山 崎 泰(やまざき たい)のデイリーブログ
新宿区のTFS国際税理士法人理事長 山崎 泰が、「心に残る出来事」「忘れられない想い」をホンネで綴る、ズッコケ珍道中!
 



■東日本大震災から7年・・・

 早いもので、あの東日本大震災から7年・・・

 東日本大震災で、尊い命を落とされた皆様方のご冥福を、

 あらためて心よりお祈り申し上げますとともに、

 被災され、いまだに不自由な生活を余儀なくされている多くの皆様方に、心よりお見舞い申し上げます。


 あの時皆様は、どこで? 誰と?? 何を???

 あの時の衝撃、自らにできることはないだろうか。

 そして、7年経った今の私たちにできること。

 そのひとつは、原点となったその気持ちを忘れないこと。

 今からちょうど7年前、震災時の衝撃を振り返り続けること。。。

 7年前のあの日のブログ。。。

  

■2011年3月11日、午後2時46分! 

 私は、薬の処方のために立ち寄った調剤薬局を出て、

 信濃町駅近くの初めて入った定食屋で、

 新聞を読みながら一人で遅い昼食をとっていました。

 横揺れから始まったので、縦揺れでなかったことにホッとしたのも束の間。
 飲食店ゆえ火を使っていたので、急いで店主が火を消す。

 1階の店がテーブルごと大きく揺れて、

 居ても立ってもいられずに、

 落下物を気にしながらビルの外へ。

 外へ出ても、電柱はじめ全ての建物が揺れている。


  「いったい、何が起こったのか」「震源地は」「被害は」

  「自宅は大丈夫か」「家族は」「子どもは」「実家は」「職場は」

  「携帯電話が通じない」「携帯メールもだめ」「公衆電話はどこ」

  「テレホンカードもない、小銭は」

  「家まで、職場まで歩いて帰れるだろうか」

  「とにかく早く連絡をとらなければ」


 次の瞬間から、自転車に飛び乗り事務所へ。

 社員の安否確認。

 公衆電話に駆け込み妻と電話。

 子どもの迎えに自転車で学校へ。

 社員の帰宅を指示等々・・・



■気仙沼出身の知人が・・・

 実は、当社のデザイン制作等を一手に引き受け、

 当社ビルに入居までしていただいている、

 まさに公私ともに深い付き合いをしている知人が、気仙沼出身。

 社長が気仙沼、社員さんも気仙沼。

 いとこは気仙沼を地盤とする国会議員(今は防衛大臣)、私の松下政経塾の仲間。。。。

■被災直後に、何よりも欲しいもの → それは「???

 大地震の翌日、知人の会社に飛んで行きました。

 まさに会社そのものが、災害対策本部のよう。

 社長も社員も、みな気仙沼出身。

 誰一人として、親族と連絡がとれない状態。

 何と声をかけたらよいのか。


 24時間、テレビをつけっ放しにして、

 ソファに毛布を置いて、食い入るようにニュースを見ている。

 テレビから目が離せない。


 社長の実家には、祖母、両親、妹が住んでおられたとのこと。

 港からも近いので、実家はおそらく壊滅。

 津波から逃げ切れたかどうか・・・身内と連絡がとれない不安以上の辛さはないだろう。
 私が思ってみたところで、本人の心配そして辛さは想像を絶するものだろう。


 「今、何かお手伝いできることは?」
 「被災地に、何かできることは?」

 自らの非力も省みず、申し出た私に対する答えは?


■私達に何ができるか⇔被災者にとって何が必要か

『安否』が知りたい。

 被災直後に、被災者やその親族が何よりも求めているのは、水でも毛布でも食べ物でもなく『安否』

 そういえば、地震直後、まず私達が最初にしたことは何だっただろうか。

 家族や社員の『安否』を確認しようと、何度も携帯電話をかけ続けたのでは。

 ならば、被災者やそのご家族が、何よりも『安否』を知りたい、

 という気持ちに、当然のように気が付かなければならないはず。

 水や毛布???と、自分ができることだけ並べ立てて問うたことを、本当に恥ずかしく思う。

 「私達に何ができるのか」ということと、

 「被災者が本当に何を必要としているのか」とは、

 ややもすると、大きくすれ違ってしまう危険性。


■どんな思いで。。。

 震災から3日後・・・

 「時事通信の写真に偶然にも祖母が写っていたので、カメラマンにどのような状況だった」のか、問い合わせているところです」

 震災から4日後・・・

 「テレビで、自衛隊のヘリから救出された中に母の姿が映っていたので、急ぎテレビ局に確認しているところです」

 気仙沼の知人から、こんな電話が入ったのは、被災後一週間近くも経った後。
 その報せを聞いたとき、本当に涙があふれ出そうに嬉しく思いました。

 「でも、父と妹の安否が分からないのです」
 震災から10日後、やっとご家族全員の生存が確認された知人から、一通の便りが届きました。

■一通の手紙 

 「この度は、ご心配をおかけし、また業務上もご迷惑をおかけしているにもかかわらずご芳志を賜り、誠にありがとうございます。」
「おかげ様で家族全員の無事は確認したものの、叔父が遺体で発見されたり、叔母がいまだ不明であったり、未だ震災の余波が続いております。」
「津波の恐怖は、幼い頃から教わっていたつもりでした。明治29年に、今回の津波に匹敵する災害があったようですが、曾祖母でさえ生まれる前のことで、言い伝えでしか聞いておりませんでした。それが現実に起こって、夢かと思ったほどです。」
「被災地ではみな、たくましく生き抜いているようです。親心もありましょうが、両親からは邪魔だから帰ってくるなと釘をさされています。確かに、帰ったと ころでライフラインが整っていなければ、私も被災者になるだけですから、東京に残って、皆様のお役に立つことが被災地への励ましになると信じて頑張ろうと 思います。」


 被災地に飛んで帰りたい気持ちを押さえて、

 この東京の地から被災地の復興に尽力しようと決意するこの想いを、

 私達はどう受けとめればよいのか、

 どのような役に立ちかたがあるのだろうか。

 
 被災地への寄附、街頭での募金活動、そして救援物資集めをしながらも、

 夜も眠れないくらいに考え続けています。 

                 平成23年(2011年)3月
                           山   崎    泰



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