還されたわけではない。
自衛隊基地は,米軍基地の一部が返還されて、造られた。これは単純な事実に見えるが、この意味は深いだろう。土地(米軍が占領し接収した)、施設と諸設備の整備(米軍が使っていた施設や武器の移管)、部隊(米国が日本の再軍備を1950年に命じ、警察予備隊、52年保安隊、54年、自衛隊)の移駐。繰り返すが、「日本国による(米軍への)局地防衛責務の引き受け」だ。
どう見ても、日本国の独立どころか、対米従属を深めるばかりだと言うしかあるまい。
(2) 沖縄返還後の自衛隊移駐
以下,上記取極が如何に具体化されたのかを「沖縄の米軍基地-平成30年(2018年)」(沖縄県知事公室基地対策室編)を参照しながら見ていこう。
1.那覇空港-1972年5月15日返還協定了解覚書C表により,自衛隊に引き継がれた。同年10月、航空自衛隊は南西航空混成団那覇基地開所。第83航空隊、沖縄航空警戒管制隊などを編成。
72年11月、運輸省航空局長と防衛庁防衛局長「那覇飛行場の使用等に関する協定」を締結。
72年11月21日、陸上自衛隊101飛行隊(大型ヘリの運用)が新編された。12月1日、緊急患者空輸を米軍から引き継ぐ。
72年12月、海上自衛隊臨時沖縄航空隊新編(P-2J対潜哨戒機6機)。
73年1月、空自、対領空侵犯措置(スクランブル発進)開始。
73年2月、空自、臨時高射訓練隊新編。
73年10月、空自沖縄航空隊新編。南西航空混成団に編合(第83航空隊、南西航空警戒管制隊、第5高射群、那覇基地隊、南西航空施設隊)。
などが整備され、航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊の航空部門が整えられ、防空、海上哨戒、捜索・救難などの作戦が動き出した。
72年11月、運輸省航空局長と防衛庁防衛局長「那覇飛行場の使用等に関する協定」を締結。
72年11月21日、陸上自衛隊101飛行隊(大型ヘリの運用)が新編された。12月1日、緊急患者空輸を米軍から引き継ぐ。
72年12月、海上自衛隊臨時沖縄航空隊新編(P-2J対潜哨戒機6機)。
73年1月、空自、対領空侵犯措置(スクランブル発進)開始。
73年2月、空自、臨時高射訓練隊新編。
73年10月、空自沖縄航空隊新編。南西航空混成団に編合(第83航空隊、南西航空警戒管制隊、第5高射群、那覇基地隊、南西航空施設隊)。
などが整備され、航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊の航空部門が整えられ、防空、海上哨戒、捜索・救難などの作戦が動き出した。
2.那覇ホイール-72年5月、返還協定覚書C表により自衛隊に引き継がれる。
72年10月1日、陸自那覇駐屯地開設。臨時第1混成団設置。
73年10月16日、第1混成団発足。
74年6月5日、特別不発弾処理班が特別不発弾処理隊に改編。
80年2月14日、米軍施設の一部を、陸自が訓練場として共同使用。
82年3月31日、米軍が上記用地を返還し、陸自が訓練場として使用。
72年10月1日、陸自那覇駐屯地開設。臨時第1混成団設置。
73年10月16日、第1混成団発足。
74年6月5日、特別不発弾処理班が特別不発弾処理隊に改編。
80年2月14日、米軍施設の一部を、陸自が訓練場として共同使用。
82年3月31日、米軍が上記用地を返還し、陸自が訓練場として使用。
3. ホワイトビーチ地区(うるま市。勝連半島)-72年5月、C表に基づき自衛隊に引き継がれる。
72年5月15日、臨時勝連管理隊新編(3名)。海上自衛隊佐世保地方隊傘下。
72年7月16日、臨時沖縄基地隊新編(71名)。
73年10月16日、沖縄基地隊新編(本部、第35掃海隊、第23輸送艇隊、那覇連絡所)(177名)
74年9月30日第23輸送艇隊解除。
ここに海自掃海隊部隊を置いたのは、米国海軍艦艇を防護するためだろう。
72年5月15日、臨時勝連管理隊新編(3名)。海上自衛隊佐世保地方隊傘下。
72年7月16日、臨時沖縄基地隊新編(71名)。
73年10月16日、沖縄基地隊新編(本部、第35掃海隊、第23輸送艇隊、那覇連絡所)(177名)
74年9月30日第23輸送艇隊解除。
ここに海自掃海隊部隊を置いたのは、米国海軍艦艇を防護するためだろう。
4.ナイキ・ホークおよび航空警戒管制隊が使用中の施設および区域、自衛隊の対空ミサイルおよび航空警戒管制隊
この区分に該当する航空自衛隊対空ミサイル基地は、那覇基地那覇高射教育訓練場(那覇市)(第5高射群第17高射隊)、那覇基地知念高射隊教育訓練場(南城市)(第5高射群第18高射隊)、那覇基地恩納高射教育訓練場(恩納村・金武町(第5高射群第16高射隊)がある。いずれも米国陸軍基地から引き継がれ、73年10月16日に各高射隊として新編された。
空自警戒管制隊として、那覇基地与座岳分屯基地(八重瀬町)、那覇基地久米島分屯基地(久米島町)、那覇基地宮古島分屯基地(宮古島市)がある。いずれも米軍が運用していた航空通信施設を自衛隊が引き継いだ。与座岳分屯基地は72年10月1日、臨時沖縄航空警戒管制与座岳分遣隊編成、72年11月2日、B表に基づき返還され自衛隊に引き継がれる。73年3月30日、第56警戒群新編。
久米島分屯地は、72年10月11日臨時沖縄航空警戒管制隊久米島分遣隊編成、72年11月2日、73年5月20日、B表に基づき自衛隊に引き継がれ、73年5月20日第54警戒群新編。宮古島分屯地は、72年10月11日、B表に基づき、一部返還され,自衛隊に引き継がれる。73年2月15日、第53警戒群新編。
また陸上自衛隊の対空ミサイル部隊は,以下の通り。那覇駐屯地八重瀬分屯地(八重瀬町)は米軍からB表に基づき73年2月15日自衛隊に返還され、73年4月13日与座分屯地発足(2006年八重瀬分屯地に名称変更)。那覇駐屯地知念高射教育訓練場(南城市)は73年4月6日B表に基づき返還され、開設された。同じく那覇駐屯地白川高射教育訓練場(沖縄市・恩納村)は72年5月15日、米軍が知花サイトとして使用していたものを共同使用。73年4月23日、知花サイトが返還され,その大部分を陸自が使用。73年5月1日、コザ分屯地開設。74年4月11日白川高射教育訓練場に名称変更。那覇駐屯地勝連高射教育訓練場(うるま市)は、73年5月1日B表に基づき返還され、勝連高射教育訓練場開設。
以上の対空レーダーと対空ミサイル部隊は、嘉手納基地などを防護するためのものだ。
5.まとめ
72年5月15日の沖縄の日本国への「返還」は、自衛隊の「局地防衛」能力を整備しながら進められた。軍事力としては確かに小規模だったが、この国は、武装組織である自衛隊を沖縄に置き、不発弾の処理や急患の搬送、災害救援などで点数を稼ぎ、宣撫工作に成功したのだ。72年前後に盛り上がった、反軍(反皇軍)の勢いは,急速に失速していった。
佐藤栄作首相が推進した「沖縄返還」の道は、反安保闘争などによる反米意識を払拭し、日米安保体制を「極東」から世界大に拡張していく道だっただろう。
私たちは,米日安保体制が米軍と「自衛隊」の共同・統合作戦態勢を執るようになった現在、根本的な見直しをはからねばなるまい。私は現場を直視し、歴史を辿り直しながら、なお頑張りたい。(次号に続く)
この区分に該当する航空自衛隊対空ミサイル基地は、那覇基地那覇高射教育訓練場(那覇市)(第5高射群第17高射隊)、那覇基地知念高射隊教育訓練場(南城市)(第5高射群第18高射隊)、那覇基地恩納高射教育訓練場(恩納村・金武町(第5高射群第16高射隊)がある。いずれも米国陸軍基地から引き継がれ、73年10月16日に各高射隊として新編された。
空自警戒管制隊として、那覇基地与座岳分屯基地(八重瀬町)、那覇基地久米島分屯基地(久米島町)、那覇基地宮古島分屯基地(宮古島市)がある。いずれも米軍が運用していた航空通信施設を自衛隊が引き継いだ。与座岳分屯基地は72年10月1日、臨時沖縄航空警戒管制与座岳分遣隊編成、72年11月2日、B表に基づき返還され自衛隊に引き継がれる。73年3月30日、第56警戒群新編。
久米島分屯地は、72年10月11日臨時沖縄航空警戒管制隊久米島分遣隊編成、72年11月2日、73年5月20日、B表に基づき自衛隊に引き継がれ、73年5月20日第54警戒群新編。宮古島分屯地は、72年10月11日、B表に基づき、一部返還され,自衛隊に引き継がれる。73年2月15日、第53警戒群新編。
また陸上自衛隊の対空ミサイル部隊は,以下の通り。那覇駐屯地八重瀬分屯地(八重瀬町)は米軍からB表に基づき73年2月15日自衛隊に返還され、73年4月13日与座分屯地発足(2006年八重瀬分屯地に名称変更)。那覇駐屯地知念高射教育訓練場(南城市)は73年4月6日B表に基づき返還され、開設された。同じく那覇駐屯地白川高射教育訓練場(沖縄市・恩納村)は72年5月15日、米軍が知花サイトとして使用していたものを共同使用。73年4月23日、知花サイトが返還され,その大部分を陸自が使用。73年5月1日、コザ分屯地開設。74年4月11日白川高射教育訓練場に名称変更。那覇駐屯地勝連高射教育訓練場(うるま市)は、73年5月1日B表に基づき返還され、勝連高射教育訓練場開設。
以上の対空レーダーと対空ミサイル部隊は、嘉手納基地などを防護するためのものだ。
5.まとめ
72年5月15日の沖縄の日本国への「返還」は、自衛隊の「局地防衛」能力を整備しながら進められた。軍事力としては確かに小規模だったが、この国は、武装組織である自衛隊を沖縄に置き、不発弾の処理や急患の搬送、災害救援などで点数を稼ぎ、宣撫工作に成功したのだ。72年前後に盛り上がった、反軍(反皇軍)の勢いは,急速に失速していった。
佐藤栄作首相が推進した「沖縄返還」の道は、反安保闘争などによる反米意識を払拭し、日米安保体制を「極東」から世界大に拡張していく道だっただろう。
私たちは,米日安保体制が米軍と「自衛隊」の共同・統合作戦態勢を執るようになった現在、根本的な見直しをはからねばなるまい。私は現場を直視し、歴史を辿り直しながら、なお頑張りたい。(次号に続く)